2001N6句

June 0162001

 浴衣着てからだが思ひ出す風評

                           すずきりつこ

あ、こういうこともあるのか。あるのだろうな。一年中、季節に関係なくほとんど同じような格好で過ごしている私には、とても新鮮に写った。夏の夕べ、作者は一年ぶりに浴衣を着ることにした。着た途端に、その肌触りから昨夏浴衣を着た頃に流れていた(らしい)「風評(うわさ)」のことを思い出した。すっかり忘れていたのに、頭ではなく「からだが思ひ出す」とは言い得て妙。おそらく自分についての好ましくない風評だろうが、着たばかりの浴衣に思い出さされてしまったのだ。浴衣を着たときのすがすがしい気分を詠んだ句はヤマのように作られてきたけれど、このようなアングルからの句は珍しい。意表を突かれた思い……。しかも、説得力は十分である。よく「からだで覚える」とか「からだに言い聞かせる」などと言うが、句のように「からだ」とは実に奥深くも面白いものだ。そうか、人間には「からだ」があったのだと、しばし自分の「からだ」に思いを走らせることになった。寝巻きにしていたくしゃくしゃの浴衣に、帯代わりの古ネクタイ。もう一度同じずぼらな格好をしてみたら、若き日の何かを私の「からだ」は思い出すのかもしれない。いや、きっと思い出すのだろう。『新日本大歳時記・夏』(2000・講談社)所載。(清水哲男)


June 0262001

 どくだみの花いきいきと風雨かな

                           大野林火

が家の近所には「どくだみ」が多い。あちこちに、群がって自生している。このあたりは古い地名では「品川上水」と言い、清水を通す大きな溝が掘られていて、全体的に湿地であったせいだろう。「どくだみ」は陰湿の地を好み、しかも日陰を好む。梅雨期を象徴するような花だ。川端茅舎に「どくだみや真昼の闇に白十字」の一句があるように、この花と暗さとは切っても切れない関係にある。その上にまた特異な臭気を放つときているから、たいていの人からは嫌われている。そのことを当人たち(!?)も自覚しているかのように、ひっそりと肩寄せ合って地味に生きている。その嫌われ者が、折からの「風雨」のなかで「いきいきと」していると言うのだ。物みな吹き降りの雨に煙ってしょんぼりしているなかで、「白十字」たちのみが「いきいき」と揺れている姿に、作者は感動を覚えた。雨の日の外出を鬱陶しく思っている心に、元気を与えられたのである。「どくだみ」は、十の薬効を持つと言われたことから「十薬(じゅうやく)」とも賞されてきた。「十薬の芯高くわが荒野なり」(飯島晴子)。ただし、正確にはこの黄色い穂状の「芯」の部分が花で、「白十字」は花弁ではなく苞(ほう)なのだそうだ。『俳句の花・下巻』(1997・創元社)所載。(清水哲男)


June 0362001

 床下を色鯉の水京の宿

                           桂 信子

語は「色鯉」。緋鯉や錦鯉など、金魚と同様に涼味を呼ぶことから夏の季語とされてきた。京都には都合六年間ほど住んだが、祇園辺りの「京の宿」のたたずまいならばともかく、門の内側の世界はまったく知らない。当たり前だ。そういうところに宿泊する必要がないのだから、何十年暮らそうとも、地元の人は宿屋と縁のあろうわけがない。その京都時代に、吉井勇の「かにかくに祇園は恋し寝(ぬ)るときも枕の下を水のながるる」を知り、ああそんな構造になっている宿もあるのかと、祇園を通りかかるとき、ふとこの歌のことを思ったりした。粋なのか、はたまた演出過剰気味なのか。実際を知らないのだから何とも言えないが、掲句を見るとなかなかに心地よい造りのようだ。床下に水が流れ「色鯉」が流れていると想像するだけで、作者のいる部屋空間がこの世からちょっと浮き上がっているように思える。思っているうちに、この「色鯉」が自然に水の流れのように「色恋」にも通じていく。作者の実際は知らねども、しかしこのときの「色鯉(色恋)」はあくまでも「床下」にあるのであって、句における作者は一人である。その一人がいまここでこうして浸っているのは、一人ではなかったかつての「京の宿」の想い出ではなかろうか。『彩』(1990・ふらんす堂文庫)所収。(清水哲男)


June 0462001

 つかみ合子供のたけや麦畠

                           垂葉堂游刀

来の作という説もある。それにしても「垂葉堂游刀(すいようどう・ゆうとう)」とは、ユニークな名前だ。能楽師。見事に伸び揃った麦の畑で、二人の子供が取っ組み合いの喧嘩をしている。「子供のたけ」は麦のそれくらいというのだから、小さな子供らだ。この喧嘩、放っておいても大事にいたる心配はない。むしろ元気があって大いによろしいと、作者は微笑している。この元気が麦の元気と照応して、今年もよく実った麦の出来を素直に喜ぶ気分が溢れ出た。この句について山本健吉は「裏に麦ぼめの伝統が生きていよう」と指摘しているが、江戸期の読者ならうなずけるところだろう。「麦ぼめ」とは「正月二十日。麦とろを食べてから麦畑に出て、麦をほめる唱え言をする風習。中国地方の山間部などに残る」と、『広辞苑』にある。現代の園芸でも、褒め言葉を声に出しながら花を育ててやると、より奇麗に咲くという話はよく聞く。ましてや、麦作は農家の生命線だ。風習としての「唱え事」も、さぞかし熱を帯びていたにちがいない。一見形骸化したような言葉でも、しかるべきシチュエーションで実際に口に出してみると、にわかに実質を取り戻すから不思議だ。この場合の実質は「いつくしみの心」である。『猿蓑』所収。(清水哲男)


