イチロー報道にうんざり。野球はね、一人でやるもんじゃないのよ。コンテクスト無き報道の愚劣。




2001ソスN6ソスソス2ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

June 0262001

 どくだみの花いきいきと風雨かな

                           大野林火

が家の近所には「どくだみ」が多い。あちこちに、群がって自生している。このあたりは古い地名では「品川上水」と言い、清水を通す大きな溝が掘られていて、全体的に湿地であったせいだろう。「どくだみ」は陰湿の地を好み、しかも日陰を好む。梅雨期を象徴するような花だ。川端茅舎に「どくだみや真昼の闇に白十字」の一句があるように、この花と暗さとは切っても切れない関係にある。その上にまた特異な臭気を放つときているから、たいていの人からは嫌われている。そのことを当人たち(!?)も自覚しているかのように、ひっそりと肩寄せ合って地味に生きている。その嫌われ者が、折からの「風雨」のなかで「いきいきと」していると言うのだ。物みな吹き降りの雨に煙ってしょんぼりしているなかで、「白十字」たちのみが「いきいき」と揺れている姿に、作者は感動を覚えた。雨の日の外出を鬱陶しく思っている心に、元気を与えられたのである。「どくだみ」は、十の薬効を持つと言われたことから「十薬(じゅうやく)」とも賞されてきた。「十薬の芯高くわが荒野なり」(飯島晴子)。ただし、正確にはこの黄色い穂状の「芯」の部分が花で、「白十字」は花弁ではなく苞(ほう)なのだそうだ。『俳句の花・下巻』(1997・創元社)所載。(清水哲男)


June 0162001

 浴衣着てからだが思ひ出す風評

                           すずきりつこ

あ、こういうこともあるのか。あるのだろうな。一年中、季節に関係なくほとんど同じような格好で過ごしている私には、とても新鮮に写った。夏の夕べ、作者は一年ぶりに浴衣を着ることにした。着た途端に、その肌触りから昨夏浴衣を着た頃に流れていた(らしい)「風評(うわさ)」のことを思い出した。すっかり忘れていたのに、頭ではなく「からだが思ひ出す」とは言い得て妙。おそらく自分についての好ましくない風評だろうが、着たばかりの浴衣に思い出さされてしまったのだ。浴衣を着たときのすがすがしい気分を詠んだ句はヤマのように作られてきたけれど、このようなアングルからの句は珍しい。意表を突かれた思い……。しかも、説得力は十分である。よく「からだで覚える」とか「からだに言い聞かせる」などと言うが、句のように「からだ」とは実に奥深くも面白いものだ。そうか、人間には「からだ」があったのだと、しばし自分の「からだ」に思いを走らせることになった。寝巻きにしていたくしゃくしゃの浴衣に、帯代わりの古ネクタイ。もう一度同じずぼらな格好をしてみたら、若き日の何かを私の「からだ」は思い出すのかもしれない。いや、きっと思い出すのだろう。『新日本大歳時記・夏』(2000・講談社)所載。(清水哲男)


May 3152001

 幻が傘の雫を切つてをり

                           真鍋呉夫

れた傘を畳むときに、パッパッと「雫(しずく)」を切る。この動作について考えたこともないが、できるだけ家の中に湿気を持ち込まないようにする知恵だ。知恵とも言えない知恵のようだけれど、見ていると幼児などは切らないから、やはり暮らしのなかで覚えていく実利的知恵の一つではある。ところが、掲句で雫を切っているのは実利とは無関係の「幻」だ。そんなことをしても、何にもならない。その前に、幻に傘の必要はない。が、句の湛えている暗い存在感は気になる。こいつはどこから滲み出てくるのかと、考えた。たとえば幻を故人の姿に見立てれば、一応の筋は通る。しかし、淡泊に過ぎる。もっと、この句は孤独な感じがする。この孤独感は、おそらく「切つてをり」の「をり」に由来するのだろう。「いる」ではなくて「をり」。「いる」だと対象を時空的に客観視することになるが、「をり」の場合は「いま、ここでの行為」と、時空を一挙に作者に引き寄せるからだ。すなわち「幻」とは作者自身のことだと読める。自分のありようを自嘲して「幻」と比喩したとき、無意識に雫を実利的に「切つてを」る自分があさましくも思え、いまここで「切つてを」るうちに自嘲がいや増した瞬間を詠んだ句と取っておきたい。平たく言えば、しょせん「幻」みたいな存在の俺が、何で馬鹿丁寧にこんなことやってんだろう、というところ。そんな当人の滑稽感もあるので、ますます句が暗く孤独に感じられるのではなかろうか。五月尽。間もなく雨の季節がやってくる。『定本雪女』(1998)所収。(清水哲男)




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