2001N7句

July 0172001

 七月や既にたのしき草の丈

                           日野草城

半ばに梅雨が明けると、いよいよ夏の盛りが訪れる。下旬には、子供らの夏休みもはじまる。暑さも暑しの季節だが、自然的にも人事的にも他の月とは違い、「七月」は活気溢れるイメージに満ちた月だ。掲句は「既にたのしき」とあるから、まだ盛夏ではなく、新しく今月を迎えたばかりの感慨である。ぐんぐんと伸びつづける「草の丈」に、夏の真っ盛りも近いと感じ、しかも技巧的にごちゃごちゃと細工したりせずに、素朴に「たのしき」と言い止めたところが素晴らしい。この句を読んだ人はみな、庭などの「草の丈」をあらためて見てみたくなるだろう。晩年に近い長期療養中の作句であるが、作者自身の生命力のありようも伝わってくる。まだ若くて元気なころの句に「七月のつめたきスウプ澄み透り」があるけれど、モダンで美々しくはあっても、むしろ生命力の希薄さを覚えさせられる。「七月」という言葉の必然性も、体感的には希薄だ。すなわち、健康な人はついに健康を対象化できないということか。その必要もないからと言えばそれまでだし、たぶんそういうことなのだろうが……。『人生の午後』(1953)所収。(清水哲男)


July 0272001

 半夏生子の用ゆえにみだしなみ

                           神村睦代

至から数えて十一日目の今日が「半夏生(はんげしょう)」だ。と言われたって、俳人以外は、もはや誰も知りはしないだろう。知らなくても何の差し支えがあるわけでもないけれど、暁に天より毒気降る日だそうだから、好奇心がわいた。さっそく、事典を引く。「太陽の位置が黄経100度にあるときと定義されているが、暦のうえの入梅は80度、夏至は90度であるから、半夏生は夏至を挟んで、入梅と対称の位置にあるときにあたり、陽暦では7月2日ごろとなる。半夏はドクダミ科の多年草で、別名カタシログサ。水辺や低湿地に生え、一種の臭気をもつ。その半夏が生えるころという意味である。昔の農事暦では、このころまでに田植を終えるとされていた。迷信的暦注としては、この日毒気が降るので、『前夜から井戸や泉に蓋(ふた)をすべし』といわれた。〈根本順吉〉」。青字で示した部分が、農事での実用的な眼目だろう。今日は、田植のギリギリの締切日だったのだ。もっとも「半夏」は「カラスビシャク(烏柄杓)」の漢名とするほうが正しい。「カタシログサ(片白草)」の場合は、「半夏」と区別して「半夏生(草)」という名前だ。ところで掲句の「半夏生」は、本意に添った用法ではない。蒸し暑い時期という雰囲気的な使い方だと思うが、ひょっとすると「半化粧」に掛けたのかな。子供のための用事とは、PTAの会合あたりか。担任の教師や他の母親にも、だらしない印象は与えられない。迷惑するのは、子供だと思うからこその「みだしなみ」である。しかしこの有難き母心にも、ときに謀反を覚える子供心を、世の母者びとらは知り給うや。『新日本大歳時記・夏』(2000・講談社)所載。(清水哲男)


July 0372001

 枇杷すする母は手首に輪ゴムはめ

                           沢村和子

い物をすると、何でもかでも包装紙の上から「輪ゴム」をかけて渡す時代があった。文庫本でも二冊以上買うと、ぱちんと輪ゴムでとめてくれた。そうした輪ゴムは捨てないでとっておき、再利用したものである。ただ粗悪品が多かったので、せっかくとっておいても、使うときには切れてしまうこともしばしばだった。ちなみに、掲句は1956年(昭和三十一年)の作。母親が買い物の折りに、出回りはじめた枇杷(びわ)を買ってきてくれたのだろう。作者といっしょにおやつとして食べているのだが、母親の手首にはいま外したばかりの輪ゴムがとりあえず「はめ」られており、後でしかるべき場所に保管するのだ。枇杷を「食べる」のではなく「すする」という表現とともに、ゆっくりとおやつを味わうヒマもない母親の姿が活写されている。極端に言えば、中腰でのおやつ時という印象。よく働いた昔の母親像を、これだけの道具立てで描いてみせた作者の腕前は相当なものである。この句から十六年後に「風鈴や湖わたりくる母菩薩」の一句がある。合わせて読むと、ひどく切ない。そしてその三年後には「藤房の死にとどきつつさがりけり」と……。私の知るかぎり、これが沢村和子最後の作品である。『昭和俳句選集』(1977)所載。(清水哲男)