June 0562001

 母と子の生活の幅の溝浚ふ

                           菖蒲あや

句は、日常生活のレポート的側面を持つ。だから興味深いところがある反面、「だから」わからないところも出てくる。掲句はいわゆる「ドブさらい」を詠んでいるが、下水道が発達した現在では「ドブ」そのものが姿を消してしまった。もう二十年ほども前、泉麻人に「東京はドブの匂いがしなくなりましたね」と言われたことを覚えているので、いまの二十代くらいの人の大半にとっては、もはや理解不能な句ではあるまいか。そういう読者のために、句の載っている『俳諧歳時記・夏』(新潮文庫)の解説を丸写ししておく。「夏になって溝に汚水がたまると、蚊が発生したり、不潔な匂いを発生したりするので、近所の人達が集まって掃除をする。定期的にやるところもある。涼しい朝のうちに、主婦たちが集まって、何かと話に興じながら清掃する」。傍観者には、いわば夏の朝の風物詩。主婦にとっては、井戸端会議ならぬ「ドブ端会議」の場であった。ドブはごく細い溝だから、みんなで清掃すると言っても、自宅前のドブを浚えばよいわけだ。それを作者は「生活(たつき)の幅」と言い止めた。すなわち、「母と子」だけが暮らすささやかな家の前のドブは短い、と。物事には、実際に携わってみないとわからないことが、たくさんある。傍観者には詠めない句である。(清水哲男)


June 0662001

 万霊の天より圧す梅雨入かな

                           目迫秩父

日までに、東海地方以西が梅雨に入った。関東地方も今日あたりか。また、長雨の季節がやってきた。句の「梅雨入」は「ついり」と読む。「万霊(ばんれい)」は、キリスト教の「万霊節」で言うそれではないけれど、ほぼ共通した概念と読める。この世を去ったすべての人々の霊である。垂れ込めた雨雲は、それらすべての霊が地上で生きている人間を圧しているのだと作者は捉え、梅雨をいわば「生きている人としての自分」の一身に引き受けている。これからの鬱陶しさを思って横を向いてしまうのではなく、作者はこれまたいわば「おのれの全霊」をもって天上の「万霊」に進んで圧されている。この捉え方は主観的ではあるけれど、このように言うことで主観の凄い効果が出た。この句をそのまま飲み込むことにより、少なくともこれまでの私の梅雨入り時の思いは一新されるだろう。ちと大袈裟だが、覚悟が決まる。「万霊」のなかには親しかった人たちの「霊」があり、灰色の空を仰げば、彼らの生前の像すらもが感じられるようだ。圧されて当然であり、圧されていると思えば、逆に雨期もこれまでとは違った味わい深い時間になる。句は世界を大きく張っているように見えるが、細かく柔らかい雨粒のようになって、読者一人ひとりの胸にじんわりとだが、確実に届くはずだ。『新歳時記・夏』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)


June 0762001

 螢かごラジオのそばに灯りけり

                           瀧井孝作

の宵。部屋の電灯は灯されている。なのに、なぜ「螢」の微弱な光が見えるのか。キーは「ラジオ」の置かれている位置である。昔のラジオは、茶だんすの上だとか神棚の横などの高い所に置かれていた。子供の背では、ちょっと手が届かないくらいの高い所。ラジオの声は、いつも上の方から聞こえてくるものだった。したがってこの「螢かご」も、電灯の笠で光がさえぎられた位置に置かれたわけで、そこは真っ暗ではないけれど、微弱な光の明滅もそれなりに見えているというわけだ。句は、ラジオのダイヤルの窓がぼおっと灯っている隣に、これまたぼおっと明滅する光があると言うに過ぎない。が、いかにひそやかな光といえども、室内に新しい光が加えられると、人はなんだか嬉しくなるものだ。しかも見ていると、螢の明滅がラジオの声に反応してのそれのようでもある。このときに作者は、隣で聞く螢のために、ラジオのボリュームを少し下げてやったに違いない。この句は、新刊の「俳句文芸」(2001年6月号)の扉に、田代青山の書と絵で色紙風にアレンジされて載っていた。絵には「ラジオ」も「螢かご」も描かれておらず、ひっそりと十薬(どくだみ)の絵が添えられている。薄暗い所でぽっぽっと白く咲く十薬の花は、なるほど植物界の螢なのかもしれない。(清水哲男)


June 0862001

 団扇絵にあるまじき絵のなかりけり

                           尾崎迷堂

も描かれていない「白団扇」もあるが、たいていの団扇(うちわ)には、うっすらと涼しげな絵が描かれている。しかも作者の言うように、たしかに「団扇絵にあるまじき絵」にはお目にかかったことはない。描く人たちが示し合わせたわけでもないのに、みんな似たりよったりの構図であり絵柄である。これが扇子(せんす)だと、事情は異なるだろう。扇子らしい絵と言われても、なくはないけれど、団扇のようには普遍性がない。扇子は個人の持ち物、団扇は共有物。この差から来ている。句の言うことは当たり前なのだが、着眼としてはかなりユニークだ。同じ団扇を見るにしても、このアングルはなかなか出てこない。それでいて、単に奇異な味の句をねらったのではなく、ちゃんと団扇の特性を押さえている。すっとぼけた可笑しみもある。ただし、この手法は一度限り。作者もまた読者もが、二度とは使えない。たとえば「銭湯にあるまじき絵のなかりけり」でも面白いが、掲句があるからには、二番煎じもいいところとなる。ときどき、こういう句がある。『新日本大歳時記・夏』(2000・講談社)所載。(清水哲男)


