天気予報が面白いほど当たらない。無限大の天を割り算して観測予報することが、そも矛盾してる。




2001ソスN6ソスソス3ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

June 0362001

 床下を色鯉の水京の宿

                           桂 信子

語は「色鯉」。緋鯉や錦鯉など、金魚と同様に涼味を呼ぶことから夏の季語とされてきた。京都には都合六年間ほど住んだが、祇園辺りの「京の宿」のたたずまいならばともかく、門の内側の世界はまったく知らない。当たり前だ。そういうところに宿泊する必要がないのだから、何十年暮らそうとも、地元の人は宿屋と縁のあろうわけがない。その京都時代に、吉井勇の「かにかくに祇園は恋し寝(ぬ)るときも枕の下を水のながるる」を知り、ああそんな構造になっている宿もあるのかと、祇園を通りかかるとき、ふとこの歌のことを思ったりした。粋なのか、はたまた演出過剰気味なのか。実際を知らないのだから何とも言えないが、掲句を見るとなかなかに心地よい造りのようだ。床下に水が流れ「色鯉」が流れていると想像するだけで、作者のいる部屋空間がこの世からちょっと浮き上がっているように思える。思っているうちに、この「色鯉」が自然に水の流れのように「色恋」にも通じていく。作者の実際は知らねども、しかしこのときの「色鯉(色恋)」はあくまでも「床下」にあるのであって、句における作者は一人である。その一人がいまここでこうして浸っているのは、一人ではなかったかつての「京の宿」の想い出ではなかろうか。『彩』(1990・ふらんす堂文庫)所収。(清水哲男)


June 0262001

 どくだみの花いきいきと風雨かな

                           大野林火

が家の近所には「どくだみ」が多い。あちこちに、群がって自生している。このあたりは古い地名では「品川上水」と言い、清水を通す大きな溝が掘られていて、全体的に湿地であったせいだろう。「どくだみ」は陰湿の地を好み、しかも日陰を好む。梅雨期を象徴するような花だ。川端茅舎に「どくだみや真昼の闇に白十字」の一句があるように、この花と暗さとは切っても切れない関係にある。その上にまた特異な臭気を放つときているから、たいていの人からは嫌われている。そのことを当人たち(!?)も自覚しているかのように、ひっそりと肩寄せ合って地味に生きている。その嫌われ者が、折からの「風雨」のなかで「いきいきと」していると言うのだ。物みな吹き降りの雨に煙ってしょんぼりしているなかで、「白十字」たちのみが「いきいき」と揺れている姿に、作者は感動を覚えた。雨の日の外出を鬱陶しく思っている心に、元気を与えられたのである。「どくだみ」は、十の薬効を持つと言われたことから「十薬(じゅうやく)」とも賞されてきた。「十薬の芯高くわが荒野なり」(飯島晴子)。ただし、正確にはこの黄色い穂状の「芯」の部分が花で、「白十字」は花弁ではなく苞(ほう)なのだそうだ。『俳句の花・下巻』(1997・創元社)所載。(清水哲男)


June 0162001

 浴衣着てからだが思ひ出す風評

                           すずきりつこ

あ、こういうこともあるのか。あるのだろうな。一年中、季節に関係なくほとんど同じような格好で過ごしている私には、とても新鮮に写った。夏の夕べ、作者は一年ぶりに浴衣を着ることにした。着た途端に、その肌触りから昨夏浴衣を着た頃に流れていた(らしい)「風評(うわさ)」のことを思い出した。すっかり忘れていたのに、頭ではなく「からだが思ひ出す」とは言い得て妙。おそらく自分についての好ましくない風評だろうが、着たばかりの浴衣に思い出さされてしまったのだ。浴衣を着たときのすがすがしい気分を詠んだ句はヤマのように作られてきたけれど、このようなアングルからの句は珍しい。意表を突かれた思い……。しかも、説得力は十分である。よく「からだで覚える」とか「からだに言い聞かせる」などと言うが、句のように「からだ」とは実に奥深くも面白いものだ。そうか、人間には「からだ」があったのだと、しばし自分の「からだ」に思いを走らせることになった。寝巻きにしていたくしゃくしゃの浴衣に、帯代わりの古ネクタイ。もう一度同じずぼらな格好をしてみたら、若き日の何かを私の「からだ」は思い出すのかもしれない。いや、きっと思い出すのだろう。『新日本大歳時記・夏』(2000・講談社)所載。(清水哲男)




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