June 022001
どくだみの花いきいきと風雨かな
大野林火
我が家の近所には「どくだみ」が多い。あちこちに、群がって自生している。このあたりは古い地名では「品川上水」と言い、清水を通す大きな溝が掘られていて、全体的に湿地であったせいだろう。「どくだみ」は陰湿の地を好み、しかも日陰を好む。梅雨期を象徴するような花だ。川端茅舎に「どくだみや真昼の闇に白十字」の一句があるように、この花と暗さとは切っても切れない関係にある。その上にまた特異な臭気を放つときているから、たいていの人からは嫌われている。そのことを当人たち(!?)も自覚しているかのように、ひっそりと肩寄せ合って地味に生きている。その嫌われ者が、折からの「風雨」のなかで「いきいきと」していると言うのだ。物みな吹き降りの雨に煙ってしょんぼりしているなかで、「白十字」たちのみが「いきいき」と揺れている姿に、作者は感動を覚えた。雨の日の外出を鬱陶しく思っている心に、元気を与えられたのである。「どくだみ」は、十の薬効を持つと言われたことから「十薬(じゅうやく)」とも賞されてきた。「十薬の芯高くわが荒野なり」(飯島晴子)。ただし、正確にはこの黄色い穂状の「芯」の部分が花で、「白十字」は花弁ではなく苞(ほう)なのだそうだ。『俳句の花・下巻』(1997・創元社)所載。(清水哲男)
June 202007
梅漬けて母より淡き塩加減
美濃部治子
幼い頃から梅干甕は、お勝手の薄暗く湿ったあたりにひっそりと、しかし、しっかりと置かれ、独特の香りをうっすらとただよわせていた。赤紫蘇を丹念に揉んでしぼりこんでは、くりかえし天日に干す作業。そうやって祖母が作った梅干は、食紅を加えた以上に鮮やかな真ッ赤。そしてすこぶる塩が強く酸っぱいものだった。食が進み、梅干一個で飯一膳が十分に食べられた。今も食卓では毎食梅干を絶やさないが、市販の中途半端に薄茶色のものや食紅を加えたものは願いさげ。自家製の梅干は祖母から母、母から妻へと何とか伝授されている。食事にきりっとアクセントをつける梅干一個の威力。減塩が一般化してきて、祖母より母、母より娘の作る料理の塩加減は、確実に淡くなってきている。塩加減がポイントである梅干もその点は例外ではない。さて掲出句。かつて母が丹精して作っていた梅干の塩辛さをふと思い出し、「でもねえ・・・」と自分に言い聞かせながら、漬けた梅干を試食しているらしい様子はむしろほほえましい。自分(娘)ももうそんなに若くはなく、母の年齢に近いのだろう。梅干にはその家なりの伝来の塩加減や色具合もあって、それがちゃんと引き継がれているだろうけれど、塩加減はやはり時代とともに少々変化してくるのはやむを得ない。治子は古今亭志ん生の長男・金原亭馬生(十代目。1982年歿)夫人。馬生も俳句を作ったが、治子は黒田杏子に師事し、本格的な句を残して昨年十一月に亡くなった。ほかに「十薬にうづもれをんな世帯なる」「去るものは追はず風鈴鳴りにけり」など。『ほほゑみ』(2007)所収。(八木忠栄)
May 212011
十薬のつぼみのやうな昔あり
遠藤由樹子
裏庭にどんどん増えるドクダミと刈っても刈っても増え続けるヤブカラシは、子供の頃我が家の庭の二大嫌われものだった。ほんとに臭いね、などと言いながらよく見ることもなかったドクダミを、しげしげと見たのはやはり俳句を始めてから。近づくと、あんなに嫌だった独特の匂いは郷愁を誘い、葉はハートの形で花は真っ白な十字形、蕾はしずくのような姿で眠っている。ほんとうの花は真ん中の黄色い部分で、白いのは萼だというが花言葉は、白い追憶、とロマンティックだ。そんな十薬の群生する蕾を見つめながら、作者もふと郷愁をおぼえたのだろうか。あのしずくの形が、光に見えたか涙に見えたか、作者の胸に去来したものはわからないけれど、つぼみのやうな昔か、昔っていい言葉だな、とあらためて思った。『濾過』(2011)所収。(今井肖子)
June 042013
十薬や予報どほりに雨降り来
栗山政子
今年も5月14日の沖縄を皮切りに、例年だと今週あたりで北海道を除く日本列島が粛々と梅雨入りする。サザエさんの漫画では雨のなか肩身狭そうに社員旅行をしている気象庁職員や、あまり当たらないがたまに当たることから「河豚」を「測候所」と呼んでいた時代もあったというが、気象衛星や蓄積データの功績もあり、いまや90%の確率という。十薬とはドクダミをいい、日陰にはびこり、独特のにおいから嫌われることも多いが、花は可憐で十字に開く純白の苞が美しい。掲句では、雨が降ることで十薬の存在をにわかに際立たせている。さらに「予報どほり」であることが、なんともいえない心の屈託を表している。毎朝テレビを付けていれば、また新聞を開けば目にする天気予報である。天気に左右される職業でない限り、通り雨や日照雨(そばえ)を「上空の気圧の谷の接近で午後3時から5時までの間でにわか雨となるところがあるでしょう」などと解明されるのは、どことなく味気ないのだ。いや、的中することが悪いというわけではない。お天気でさえ間違いがないという、そのゆるぎなさに一抹のさみしさを感じるのだ。せめて「今日の午後は狐の嫁入りが見られるでしょう」のように、民間伝承を紛れ込ませてくれたら楽しめるような気がするのだがいかがなものだろう。〈喉元を離るる声や朴の花〉〈露草や口笛ほどの風が吹き〉『声立て直す』(2013)所収。(土肥あき子)
June 112016
十薬やいたるところに風の芯
上田貴美子
妹の犬の散歩に時々付き合うようになって半年ほどになる。早朝の住宅街をただ歩く、ということはほとんどなかったので、小一時間の散歩だがあれこれ発見があって楽しい。そんな中、前日まで全く咲いていなかった十薬の花が今朝はここにもあそこにもいきなりこぞって咲いている、と驚いた日があった、先月の半ば過ぎだったろうか。蕾は雫のようにかわいらしく花は光を集めて白く輝く十薬。どくだみという名前とはうらはらに、長い蘂を空に伸ばして可憐だ。いたるところで風をまとっている十薬の花と共に、どこかひんやりとした梅雨入り前の風自体にも芯が残っているように感じられたのを思い出した。他に〈透明になるまで冷えて滝の前〉〈人声が人の形に夏の霧〉。『暦還り』(2016)所収。(今井肖子)
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