June 0962001

 薫風に膝たゞすさへ夢なれや

                           石橋秀野

書に「山本元帥戦死の報に」とある。大戦中の連合艦隊司令長官であり、国民的に人気のあった山本五十六がソロモン諸島上空で戦死したのは、1943年(昭和十八年)四月十八日のことだった。八十八夜のずっと前だから、いまだ「薫風」の季節ではありえない。では何故、句では「薫風」なのか。時の政府が山本の戦死を、一ヶ月ほど隠していたからである。すぐに発表すれば、あまりにも国民の動揺が大きすぎるとの判断から、事実が自然に漏れ出るぎりぎりまで延ばしたのだった。発表されたのは五月も下旬、国葬は六月に行われている。しかし、これで多くの人たちが否応なく戦局不利を実感してしまう。戦死の報に触れたときに、作者は思わずも「膝をたゞ」した。「こんなことがあって、よいものか」。いまこうして自分が居住まいを正していることさえ「夢なれや」、信じられない。すがすがしい「薫風」との取り合わせで、鮮やかに悲嘆落胆の度合いが強まった。時局におもねっているのではなく、作者は本心で五十六の死に呆然としている。当時世論調査が行われていれば、山本元帥の支持率は限りなく100パーセントに近かったろう。最近の小泉首相高支持率の中身が気にかかるので、いささか季節外れ(時節外れ)の掲句を扱ってみたくなった。『定本 石橋秀野句文集』(2000)所収。(清水哲男)


June 1062001

 人叩く音にて覚めし昼寝かな

                           中村哮夫

目覚めるときに聞こえる音は、たいてい決まっている。カラスの鳴き声や鳥のさえずりであったり、新聞配達の人が駆けていく足音であったりと、耳慣れた音である。ところが昼間となると、実にいろいろな音がする。朝のように慣れた音ではなかなか目が覚めないけれど、昼の不意で雑多な音には慣れていないので、音で目が覚めることが多い。句はまずそのことを言っていて鋭いが、事もあろうに「人叩く音」というのだから穏やかではない。寝ぼけつつも、体内をサッと緊張感が走り抜けただろう。一瞬身構えて、半身を起こしたかもしれない。しかし、これはおそらく夢に混ざり込んできた音であって、現実の音は「人叩く音」ではなかったと思う。夢の中身に、タイミングよく何かの音が呼応して、それが「人叩く音」に聞こえてしまったのだ。かりに現実の音と読めば、句としては平凡すぎて面白くない。誰だって、現実の「人叩く音」には目覚めて当然だろうからだ。それにしても、いまの生臭いような音は何だったのか。作者は徐々に覚醒してくる意識のなかで、しきりに首をひねっている。表はまだ明るい。夢でよかった。読者の私も、そう思った。『中村嵐楓子句集』(2001)所収。(清水哲男)


June 1162001

 けむりあげ平日つづくかたつむり

                           田畑耕作

曜日とか金曜日とか、休日や祝日以外の曜日を特定した句は散見されるが、正面から「平日」を捉えて据えた句は珍しい。各曜日にはそれなりの表情があるけれど、平日にはそれが希薄だからである。のっぺらぼうだからだ。そんなのっぺらぼうの日々に「けむりあげ」と表情をつけたのが、掲句。「けむり」は民の竃(かまど)からあがるそれか、それとも直截的に工場街のそれなのか。はたまた、下五の「かたつむり」が想起させる梅雨にけむる人里だろうか。いずれにしても、人間の普通の営みや普通の環境を象徴する形容語として使われているのだろう。動くのか動かないのかわからないほどに、じいっとしている「かたつむり」。「けむり」をあげてはいるが、これまた動いているのかいないのかわからないくらいに凡々たる「平日」の人間のありよう。この二つを取り合わせることで、物憂いような気だるいような「平日」の気分が、意外にも非常に美しいシーンとして彫琢されることになった。この句をそらんじて「平日」の駅やバス停に向かう自分を想像すると、自分もこの句のなかに溶け込んでいるような気分になるだろうなと思った。悪くはないね、この気分。「平日つづく」明日もまた、いつものように「けむり」をあげて。『昭和俳句選集』(1977・永田書房)所載。(清水哲男)


June 1262001

 ところてん遠出となればはすつぱに

                           小坂順子

先の茶店での即吟だろう。「ところてん」は、上品に食べようとすると食べにくい。「遠出」の解放感から、作者は音を立てながらすすっている。食べているうちに、なんて「はすつぱ」な食べ方だろうとは思うが、そんな「はすつぱ」ぶりを自然に発揮できるのも、旅ならではの喜びだ。よく「旅の恥はかき捨て」と言うが、それともちょっとニュアンスは違う。恥とも言えない恥。強いて言えば、自分でしか気づかない小さな恥だ。それを奔放な「はすつぱ」と捉えたわけで、逆に作者日頃のつつましさも浮き上がってくる。可愛い女性だと、男には写る。ところで「ところてん」は「心太」と書く。語源ははっきりしないようだが、『広辞苑』には「心太(こころぶと)をココロテイと読んだものの転か」とあった。いささか苦しい説明のようだが、昔は「ところてん売り」が来たというから、その売り声の「ココロテイ」が「トコロテン」と聞こえていたのかもしれない。物売りの声には独特の発声法があって、一度聞いたくらいでは何を売っているのかわからない場合も多い。現に、我が家の近所に隔日に車でやってくる八百屋のお兄ちゃんの売り声も、いまだに何と言っているのか私には判然としない。『俳諧歳時記・夏』(1968・新潮文庫)所載。(清水哲男)