July 0472001

 端居してたゞ居る父の恐ろしき

                           高野素十

語は「端居(はしい)」で、夏。家の中の暑さを避け、縁先や窓辺で(つまり「家の端」で)涼気を求めくつろぐこと。夕方や夜のことが多い。いまや冷房装置の普及でその必要もなくなったので、すっかり「端居」という言葉も聞かなくなった。掲句は、作者が血清学研究のためのドイツ留学より戻ってからの作品なので、二十代も後半の一句だろう。子供時代の回想ととれなくもないけれど、なにせ作者は「写生の鬼」だった。生涯を通じて、回想句はほとんどない。そんな年齢でもまだ父親が「恐ろしき」と感じる心は、しかし素十ひとりのそれではなく、当時の人の大半が共有していたものだと思う。というよりも、昔から私くらいの年代にいたるまで、大人になってもなお父親の気配をうかがう性(さが)が身についてしまっているのだ。「ただ居る」という措辞が、子供のおびえの深度をよく言い当てており、ぎくりとさせられた。くつろいでいようが、父親が「ただ居る」だけで、家中がピリピリしていたことを思い出した。ちなみに、素十にあっては珍しい回想句に「麦を打つ頃あり母はなつかしき」がある。掲句を知った後では、「母は」の「は」に注目せざるを得ない。『初鴉』(1947)所収。(清水哲男)


July 0572001

 焼酎のただただ憎し父酔へば

                           菖蒲あや

だんは温和でも、ひとたび飲むと人が変わったようになる。陽気になるのならばまだしも、妙に怒りっぽくなったり暴力的になったりする人がいる。作者の父親も、いわゆる酒癖が悪かったのだ。彼が飲みはじめると、家族みんなで小さくなっていたのだろう。でも、そんなになるのは、決して父親のせいではなく、あくまでも「焼酎(しょうちゅう)」がいけないのだと……。憎しみの対象を「ただただ」焼酎に向けさせているのは、父親への愛情である。そんなになるまで飲むお父さん「も」悪いとは感じていても、それを言いたくない「いじらしさ」。一般論で言えば甘い認識だろうが、家族関係は「一般論」では括れない。一般的に酒乱なら酒乱だけを抽出して何かを言うことはできても、それは作者の「いじらしさ」の出所とはついに無縁であるだろう。ただ、こういう論法自体を、それこそ一般的には酒飲みの自己弁護と言うらしい(笑)。ところで「焼酎」は夏の季語だ。何故か。江戸期の図解入り百科事典『和漢三才図会』に「気味はなはだ辛烈にして、つかへを消し、積聚を抑へて、よく湿を防ぐ」とある。おまけに安価。つまり、手っ取り早い暑気払いには絶好の飲み物というわけである。『新歳時記・夏』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)


July 0672001

 出荷箱数多の金魚ぶつからず

                           渡辺倫子

西で頑張っている総合誌「俳句文芸」のコンクールで、竹中宏が特選に選んだ句。金魚の句は数あれど、出荷時の金魚を詠んだ句は珍しい。作者は奈良市在住とあるから、日本最大の産地である大和郡山市あたりでの実見だろう。私は見たことがないので、この「出荷箱」がどんな形状をしているものなのか、見当もつかない。しかし選評で竹中さんも述べているように、そのような知識がないと観賞できない句ではない。とにかく、積み重ねられては次々に運ばれていく「箱」には「数多(あまた)の金魚」が揺れている。小さな金魚にしてみれば、とてつもない大揺れのなかにある。しかも、揺れは不規則きわまりないのだ。ここで、作者の目が光った。そんな大揺れのなかにあっても、一匹一匹がお互いに、決してぶつかりあうことはない。人間だったら「ぶつからず」どころか、パニックを起こして阿鼻叫喚の世界となるところだ。「この世の重力や時間とは別な物理の支配する世界が、こんなところにあった?」(竹中評)という発見が素晴らしい。「出荷箱」とゴツゴツと句を起こしている技法も、現場の雰囲気を伝えて効果的だ。「俳句文芸」(2001年7月号)所載。(清水哲男)


