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June 1062001

 人叩く音にて覚めし昼寝かな

                           中村哮夫

目覚めるときに聞こえる音は、たいてい決まっている。カラスの鳴き声や鳥のさえずりであったり、新聞配達の人が駆けていく足音であったりと、耳慣れた音である。ところが昼間となると、実にいろいろな音がする。朝のように慣れた音ではなかなか目が覚めないけれど、昼の不意で雑多な音には慣れていないので、音で目が覚めることが多い。句はまずそのことを言っていて鋭いが、事もあろうに「人叩く音」というのだから穏やかではない。寝ぼけつつも、体内をサッと緊張感が走り抜けただろう。一瞬身構えて、半身を起こしたかもしれない。しかし、これはおそらく夢に混ざり込んできた音であって、現実の音は「人叩く音」ではなかったと思う。夢の中身に、タイミングよく何かの音が呼応して、それが「人叩く音」に聞こえてしまったのだ。かりに現実の音と読めば、句としては平凡すぎて面白くない。誰だって、現実の「人叩く音」には目覚めて当然だろうからだ。それにしても、いまの生臭いような音は何だったのか。作者は徐々に覚醒してくる意識のなかで、しきりに首をひねっている。表はまだ明るい。夢でよかった。読者の私も、そう思った。『中村嵐楓子句集』(2001)所収。(清水哲男)


August 1182001

 新涼や吉永小百合ブルー・ジーン

                           中村哮夫

になって感じる涼しさが「新涼(しんりょう)」。単に「涼し」と言うと、夏の暑さのなかで涼気を感じる意味なので夏の季語である。作者は東宝撮影所、同演劇部を経た舞台演出家。したがって、掲句はテレビや映画を見ての句ではなく、実景を詠んだものだろう。作句年代からすると、つい数年前の吉永小百合だ。昔から涼しげなイメージの女優であり、しかもラフな「ブルー・ジーン」姿なのだから、なるほど「新涼」にはぴったりだと思った。他に思いつく女優の名前をいくつかランダムに当てはめてみたけれど、小百合以上にしっくりとくる人はいなかった。もっとも、これは昔のいわゆる「サユリスト」の贔屓(ひいき)目かもしれず、鑑賞の客観性にはさほど自信がない。でも、ま、いいか……。彼女を一躍スターにした映画は浦山桐郎監督の『キューポラのある街』(1962・日活)であり、貧乏にもめげず明るくしっかりした性格の少女役を演じていた。すっかりファンになってしまった私は、大学新聞の文化面に「吉永小百合の不可能性」なる批評文を書いたのだったが、このタイトル以外は何も覚えていない。「可能性」ではなく「不可能性」とやったところに、なまじな「サユリスト」とは違うんだぞという生意気さが感じられる。そんなことも思い出した。句に固有名詞を詠み込むのは、それこそ客観性に乏しくなる危険性を孕むので、なかなかに難しい。私にはしっくり来たが、他の読者にはどうであろうか。『中村嵐楓子句集』(2001)所収。(清水哲男)


November 29112001

 長き夜やあなおもしろの腹話術

                           中村哮夫

語は「長き夜(夜長)」。実際に夜が最も長いのは冬至のころだが、季語としては秋に分類されている。夏の短夜の後なので、めっきり夜が長くなったと感じられる気分を尊重した分類だ。さて、掲句は寄席かキャバレーか、あるいは何かの集いでの即吟だろう。「腹話術」を、心底楽しいと賛嘆している。「長き夜」を過ごすには、絶好の芸ではないかと……。私はへそ曲がりだから、べつに「腹話術」じゃなくたって、落語もあれば漫才もあるだろうにと思い、句のどこに「腹話術」の必然性があるのかと真意を訝った。しばらく考えての結論は、こうだ。「腹話術」一般は、技術的には簡単な芸に属する。人形を操るのは難しいが、少しくらいなら「術」は誰にでもできる。できるから、仕組みを知っているから、見るときには誰もがちらちらと腹話術師の口元に注目し、意地悪くも失敗のかけらを見定めようとする。手品師を見るのと、同じ目つきになる。そこで作者が言うのは、そんなふうにして見るのは楽しくないじゃないか、「腹話術」には子供のように不思議だなあと思ってこその楽しさがある。どうせ、「長き夜」なのだ。演者のあら探しなんぞにかまけるよりも、ゆったりと騙されているほうがよほど心地よい。そんな気持ちになると、ほんとうに「あなおもしろし」ですぞ。と、これはベテラン演出家である作者の「芸を楽しむ心得第一条」のような句だと思えてくる。『中村嵐楓子句集』(2001)所収。(清水哲男)


June 0362002

 短夜や拗ねし女に投げし匙

                           中村哮夫

語は「短夜」で夏。作者はミュージカルの演出家だから、稽古の情景だろう。厳しい注文を付けているうちに、女優が臍を曲げてしまった。女性が「拗(す)ね」ると、たいていは黙りこくってしまい、手に負えなくなる。なだめすかしてみても、だんまりを決め込んで、テコでも動かない。幕を開ける日まであとわずかしかないというのにと、作者は苛々している。ましてや、夜も短い。いたずらに無駄な時間が過ぎてゆくばかり。そこで、ついに「投げし匙(さじ)」となった。どうとも勝手にしろ。怒りが爆発した。その場に「匙」があったら、本当にぶつけかねないほどの苛立ちだ。といっても、むろん即吟であるはずはなく、そういうこともありきと懐かしく回想しているので、中身に救いがある。それにしても、この匙は奇妙なほどに生々しい。たぶん、それは私が男だからだろう。思い当たる匙の一本だからである。稽古中に物を投げるといえば、若き日の(今でも、かな)蜷川幸雄の灰皿投げが有名だ。本当に投げたのかと、ご当人に聞いてみたことがある。「野球で鍛えたからね、コントロールには自信があった」。つまり、投げたのは事実だが、ちゃんと正確に的を外して投げたということ。口直しに(笑)、同じ作者の上機嫌な句を。「夏空やいでたち白き松たか子」。『中村嵐楓子句集』(2001)所収。(清水哲男)




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