June 1362001

 牛も馬も人も橋下に野の夕立

                           高浜虚子

里離れた「野」で夕立に見舞われたら、まず逃げようがない。どうしたものかと辺りを見回すと、土地の人たちが道を外れて河原に下り、橋の下に駆け込んでいくのが見えた。これしかない。作者も急いで駆け込んでみたら、人ばかりか「牛も馬も」が雨宿りをしていた。「牛も馬も」で、夕立の激しさが知れる。そこで「牛も馬も人も」が、所在なくもしばしいっしょに空を見上げて、雨の通り過ぎていくのを待つのである。この橋は、木橋だろう。だとすれば、橋を打つ雨の音もすさまじい。実景を想像すると、なんとなく滑稽でもあり牧歌的にも思えてくるのは、「野の夕立」の「野」の効果だ。上五中七で、ここが「野」であることは誰にでもわかる。にもかかわらず、虚子はあえて「野」を付け加えた。何故か。「野」を付け加えることで、句全体の情景が客観的になるからである。かりに「夕立かな」などで止めると、句の焦点は橋の下に集まり、生臭い味は出るが小さくまとまりすぎる。あえて「野」と張ったことにより、橋の下からカメラはさあっとロングに引かれ、橋下に降りこめられた「牛も馬も人も」が遠望されることになった。大いなる自然のなか、粗末な木の橋の下に肩寄せ合うしかない生きものたちの小ささがより強調されて、哀れなような情けないような可笑しさがにじみ出てきた。だが、もう一つの読み方もできる。虚子は最初から、橋の下なんぞにはいなかった。それこそ、彼方に河原が見える料理屋かなんかにいて、この景色を見ていただけ……。となれば、句の魅力はかなり褪せてしまう。この場合にこそ「野」は不可欠だけれど、どっちかなア。『六百句』(1946)所収。(清水哲男)


June 1462001

 いかにも髪切虫を見る眼つき

                           加倉井秋を

字通りに、髪の毛くらいは平気で噛み切ってしまう。樹木を害するが、人畜には無害だ。「天牛(かみきり)」とも書き、種類は多いようだが、最もポピュラーなのは黒地に白い斑点のある「胡麻斑天牛(ごまだらかみきり)」だろう。体長4センチ前後。最近、とんと見かけなくなった虫だ。昔はこいつが鞭のように長い触角を振り上げてガサゴソと出現すると、昆虫好きの人は別にして、たいていの人はキッと身構えた。その「眼つき」はといえば、句のように「いかにも」としか言いようがないのである。直接「髪切虫」を描くのではなく、それを見る人の眼つきを通して虫のありようを言い当てているところが面白い。「いかにも」と字足らずの表現も、素早い身構えに対応している。この虫を知らなくても、ゴキブリやヘビに置き換えてみれば、おおよその句意の見当はつくはずだ。ただ髪切虫の場合はゴキブリなどと違って、あまり陰湿な感じは受けない。獰猛な感じもするが、どこか憎めないところがある。だから、いきなり殺そうとする人は稀ではなかろうか。せいぜいが捕まえて、ぽいと表に放り出すくらいだ。捕まえるとキイキイと鳴くので、哀れでもある。同じ作者に「妻病みて髪切虫が鳴くと言ふ」がある。こちらは、愛しくも哀れ。『新歳時記・夏』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)


June 1562001

 酒十駄ゆりもて行や夏こだち

                           与謝蕪村

かにも画家の句らしい。絵になっている。「行」は「ゆく」。四斗(三斗五升とも)樽二つを「一駄」と数え、馬一頭の荷とした。したがって夏木立を行く馬の数は十頭になるが、これは構図をぴしりと決めるための言葉の綾だろう。二つの樽を振り分けにして、馬たちが尻を振り振り夏の木立を行く。木立の緑が夏の日に照り映え、馬の身体も木漏れ日に輝いている。歩みに連れて「こも被り」がだくんだくんと揺れ、揺れるたびに酒に樽の木の香がしみこんでいく(ようである)。さながら周囲の万緑の木立の香も、共にしみこんでいくようではないか。酒飲みの人ならば、思わず喉が鳴りそうな情景だ。さて「駄足」、じゃなくて蛇足。「十駄」の「駄」のように、物を数えるときの「助数詞」はややこしい。子供のころに兎は「一羽」と数えるのだよと教えられ、びっくりした記憶もある。鏡は「面」で硯(すずり)も「面」、封筒は「袋(たい)」で封書は「通」。さらには人力車は「挺(ちょう)」と数え、アドバルーンは「本」であり、トンネルも「本」なのだそうな。にぎり寿司は「カン」と言うが、どんな漢字を当てるのか。とても覚えきれないでいるけれど、と言って、最近のように何でもかでも「個」ですませるのには抵抗がある。「ラーメン一個」じゃ茹でが足りなさそうだし、「三個目の駅」じゃ小さすぎて降りられそうもない。(清水哲男)


