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2001ソスN6ソスソス26ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

June 2662001

 病みし馬緑陰深く曳きゆけり

                           澁谷 道

したたる明るい青葉の道を、一頭の病み疲れた馬が木立の奥「深く」へと曳かれてゆく。情景としては、これでよい。だが「曳きゆけり」とあるからには、力点は馬を曳いている人の所作にかかっている。つまり、緑の「健康」と馬の「不健康」の取り合わせの妙味ではなく、眼目は曳き手が馬をどこに連れていき、どうしようとしているのか、それがわからない不気味さにある。「緑陰深く」曳かれていった馬は、これからどうなるのだろうか。謎だ。謎だからこそ、魅力も生まれてくる。句は、そんな不安が読者の胸によぎるように設計されている。ずっと気にかかってきた句だが、近着の「俳句」(2001年7月号)に、作者自身の掲句のモチーフが披露されていて、アッと思った。当時の作者は医師になるべく勉強中で、インターンとして働いていた。「舞鶴港に上陸した多数の傷病帰還兵の人々が送り込まれ、カルテを抱えて病棟の廊下を小走りに右往左往する日々の只管痛ましい思いの中で詠んだ句であった」。すなわち、作者は「緑陰深く」に何があって、そこでどういうことが起きるのかを知っていたわけだ。句だけを読んで、誰もこの事情までは推察できないだろうが、謎かけにはちゃんと答えの用意がなければ、その謎には力も魅力もないのは自明のことである。『嬰』(1966)所収。(清水哲男)


June 2562001

 月下美人あしたに伏して命あり

                           阿部みどり女

に咲く花。いまのマンションに引っ越してきたころ、管理人が育てていた「月下美人」が咲きそうだというので、深夜に子供たちを含めて、大勢で開花を待ったことがある。二十年ほど前のことだが、当時は非常に珍しく、見事に咲くと新聞の地方版に写真が載るほどだった。純白の大花。サボテン科というけれど、トゲもないし、一般的なサボテンのイメージには結びつけにくい。同じ作者に「月下美人一分の隙もなきしじま」とあるように、開花した姿は息をのむような美しさだ。その絢爛にして「一分の隙もなき」花が、しかし「あした(朝)」の訪れとともに、がっくりと首を折るようにしてうなだれてしまう。このときに作者が若年であれば、そんな花の様子に「哀れ」を覚えるだけかもしれない。が、作者の高齢(九十歳前後)は「伏して」もなお「命あり」と、外見の衰えよりも、その底で脈打つ「命」の鼓動に和している。「立てば芍薬」など、女性を花に例えるのは男の仕業であり、それも多くは外見的な範疇でのことにとどまる。しからば、逆に女性の場合はどうなのだろうか。おのれを花に擬する気持ちがあるとすれば、どのようにだろうか。回答のひとつが、この句であってもよいような気がする。『月下美人』(1977)所収。(清水哲男)


June 2462001

 麦藁帽妙にふかくて寂しいぞ

                           八田木枯

ァッショナブルな「麦藁帽」はおおむね浅くできているが、実用的な日除けとしてのそれは、つばも広くて深い。中世ヨーロッパの農民を描いた絵にもよく出てくるように、日本でもいまだに農家の必需品である。物の本によれば、ギリシャの昔から、既に実用的に用いられていたのだそうだ。農家の子供時代に、なんとなく父親の「麦藁帽」をかぶってみたことがある。子供用はなかったので(子供が畑仕事に出るときは「学帽」だった)、たわむれに近い好奇心からだ。かぶってみたときに感じたのは、まさに「麦藁帽妙にふかくて」だった。「大きくて」というよりも「深くて」の印象。帽子というものは不思議なもので、他人がかぶっているのを端から見ているだけでは、かぶっている人の心持ちはわからない。身に着けるものは、眼鏡などにしても、みなそうなのかもしれないけれど、極端に言えばその人の人格に影響するようなところがあるようだ。変哲もない「学帽」だってお仕着せではあっても、学校には無縁の今かぶることがあれば、それこそ「妙」な気持ちになるだろう。他人の「麦藁帽」か新しく求めたそれかは知らねども、思いがけない目深さに、自然にきゅうっと「さびしいぞ」と絞り出している作者の心の動きは、よくわかる。『汗馬楽』(1978)所収。(清水哲男)




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