July 0772001

 牽牛織女文字間違へてそよぎをり

                           川崎展宏

京あたりでは、七夕を陽暦で行う。梅雨のさなかで「牽牛織女」もあったものではないが、明治の陽暦採用時に、せめて東京人だけでもと新暦に義理を立てた名残りだろうか。季語としては秋に分類されている。ところで、掲句は皮肉を詠んでいるのではない。短冊の誤字にもまた、風情があってよろしい。「一所懸命書いたんだろうになあ」と、作者は微笑している。短冊の文字の句で有名なのは、石田波郷の「七夕竹惜命の文字隠れなし」だが、療養所での七夕祭ゆえに「惜命」の二文字が胸に突き刺さるようだ。さて、たまたま掲げた二句ともに文字にこだわっているけれど、これはたまたまの暗合ではなく必然性がある。七夕の由来は複雑でここに書ききれないが、行事的な一つの意味は文字や裁縫の上達を願うところにあった。私が小学校で習った七夕も、この意味合いが強かった。早朝に里芋の葉にたまった露を集めて登校し、その水で墨をすって文字を書いたので、よく覚えている。書く文字もそれこそ「牽牛織女」であり「天の川」であり、小さい子は「おほしさま」だつた。いまのように願い事は書かなかった。もっとも書けと言われても、敗戦後の混乱期だったから、願いを思いついたかどうか。せいぜいが「白い飯を腹いっぱい食いたい」などと、そんなところだったろう。『蔦の葉』(1973)所収。(清水哲男)


July 0872001

 線香花火果てし意中の火玉かな

                           櫛原希伊子

の命は「意中の火玉」にある。真っ赤な火玉が徐々にふくらんでいきパッパッと火花を散らすわけだが、あまり大きくなりすぎるとぽたりと落ちてしまうし、小さいままだと火花もか細く終わってしまう。そのふくらんでいく様子を見ているうちに、なるほど火玉は「意中」としか言いようのない状態に入ってくる。このスリルも、「線香花火」の魅力の一つだろう。句の「火玉」は、大きく熟れたところで惜しくも「果て」てしまった(自註)。ところで、花火師だった父に言わせると、大きな打ち上げ花火よりも「線香花火」のほうが面白いのだそうだ。参考までに、父が某百科事典に書いた解説の引用を。「黒色火薬系の薬剤は燃えてもガスが少なく、薬の6ないし7割が燃えかすとして残る。これには多量の硫化カリウムが含まれていて、丸く縮んで火球をつくり、その表面が空気中の酸素と反応して緩やかに燃える性質がある。木炭の性質は線香花火の原料として重要である。燃えやすい炭(松炭、桐(きり)炭など)に少量の燃えにくい炭(油煙や松煙など)を混合して用いられる。前者は薬剤の初期の燃焼に必要であり、後者は火球の中に残って、爆発的に火球の表面から松葉火花を発生する」〈清水武夫〉。父が面白いと言ったのは、前者と後者の配合が手作業ではなかなか巧くできないところにもありそうだ。つまり、結局は火をつけてみないと効果はわからない……。だから、あらゆる「意中」のものと同様に、この玩具花火も「意中」から大きく外れることが多いということ。『櫛原希伊子集』(2000)所収。(清水哲男)


July 0972001

 山風を盆地へとほす葭障子

                           藤田直子

かにも涼しそうだ。実際にはどうであれ、座敷などに「葭障子(よししょうじ)」が建てつけてあるだけで、涼味を誘う。その涼味をあらわすのに、山からの風を「盆地へとほす」(ようだ)と大きく張ったところが素晴らしい。かりに「葭障子」の発明者がいるとして、掲句を読んだら、ここに本意きわまれりと感激するにちがいない。網戸や簾(すだれ)、暖簾(のれん)などもそうだし、夏料理にしてもそうだが、湿気の多い日本の夏を少しでも涼しく過ごすための工夫は、一つ一つを考えてみると、実に面白くもあり感心もさせられる。現今の暴力的な冷房装置とは違い、五感すべてをフルに動員してこその涼味が、そこにある。人間をも含めた自然との親和的な交感が、具体的に表現されている。「葭障子」の近代版は網戸と言えようが、波多野爽波にこんな愉快な句がある。「網戸越し例の合図をしてゆける」。網戸は表から室内が丸見えになっているようでいて、さにあらず。むろん昼間にかぎるが、表のほうがよほど明るいので、表からは中がよく見えない。その見えない薄暗がりに向けて、「今夜は例のところで一杯やろうぜ」などと「合図」を送ってきた悪友の姿がほほ笑ましい。私生活がほんのりと表に開かれていた時代のほうが、私は好きだな。『極楽鳥花』(1997)所収。(清水哲男)