June 1662001

 明け烏実梅ごろごろ落ちていて

                           寺井谷子

の本に「梅熟する時雨ふる、これを梅雨といふ」(『滑稽雑談』)とある。子供でも知っていることだが、私などは長い間都会で暮らしているうちに、実感的に梅雨の本意を感じなくなってしまった。しきりに梅雨と言いながら、感覚が「実梅(みうめ)」に至ることは稀である。掲句に出会って、ひさしぶりにその感覚がよみがえってきた。前夜は激しい風雨。荒梅雨。早朝に烏の声で目覚め、雨戸を繰って庭を見るとはたせるかな、懸念していたように、梅の実が「ごろごろ」とたくさん落ちてしまっていた。いまだ曇り空のあちこちでは、烏たちがわめくように鳴いている。絵に描けば荒涼たる風景ではあるけれど、このときに作者が捉えているのは、むしろあるがままの自然を前にし受容した充実感だろう。こういう実感が湧くのは、まだ人間が動きはじめない早朝だからこそである。雨の匂い、濡れた土の匂い、樹木の匂いがさあっと身体を包み込む。「ごろごろ」と落ちている梅の実の後始末なんて、実はいまは考えてはいないのだ。この気持ちを恍惚と評すると表現過剰かもしれないが、何かそれに近いような気持ちになっている。『人寰』(2001)所収。(清水哲男)


June 1762001

 方丈の五桁算盤扇風機

                           中村石秋

儀か法事の段取りの相談だろう。禅寺の「方丈(ほうじょう)」に通された。めったに入る部屋ではないので、緊張して僧を待つことしばし。そのうちに部屋の空気にも慣れ、見回して目についたのが「五桁算盤(ごけたそろばん)」と「扇風機」だった。使い込まれて黒光りした算盤と、おそらくは最新型の扇風機と。この取り合わせも面白いが、句の眼目はそこだけにはない。この二つの物は俗界のものであり、寺には似合わないものと、作者は感じたのだ。坊さんが算盤をはじいて金勘定に励んだり、無念無想の境地にある和尚が胸をはだけて、事もあろうに扇風機の風を受けたりしてはいけないのだ。むろん作者とて、寺には経営があることも、坊さんだって暑いときには暑いことも知っている。しかし、その楽屋をこのようにあからさまにされると、何だか有難みが薄まってしまう思いになるではないか。ここが眼目。寺でなくとも、普通の家庭を訪問しても、この種の軽い失望感に見舞われることがある。主人に抱いていたイメージが、部屋の置物ひとつでこわれてしまうことが……。編集者だったから、いろいろなお宅へ伺ったが、この点に気を使っていた一人が、劇作家の飯沢匡だった。どんなに親しくなっても、書斎には通さなかった。「だってキミ。オレがなんで『手紙の書き方』なんて本を持ってるのか、詮索されるのはイヤじゃないか」。『新日本大歳時記・夏』(2000・講談社)所収。(清水哲男)


June 1862001

 おおかみに螢が一つ付いていた

                           金子兜太

の性(さが)、狷介にして獰猛。洋の東西を問わず、物語などでの「おおかみ」は悪役である。ただし、腐肉を食べるハイエナとは違って、心底からは嫌われてはいないようだ。恐いには恐いけれど、どこか間が抜けていて愛嬌もある。犬のご先祖なので、ハイエナ(こちらは猫の仲間)には気の毒だが、陰険を感じさせないからだろう。この句も、もちろんそうした物語の一つ。「螢が一つ付いて」いる「おおかみ」の困ったような顔が浮かんできて、ますます憎めない。と同時に感じられるのは、彼の存在の尋常ではない孤独感である。目撃談めかして書かれてはいるが、この「おおかみ」は作者自身だろう。みずからを狼に変身させて、おのれのありようをカリカチュアライズすると、たとえばこんな風だよと言っている。ここ二十年ほどの兜太句には、猪だの犀だの象だの狸だのと、動物が頻出する。このことを指して、坪内稔典は「老いの野生化」と言い(「俳句研究」2001年7月号)、それが「おそらく兜太の理想的な老いである」と占っている。となれば、人は老いて木石に近づくという「常識」ないしは「実感」は、逆転されることになる。死に際まで困った顔をするのが人なのであり、木石に同化しようとするのは気休め的なまやかしだと、掲句は実に恐いことを平然と言っていることになる。まさに「おおかみ」。句集で、この句の前に置かれた句は「おおかみに目合の家の人声」だ。こっちも、孤独の物語としてハッとさせられる。「目合」には「まぐわい」、「人声」には「ひとごえ」とルビがふられている。兜太、八十二歳。ダテに年くってない表現の力。『東国抄』(2001)所収。(清水哲男)


June 1962001

 鮓店にほの聞く人の行方かな

                           正岡子規

じみの「鮓(すし)店」。客もたいていがおなじみの面々だ。といってもお互いに深いつきあいはなく、顔を合わせれば「やあ」と言ったり目礼したりする程度。名前も職業も知らない人もいる。そんな常連の一人が、最近ぱたりと顔を見せなくなった。何となく気になるので、「どうしたのかなあ」と主人に尋ねてみる。「私もよくは知りませんが……」と話してくれた主人の言で、ぼんやりとではあるが「行方」などが知れた。尋ねるほうも話すほうも、何がなんでも事情や所在を知ろうというわけではないので、会話は「ふうん」くらいで終わってしまう。それが「ほの聞く」。常連の多い店の会話は、だいたいこんなものだ。詮索好きの客や主人がいるとしたら、人は寄ってこない。付かず離れずの関係でいられるからこそ、居心地がよいのである。客は、いわば雰囲気も同時に食べている。そんな「鮓店」のよい雰囲気を、さらりと伝えた佳句だ。いまどきの回転鮨屋では、こうはいかない。ハンバーガー・ショップなどでもそうだが、腹ごしらえさえできればよいという店が跋扈している。逆に雰囲気を求めようとすれば高くつくし、この二十年ほどは、行きつけの店のないままに暮らしてきた。高浜虚子選『子規句集』(1993・岩波文庫)所収。(清水哲男)


