百枚以上溜まったフロッピー・ディスクを整理しようと思えども、いちいち開けてみる気力がない。




2001ソスN6ソスソス22ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

June 2262001

 四方に告ぐここにわれありアマリリス

                           小沢信男

の形は百合に酷似する「アマリリス」だが、アフリカやメキシコなど熱帯地方の原産だという。ヒガンバナ科。深紅色とでも言うべき花の色が、それを告げている。しゃきっと咲いた「アマリリス」の姿は、なるほど「ここにわれあり」と「四方(よも)」に存在を主張しているかのようだ。花の姿を見ての印象は、むろん個々人によって様々かつ微妙に異なるわけだが、この句にはそうした印象のずれを許さない迫力がある。試みに句の「アマリリス」を他の花と入れ替えてみれば、事は瞭然だろう。形の近しい百合では、清楚に過ぎて役不足。しゃきっとは咲くけれど、昂然と眉を上げるような気概にはほど遠い気がする。かといって本家のヒガンバナだと、「四方に告ぐ」が暑苦しくも不遜な科白に聞こえてしまう。「アマリリス」の気品が、不遜に聞かせないのだ。アジサイでは、はじめからこんなことは言わないだろうし……。などと詰めていくと、他の花には置き換えられないことがわかってくる。さらには、ちょっと深読みになるが、この「アマリリス」は、作者の江戸っ子気質と照応しており、いわば肝胆相照らすような存在だとも思える。江戸っ子の心意気を、花に託して申し述べれば「かくのごとし」という句ではなかろうかと。「アマリリス」の擬人化が、この読みを引きだした。『足の裏』(1998)所収。(清水哲男)


June 2162001

 夏至今日と思ひつつ書を閉ぢにけり

                           高浜虚子

日は「夏至」。北半球では、日中が最も長く夜が最も短い。北極では、典型的な白夜となる。ちなみに、本日の東京の日の出時刻は04時25分(日の入りは19時00分)だ。ただ「夏至」といっても、「冬至」のように柚子湯をたてるなどの行事や風習も行われないので、一般的には昨日に変わらぬ今日でしかない。あらかじめ情報を得て待ちかまえていないと、何の感興も覚えることなく過ぎてしまう。暦の上では夏の真ん真ん中の日にあたるが、日本では梅雨の真ん中でもあるので、完璧に夏に至ったという印象も持ちえない。その意味では、はなはだ実感に乏しい季語である。イメージが希薄だから、探してもなかなか良い句には出会えなかった。たいがいの句が、たとえば「夏至の夜の港に白き船数ふ」(岡田日郎)のように、正面から「夏至」を詠むのではなく、季語の希薄なイメージを補強したり捏ね上げるようにして詠まれている。だから、どこかで拵え物めいてくる。すなわち掲句のように、むしろ「夏至」については何も言っていないに等しい句のほうが好もしく思えてしまう。多くの人の「実感」は、こちらに賛成するだろう。『合本俳句歳時記』(1974・角川文庫)所載。(清水哲男)


June 2062001

 母棲んでしんかんたりや氷水

                           清水基吉

い日に、独り住まいの老母を訪ねた。「氷水」は一般的に「かき氷」のことを言うが、四十年ほど前の句であることを考え合わせると、氷片を浮かべた砂糖水のようなシンプルな飲み物ではなかろうか。冷たいグラスには、水滴が滴っている。「しんかん(森閑)」が、小気味よくも効いている句だ。ひっそりと暮らす老母の「しんかん」。その住まいに染み込んでいるような「しんかん」。出された氷水の「しんかん」。そして母と子のさしたる会話も交わされない「しんかん」に至るまで、それらすべてが重ね合わされて浮き上がってくる。とくに変わった様子もない母親の姿に安堵して、作者はこの静けさに満足している。職場ではもとより自宅でも味わえない静けさのなかで、かく詠嘆する大人となった子供の心は、かつては賑やかだった我が家の盛りの頃をちらりと思い出したかもしれない。「人に盛りがあるように、家には家の盛りがある」という意味のことを書いたのは、たしか詩人の以倉紘平であった。掲句を読んでいて、そういうことも思い出した。「氷水」を飲んでから、作者はどうしたろうか。私なら、母に甘えてちょっと昼寝をさせてもらうだろう。そういうことも、思った。尊いほどに美しい句だ。『宿命』(1966)所収。(清水哲男)




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