宮崎駿アニメ館とでも言うべき三鷹の「ジブリ美術館」建設が急ピッチで進んでいる。十月開館。




2001ソスN6ソスソス1ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

June 0162001

 浴衣着てからだが思ひ出す風評

                           すずきりつこ

あ、こういうこともあるのか。あるのだろうな。一年中、季節に関係なくほとんど同じような格好で過ごしている私には、とても新鮮に写った。夏の夕べ、作者は一年ぶりに浴衣を着ることにした。着た途端に、その肌触りから昨夏浴衣を着た頃に流れていた(らしい)「風評(うわさ)」のことを思い出した。すっかり忘れていたのに、頭ではなく「からだが思ひ出す」とは言い得て妙。おそらく自分についての好ましくない風評だろうが、着たばかりの浴衣に思い出さされてしまったのだ。浴衣を着たときのすがすがしい気分を詠んだ句はヤマのように作られてきたけれど、このようなアングルからの句は珍しい。意表を突かれた思い……。しかも、説得力は十分である。よく「からだで覚える」とか「からだに言い聞かせる」などと言うが、句のように「からだ」とは実に奥深くも面白いものだ。そうか、人間には「からだ」があったのだと、しばし自分の「からだ」に思いを走らせることになった。寝巻きにしていたくしゃくしゃの浴衣に、帯代わりの古ネクタイ。もう一度同じずぼらな格好をしてみたら、若き日の何かを私の「からだ」は思い出すのかもしれない。いや、きっと思い出すのだろう。『新日本大歳時記・夏』(2000・講談社)所載。(清水哲男)


May 3152001

 幻が傘の雫を切つてをり

                           真鍋呉夫

れた傘を畳むときに、パッパッと「雫(しずく)」を切る。この動作について考えたこともないが、できるだけ家の中に湿気を持ち込まないようにする知恵だ。知恵とも言えない知恵のようだけれど、見ていると幼児などは切らないから、やはり暮らしのなかで覚えていく実利的知恵の一つではある。ところが、掲句で雫を切っているのは実利とは無関係の「幻」だ。そんなことをしても、何にもならない。その前に、幻に傘の必要はない。が、句の湛えている暗い存在感は気になる。こいつはどこから滲み出てくるのかと、考えた。たとえば幻を故人の姿に見立てれば、一応の筋は通る。しかし、淡泊に過ぎる。もっと、この句は孤独な感じがする。この孤独感は、おそらく「切つてをり」の「をり」に由来するのだろう。「いる」ではなくて「をり」。「いる」だと対象を時空的に客観視することになるが、「をり」の場合は「いま、ここでの行為」と、時空を一挙に作者に引き寄せるからだ。すなわち「幻」とは作者自身のことだと読める。自分のありようを自嘲して「幻」と比喩したとき、無意識に雫を実利的に「切つてを」る自分があさましくも思え、いまここで「切つてを」るうちに自嘲がいや増した瞬間を詠んだ句と取っておきたい。平たく言えば、しょせん「幻」みたいな存在の俺が、何で馬鹿丁寧にこんなことやってんだろう、というところ。そんな当人の滑稽感もあるので、ますます句が暗く孤独に感じられるのではなかろうか。五月尽。間もなく雨の季節がやってくる。『定本雪女』(1998)所収。(清水哲男)


May 3052001

 ほととぎす晴雨詳しき曽良日記

                           大串 章

蕉『おくのほそ道』の旅に随行した曽良の日記は有名だ。しかし、『曽良旅日記』を単独で読み進める人は少ないだろう。たいていが『おくのほそ道』と場所を突き合わせながら読む。芭蕉の書いていない旅それ自体のディテールがよくわかり、いっそう臨場感が増すからだ。さて掲句だが、突然「ほととぎす」の鳴く声が聞こえてきた。そこでふと『ほそ道』の句を思い出したのだ。殺生石の件りに出てくる「野を横に馬牽きむけよほとゝぎす」である。手綱を取る馬方に短冊を望まれ、上機嫌となった芭蕉が「馬をそっちの方に引き向けてくれ、一緒に鳴き声を聞こうじゃないか」と詠んだ句だ。この日はどんな日だったのかと、作者は曽良の日記を開いてみた。いきなり「(四月)十九日 快晴」とある。眼前に、ぱあっと芭蕉たちのいる広野の光景が明るく広がった。作者の窓の空も、たぶん青空なのだ。推理めくが、ここに「快晴」と記されてなければ、この句はなかっただろう。「快晴」のインパクトにつられて、作者は日頃さして気にも留めていなかった旅日記の天気の項を追ってみた。と、実に詳しく「晴雨」の記述があるではないか。前日には地震があり「雨止」、翌日は「朝霧降ル」など。これだけでも後世の芭蕉理解に大いに貢献しているなと、作者はあらためて「曽良日記」の存在の貴重を思ったのである。……この読みは、独断に過ぎるかも知れない。実は掲句に触発されて『曽良旅日記』の天気の項を拾い読みしているうちに、作者は「ほととぎす」に触発されて曽良を開いたのだろうと思い、そうでないと句意が通らないような気になったのだった。『今はじめる人のための俳句歳時記・夏』(1997・角川mini文庫)所収。(清水哲男)




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