June 2062001

 母棲んでしんかんたりや氷水

                           清水基吉

い日に、独り住まいの老母を訪ねた。「氷水」は一般的に「かき氷」のことを言うが、四十年ほど前の句であることを考え合わせると、氷片を浮かべた砂糖水のようなシンプルな飲み物ではなかろうか。冷たいグラスには、水滴が滴っている。「しんかん(森閑)」が、小気味よくも効いている句だ。ひっそりと暮らす老母の「しんかん」。その住まいに染み込んでいるような「しんかん」。出された氷水の「しんかん」。そして母と子のさしたる会話も交わされない「しんかん」に至るまで、それらすべてが重ね合わされて浮き上がってくる。とくに変わった様子もない母親の姿に安堵して、作者はこの静けさに満足している。職場ではもとより自宅でも味わえない静けさのなかで、かく詠嘆する大人となった子供の心は、かつては賑やかだった我が家の盛りの頃をちらりと思い出したかもしれない。「人に盛りがあるように、家には家の盛りがある」という意味のことを書いたのは、たしか詩人の以倉紘平であった。掲句を読んでいて、そういうことも思い出した。「氷水」を飲んでから、作者はどうしたろうか。私なら、母に甘えてちょっと昼寝をさせてもらうだろう。そういうことも、思った。尊いほどに美しい句だ。『宿命』(1966)所収。(清水哲男)


June 2162001

 夏至今日と思ひつつ書を閉ぢにけり

                           高浜虚子

日は「夏至」。北半球では、日中が最も長く夜が最も短い。北極では、典型的な白夜となる。ちなみに、本日の東京の日の出時刻は04時25分(日の入りは19時00分)だ。ただ「夏至」といっても、「冬至」のように柚子湯をたてるなどの行事や風習も行われないので、一般的には昨日に変わらぬ今日でしかない。あらかじめ情報を得て待ちかまえていないと、何の感興も覚えることなく過ぎてしまう。暦の上では夏の真ん真ん中の日にあたるが、日本では梅雨の真ん中でもあるので、完璧に夏に至ったという印象も持ちえない。その意味では、はなはだ実感に乏しい季語である。イメージが希薄だから、探してもなかなか良い句には出会えなかった。たいがいの句が、たとえば「夏至の夜の港に白き船数ふ」(岡田日郎)のように、正面から「夏至」を詠むのではなく、季語の希薄なイメージを補強したり捏ね上げるようにして詠まれている。だから、どこかで拵え物めいてくる。すなわち掲句のように、むしろ「夏至」については何も言っていないに等しい句のほうが好もしく思えてしまう。多くの人の「実感」は、こちらに賛成するだろう。『合本俳句歳時記』(1974・角川文庫)所載。(清水哲男)


June 2262001

 四方に告ぐここにわれありアマリリス

                           小沢信男

の形は百合に酷似する「アマリリス」だが、アフリカやメキシコなど熱帯地方の原産だという。ヒガンバナ科。深紅色とでも言うべき花の色が、それを告げている。しゃきっと咲いた「アマリリス」の姿は、なるほど「ここにわれあり」と「四方(よも)」に存在を主張しているかのようだ。花の姿を見ての印象は、むろん個々人によって様々かつ微妙に異なるわけだが、この句にはそうした印象のずれを許さない迫力がある。試みに句の「アマリリス」を他の花と入れ替えてみれば、事は瞭然だろう。形の近しい百合では、清楚に過ぎて役不足。しゃきっとは咲くけれど、昂然と眉を上げるような気概にはほど遠い気がする。かといって本家のヒガンバナだと、「四方に告ぐ」が暑苦しくも不遜な科白に聞こえてしまう。「アマリリス」の気品が、不遜に聞かせないのだ。アジサイでは、はじめからこんなことは言わないだろうし……。などと詰めていくと、他の花には置き換えられないことがわかってくる。さらには、ちょっと深読みになるが、この「アマリリス」は、作者の江戸っ子気質と照応しており、いわば肝胆相照らすような存在だとも思える。江戸っ子の心意気を、花に託して申し述べれば「かくのごとし」という句ではなかろうかと。「アマリリス」の擬人化が、この読みを引きだした。『足の裏』(1998)所収。(清水哲男)


June 2362001

 金魚赤し賞与もて人量らるる

                           草間時彦

の賞与(ボーナス)。季語としての「賞与」は、冬期に分類されている。昔の「賞与」は、正月のお餅代の意味合いが濃かったからだろう。欧米のbonusと言うと、能率給制度のもとで標準作業量以上の成果をあげた場合に支払われる賃金の割増し分のことのようだが、日本ではお餅代のように、長く慰労的・恩恵的な慣習的給与のニュアンスが強かった。そこに、だんだん会社への貢献度を加味すべく「査定」なる物差しが当てはじめられたから、掲句のようなやるせなさも鬱積することになった。私はサラリーマン生活が短かったので、作者の鬱屈とはほぼ無縁だったけれど、外部から見ていて、スパイ情報を集めて査定をするような会社は、やはりイヤだった。いまどきの能率を言いたてる会社に勤める人には、作者以上の憤懣を抱く人が多いだろう。でも、出ないよりはマシというもの。出ない人は、この夏もたくさんいる。それはさておき、人を能率や効率の物差しで「量(はか)る」とは、どういうことなのか。そんなことで、安易に人の価値なんて決められるものか。そう叫びたくても、叫べない。叫べない気持ちのままに、金魚鉢の赤い金魚を見る。その鮮やかな赤さに、しかし、おのれの愚痴に似た口惜しさなどは跳ね返されてしまうのだ。人に飼われる「金魚」ほどにも、みずからの会社人間としての旗色が鮮明ではないという自嘲だろう。作者が三十代にして、やっと定職を得たころの作品。『中年』(1965)所収。(清水哲男)


