もう撫子(なでしこ)が咲きはじめましたよと、聞いた。花までもが生き急ぐこともあるまいに。




2001ソスN6ソスソス7ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

June 0762001

 螢かごラジオのそばに灯りけり

                           瀧井孝作

の宵。部屋の電灯は灯されている。なのに、なぜ「螢」の微弱な光が見えるのか。キーは「ラジオ」の置かれている位置である。昔のラジオは、茶だんすの上だとか神棚の横などの高い所に置かれていた。子供の背では、ちょっと手が届かないくらいの高い所。ラジオの声は、いつも上の方から聞こえてくるものだった。したがってこの「螢かご」も、電灯の笠で光がさえぎられた位置に置かれたわけで、そこは真っ暗ではないけれど、微弱な光の明滅もそれなりに見えているというわけだ。句は、ラジオのダイヤルの窓がぼおっと灯っている隣に、これまたぼおっと明滅する光があると言うに過ぎない。が、いかにひそやかな光といえども、室内に新しい光が加えられると、人はなんだか嬉しくなるものだ。しかも見ていると、螢の明滅がラジオの声に反応してのそれのようでもある。このときに作者は、隣で聞く螢のために、ラジオのボリュームを少し下げてやったに違いない。この句は、新刊の「俳句文芸」(2001年6月号)の扉に、田代青山の書と絵で色紙風にアレンジされて載っていた。絵には「ラジオ」も「螢かご」も描かれておらず、ひっそりと十薬(どくだみ)の絵が添えられている。薄暗い所でぽっぽっと白く咲く十薬の花は、なるほど植物界の螢なのかもしれない。(清水哲男)


June 0662001

 万霊の天より圧す梅雨入かな

                           目迫秩父

日までに、東海地方以西が梅雨に入った。関東地方も今日あたりか。また、長雨の季節がやってきた。句の「梅雨入」は「ついり」と読む。「万霊(ばんれい)」は、キリスト教の「万霊節」で言うそれではないけれど、ほぼ共通した概念と読める。この世を去ったすべての人々の霊である。垂れ込めた雨雲は、それらすべての霊が地上で生きている人間を圧しているのだと作者は捉え、梅雨をいわば「生きている人としての自分」の一身に引き受けている。これからの鬱陶しさを思って横を向いてしまうのではなく、作者はこれまたいわば「おのれの全霊」をもって天上の「万霊」に進んで圧されている。この捉え方は主観的ではあるけれど、このように言うことで主観の凄い効果が出た。この句をそのまま飲み込むことにより、少なくともこれまでの私の梅雨入り時の思いは一新されるだろう。ちと大袈裟だが、覚悟が決まる。「万霊」のなかには親しかった人たちの「霊」があり、灰色の空を仰げば、彼らの生前の像すらもが感じられるようだ。圧されて当然であり、圧されていると思えば、逆に雨期もこれまでとは違った味わい深い時間になる。句は世界を大きく張っているように見えるが、細かく柔らかい雨粒のようになって、読者一人ひとりの胸にじんわりとだが、確実に届くはずだ。『新歳時記・夏』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)


June 0562001

 母と子の生活の幅の溝浚ふ

                           菖蒲あや

句は、日常生活のレポート的側面を持つ。だから興味深いところがある反面、「だから」わからないところも出てくる。掲句はいわゆる「ドブさらい」を詠んでいるが、下水道が発達した現在では「ドブ」そのものが姿を消してしまった。もう二十年ほども前、泉麻人に「東京はドブの匂いがしなくなりましたね」と言われたことを覚えているので、いまの二十代くらいの人の大半にとっては、もはや理解不能な句ではあるまいか。そういう読者のために、句の載っている『俳諧歳時記・夏』(新潮文庫)の解説を丸写ししておく。「夏になって溝に汚水がたまると、蚊が発生したり、不潔な匂いを発生したりするので、近所の人達が集まって掃除をする。定期的にやるところもある。涼しい朝のうちに、主婦たちが集まって、何かと話に興じながら清掃する」。傍観者には、いわば夏の朝の風物詩。主婦にとっては、井戸端会議ならぬ「ドブ端会議」の場であった。ドブはごく細い溝だから、みんなで清掃すると言っても、自宅前のドブを浚えばよいわけだ。それを作者は「生活(たつき)の幅」と言い止めた。すなわち、「母と子」だけが暮らすささやかな家の前のドブは短い、と。物事には、実際に携わってみないとわからないことが、たくさんある。傍観者には詠めない句である。(清水哲男)




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