July 1072001

 籐椅子の家族のごとく古びけり

                           加藤三七子

具店に陳列してある「籐椅子(とういす)」は別にして、私などのこの椅子のイメージは、いつも「古び」ている。旅先での宿に置いてあったりするが、坐るとぐにゃりと曲がったり、よく見ると織り込んである籐の茎があちこち切れていたりする。一種のぜいたく品だから、そうそう買い替えるわけにもいかないのだろう。ましてや、普通の家庭では買うこともままならない。というよりも、買おうという発想すら浮かばない。したがって、私が掲句から得たいちばんのものは、句には書かれていないところである。すなわち「籐椅子」を日常の家具として使えるような、作者の家の暮しぶりへと自然に関心が行ってしまった。その上での「家族のごとく」なのだからして、私の知る数少ない良家の「家族」のありように思いをめぐらし、なんとなくでしかないが、この比喩に納得できたような気はする。静かに「古び」ていく家族の一人として、作者は「籐椅子」に腰かけながら、この椅子が新しかったころの家の活気を回想しているのだと想像した。もう、あの元気な「家族」との楽しかりし日々は戻ってこないのである。もっとも、これは私の思い過ごしで「籐椅子にさまで哀しきはなしにあらず」(高橋潤)なのかもしれないが……。『萬華鏡』(1975)所収。(清水哲男)


July 1172001

 父ひとりゆく日盛りの商店街

                           廣瀬直人

独の肖像。偶然に、後ろ姿を見かけたのだろう。アーケードがなかった頃の「日盛りの商店街」は、さすがに人通りも少ない。そんなカンカン照りのなかを、老いた父親がひとりで歩いている。それでなくとも男に昼間の商店街は似合わないのに、何か緊急の買い物でもあるのだろうか。それとも、この通りを抜けて行かざるを得ない急ぎの用事でもできたのか。呼び止めるのもためらわれて、作者はそこで目を伏せたにちがいない。それこそ用事もないのに、次の角を曲がったか。えてして、男同士の親子とはそんなものである。だから、この「父」の姿は多くの男性読者の父親像とも合致するだろう。その意味で、作者の単なる個人的なとまどいを越えて、掲句は説得力を持ちえている。この父親像は、今日も確実に各地の「商店街」に存在している。ただし、句集を読めばわかることだから書いておくが、作者がなぜこの句を詠んだのかには抜き差しならぬ事情があったのだ。作者の妹である「父」の娘が、少し前に産児とともに急逝したという事情である。「青嵐葬場に満ち母と子焼く」など作者痛恨の十句あり。そうした事情があってのこの句なのだが、しかし、作者が目撃した「父」の事情は、あるいはこの事態とはかけはなれていたかもしれない。が、妙な忖度などせずに、すっと「父」の後ろ姿に目を伏せるのが、私の愛する表現を使えば「人情」というものである。『帰路』(1972)所収。(清水哲男)


July 1272001

 木に登る少年は老い夏木立

                           三宅やよい

い木陰をつくり、群れ立っている夏の木々。葉が茂っているので下からは姿がよく見えないのだが、その一本に少年が登っている。なんだか、このまま彼が下りてこないような感じを受けたのだろう。木の上では猛烈なはやさで時間が過ぎていて、登った少年もあっという間に年をとってしまう……。という、夏の真昼時の幻想だ。この句に出会って、もうずいぶんと木に登ってないなと思った。少年時代には、退屈すると登った。適当な枝に腰掛けて脚をぶらぶらさせ、青葉のかげから遠くを見ていた。たまに下を通る人がいると、何故だか知らないが、気がつかれないように身を小さくしたものだった。柿の木は折れやすいので登ってはいけないと知りながらも、おっかなびっくり登るスリルも楽しんだ。本当に、枝といっしょに落っこっちゃった不運な友もいたけれど……。木の上に暮らしていたハックルベリー・フィンじゃないが、あそこには地上とは別の魅力的な世界がある。地面からほんのわずか浮き上がっただけなのに、子供でも(子供だからか)人生観が変わったような気にすらなる。私などもはや木に登ることもあるまいが、いま登ったとしたならば、たまさか通りかかった誰かは、どんな句に仕立ててくれるだろうか。ま、その前に、おせっかいな誰かが飛んでくるのだろう。そういえば、どなたか俳句の「モデル」になったことはありますか。『玩具帳』(2000)所収。(清水哲男)