June 2462001

 麦藁帽妙にふかくて寂しいぞ

                           八田木枯

ァッショナブルな「麦藁帽」はおおむね浅くできているが、実用的な日除けとしてのそれは、つばも広くて深い。中世ヨーロッパの農民を描いた絵にもよく出てくるように、日本でもいまだに農家の必需品である。物の本によれば、ギリシャの昔から、既に実用的に用いられていたのだそうだ。農家の子供時代に、なんとなく父親の「麦藁帽」をかぶってみたことがある。子供用はなかったので(子供が畑仕事に出るときは「学帽」だった)、たわむれに近い好奇心からだ。かぶってみたときに感じたのは、まさに「麦藁帽妙にふかくて」だった。「大きくて」というよりも「深くて」の印象。帽子というものは不思議なもので、他人がかぶっているのを端から見ているだけでは、かぶっている人の心持ちはわからない。身に着けるものは、眼鏡などにしても、みなそうなのかもしれないけれど、極端に言えばその人の人格に影響するようなところがあるようだ。変哲もない「学帽」だってお仕着せではあっても、学校には無縁の今かぶることがあれば、それこそ「妙」な気持ちになるだろう。他人の「麦藁帽」か新しく求めたそれかは知らねども、思いがけない目深さに、自然にきゅうっと「さびしいぞ」と絞り出している作者の心の動きは、よくわかる。『汗馬楽』(1978)所収。(清水哲男)


June 2562001

 月下美人あしたに伏して命あり

                           阿部みどり女

に咲く花。いまのマンションに引っ越してきたころ、管理人が育てていた「月下美人」が咲きそうだというので、深夜に子供たちを含めて、大勢で開花を待ったことがある。二十年ほど前のことだが、当時は非常に珍しく、見事に咲くと新聞の地方版に写真が載るほどだった。純白の大花。サボテン科というけれど、トゲもないし、一般的なサボテンのイメージには結びつけにくい。同じ作者に「月下美人一分の隙もなきしじま」とあるように、開花した姿は息をのむような美しさだ。その絢爛にして「一分の隙もなき」花が、しかし「あした(朝)」の訪れとともに、がっくりと首を折るようにしてうなだれてしまう。このときに作者が若年であれば、そんな花の様子に「哀れ」を覚えるだけかもしれない。が、作者の高齢(九十歳前後)は「伏して」もなお「命あり」と、外見の衰えよりも、その底で脈打つ「命」の鼓動に和している。「立てば芍薬」など、女性を花に例えるのは男の仕業であり、それも多くは外見的な範疇でのことにとどまる。しからば、逆に女性の場合はどうなのだろうか。おのれを花に擬する気持ちがあるとすれば、どのようにだろうか。回答のひとつが、この句であってもよいような気がする。『月下美人』(1977)所収。(清水哲男)


June 2662001

 病みし馬緑陰深く曳きゆけり

                           澁谷 道

したたる明るい青葉の道を、一頭の病み疲れた馬が木立の奥「深く」へと曳かれてゆく。情景としては、これでよい。だが「曳きゆけり」とあるからには、力点は馬を曳いている人の所作にかかっている。つまり、緑の「健康」と馬の「不健康」の取り合わせの妙味ではなく、眼目は曳き手が馬をどこに連れていき、どうしようとしているのか、それがわからない不気味さにある。「緑陰深く」曳かれていった馬は、これからどうなるのだろうか。謎だ。謎だからこそ、魅力も生まれてくる。句は、そんな不安が読者の胸によぎるように設計されている。ずっと気にかかってきた句だが、近着の「俳句」(2001年7月号)に、作者自身の掲句のモチーフが披露されていて、アッと思った。当時の作者は医師になるべく勉強中で、インターンとして働いていた。「舞鶴港に上陸した多数の傷病帰還兵の人々が送り込まれ、カルテを抱えて病棟の廊下を小走りに右往左往する日々の只管痛ましい思いの中で詠んだ句であった」。すなわち、作者は「緑陰深く」に何があって、そこでどういうことが起きるのかを知っていたわけだ。句だけを読んで、誰もこの事情までは推察できないだろうが、謎かけにはちゃんと答えの用意がなければ、その謎には力も魅力もないのは自明のことである。『嬰』(1966)所収。(清水哲男)


June 2762001

 梅雨と書き陳者と書き嫌になりぬ

                           永作火童

礼的な手紙か、商用の挨拶文だろうか。とにかく、紋切り型の手紙を書く必要が生じた。そこで「梅雨の候時下ますますご清祥のこととお慶び申し上げます」などと時候の挨拶を書き、さて「陳者(のぶれば)」と本題に入るところで「嫌に」なってしまつた。よくあることだが、梅雨期の鬱陶しさも手伝うので、「梅雨」と書くだけでも「嫌に」なった気持ちがよく出ている。紋切り型の手紙文は親しくもない相手にも、欠礼することなく何事かを伝えられて便利だが、個人的な感情や感覚の披歴ができないので、おのずから書き手の存在は希薄になる。受け取るほうも同じことで、まず隅から隅まで丹念に読むことはしない。お互いにそれがわかっていても、なおこの種の手紙が必要なのは、自己を希薄にしての人間関係が実は社会生活の大元を占めているからだろう。手紙の作法はもちろん、その他の礼儀作法にしても、希薄な人間関係を希薄なままに保つ知恵の一つと言ってもよいと思う。そんな表面的な礼儀など知るものかと、放り出すことも可能だ。簡単だ。だが、世の希薄な人間関係は、放り出した人間にも常に希薄な関係を迫ってくる。どのようにか。ここで我が若き日の苦い体験を思い出して、それこそ「陳者」と披露したいところだが、私もだんだん「嫌に」なってきたので、これにて失礼。早々頓首。『今はじめる人のための俳句歳時記・夏』(1997・角川mini文庫)所載。(清水哲男)


June 2862001

 辻があり輓馬と螢入れかはる

                           柿本多映

い荷を積んだ車を、あえぎながら馬がひいていく。その「輓馬(ばんば)」が向こうの四つ辻にようやく姿を消すと、かわって軽やかにもふうわりと一匹の「螢」が出現した。静かだが、なかなかにドラマチックな交代劇である。「輓馬」だから、サラブレッドのようにスタイルがよいわけでもないし、しかも汗みどろだ。見ているだけで暑苦しくなる馬と、見ているだけで涼感を覚える蛍との「入れかは」りである。どこかから、涼しい風が吹いてくるような感じがする。そして、句の眼目はここに止まらないだろう。「輓馬」が見えているのだから、あたりはまだそんなに暗くはない。ところが「入れかはる」蛍の光が見えるとなれば、あたりはそんなに明るくはない。というよりも、もはや真っ暗闇に近い。すなわち、この交代劇は「辻」をいわば時間軸に見立てた昼と夜のそれなのでもあった。このことを踏まえて深読みすれば、私たちの日々の生活の「疲弊」と「安息」の「入れかは」るときを、抒情的に暗示してみせた句だとも読める。『花石』(1995)所収。(清水哲男)


June 2962001

 裸子も古めかしくてこの辺り

                           京極杞陽

語は「裸子(はだかご)」で、夏。1964年(昭和三十九年)、東京オリンピックの年の作品だ。一般の家庭にはまだ冷房が普及していなかったので、ちっちゃな子はみんな、それ以前と同じように、裸(同然)で夏の昼間を過ごしたものだ。ああ、懐かしき「金太郎の腹掛け」よ。掲句が面白いのは、子供の裸の姿にも「古めかしく」感じられる何かがあると、ストレートに披歴しているところだ。よく言う「田舎くささ」に通じる感覚だろう。「この辺り」がどのあたりなのかは知らないけれど、その土地の「古めかしさ」を「裸子」にまで見て取り、しかも句に仕立て上げた感覚は鋭い。リアリストの目が光っている。誤解のないように述べておけば、むろん作者はここで微笑しているのである。大人の(男の)社会では、しばしば比喩的に「裸のつきあい」などと言って、お互いの衣装や殻を脱ぎ捨てたコミュニケーションこそ最上と位置づけたりする。だが、無心に近い「裸子」にして、既にこのような古さがあるわけだ。裸になってもなお脱げない根源的な意匠の存在を指し示している意味でも、この句は考えるに値するだろう。いわば無心のままにまとってしまった意匠は、ついに脱ぐことができない。私はこの条件を、人間の脱しきれぬそれとしてカウントせざるを得ないできた。『花の日に』(1971)所収。(清水哲男)


June 3062001

 小数点以下省略のかきつばた

                           永末恵子

っきりと咲いた「かきつばた(燕子花・杜若)」の姿を、これまたすっきりと「小数点以下省略」と捉えた句。花の美しさよりも、剣状の葉とともにある形状のくきやかさに注目している。よく混同される「あやめ」は、花に網状の文様があるので、作者のウイットを援用すれば、小数点以下三桁か四桁くらいの感じがする。小数点といえば、学校で教える円周率(Π)の値が「小数点以下省略」されることになったという。無茶な話だ。亡国の数学教育だ。「省略」したのは、計算がしやすいからだろう。たしかに従来の「3.14」だって、アバウトと言えばアバウトではある。で、どうせアバウトなのだから、計算が簡便な「3」にしちまえという理屈は、しかし教育的に筋が通らない。百歩ゆずっても、単なる「3」ではなく「3.0」と小数点の存在を明確にしておかないと、円周率の本義を理解できなくなるではないか。この事態を皮肉った小沢信男の文章がある(「るしおる」43号・2001)。「円に内接する正六角形の6辺の和は、半径×6=直径×3=円周。すなわち真ん丸であることは正六角形にほかならなくなってしまった。(中略)かねて自主規制のつよい国民性なもので、丸顔のやつなどはだんだんとがった顔つきになる。ついにある日、日の丸の旗が、日の六画旗に改められた。……」。小沢さんによれば、横綱の武蔵丸も「武蔵六角」になり、駅前のマルイも「ロッカクイ」となる羽目に。『留守』(1994)所収。(清水哲男)

[付言]私の不勉強で、上の記述に不適当な部分がありました。読者よりご教示いただいた『小学校学習指導要領、第2章「各教科」、第3節「算数」の「第5学年」』には、「円周率としては3.14を用いるが,目的に応じて3を用いて処理できるよう配慮する」と書かれています。ただ、目的がどうであれ、私は単なる「3」には反対です。




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