July 1372001

 ナイターの点灯しなほ薄暮なる

                           岩崎健一

しい歳時記が出ると、必ず引いて見る項目に「ナイター」がある。野球狂の習い性だ。病膏肓だ。だが、なかなかこれだという句にはお目にかかれない。掲句も、残念ながら句としては面白みに欠ける。現場の魅力に寄り掛かりすぎているからだ。と言いつつも引く気になったのは、句の出来はともかくとして、作者が「ナイター」の劇場的な醍醐味をよく知っているなと思ったからだ。夕方の6時くらいから試合がはじまるわけだが、日没が7時に近いという今ごろの試合だと、まだ明るくて点灯されていない。薄暮ゲームが、しばらくつづく。と、そのうちに、まだかなり明るいのに、照明灯に火が入る。このあたりのタイミングで、句は詠まれた。そして、この後の十五分くらいの間の球場の美しい変化については、申し訳ないが実際に見ていただくしかない。十五分ほどの時の流れのなかで、徐々に変わっていく自然と人工の光線の織りなす微妙な移り変わりの様子は、晴れていればいるほどに素晴らしい。これだけでも、出かけて金を払う値打ちがある。したがって、逆に「ナイターの雨を見てをり夫の背」(丹間美智子)にはひどく辛いものがある。せっかく、楽しみにして二人で遠出してきたのに……ね。いい奥さんだ、なんて野暮な雨なんだ。句としては、断然こちらの勝ちである。『新日本大歳時記・夏』(2000・講談社)所載。(清水哲男)


July 1472001

 涼風も招けバ湯から出にけり

                           西原文虎

ことに機嫌のよい句だ。読者には、作者の「上機嫌」が自然にうつってしまう。たいした中身ではないのだけれど、夏の入浴の快適さを、そしてみずからの上機嫌をすっと伝えるのは、本当はなかなかに難しい。いつかも書いたように、「喜」と「楽」の表出は日本人の苦手としてきたところなのだ。「涼風」は「すずかぜ」と、私なりに勝手に読んでおこう。文虎は一茶晩年の信州での最も若い弟子で、この日は師や兄弟子たちとともに温泉に遊んでいる。「涼風も」の「も」は、一茶や先輩たちの顔を立てての言でもあるが、彼の上機嫌は「涼風」の心地よさもさることながら、みんなのなかにいることそれ自体の嬉しさから出ている。そして、この素直な詠みぶりには一茶の息が感じられる。句には長い前書があり、温泉に来る途中でのつれづれの雑談も記録されている。「行く行くたがひに知恵袋の底を敲ていはく。支考ハうそ商人、其角は酒狂人、獨古鎌首ハむだ争ひに月日をついやすなとゝ。口に年貢の出でざればいちいち疵ものになして、興に乗じて箱峠のはこも踏破りつゝ、程なく田中の里にいたる。……」。口で何を言っても年貢を取り立てられるわけじゃなしと、言いたい放題の悪口も楽しかったのだ。この日は雲一つない晴天で、師の一茶もすこぶる元気だったという。からりとした信州の夏の日の、からりと気持ちの良い一句である。栗生純夫編『一茶十哲句集』(1942)所載。(清水哲男)


July 1572001

 時の来て朴と涼しき別れかな

                           中山世一

に入りました。「別れ」の内実はともかく、すべての別れがこうであったらなあと、事実かどうかには関係なく、ここには作者の「別れ」への理想形が表れていると愚考します。「朴(ほお)」は現実の朴でもありますが、、吐息としての「ほお(っ)」でもあるでしょう。「朴」の木は、たしかに「ほお」というほどの高木であり、またそれくらいの印象で終わってしまう木のような気がします。私の田舎でも、いつも朴は「ほお(っ)」と立っていました。下駄の素材になるのだよと、教室で教わりました。人はとかく「別れ」に際して内省的にせよ、いろいろと暑苦しい理屈や感想を並べたくなるものです。仮に「時の来て」と、あらかじめわかりきっている、いわば当然の「別れ」についても……です。そのほうが普通なのでしょうが、たまには僥倖としか言いようのない「涼しき別れ」に恵まれることもなくはないでしょう。掲句を読んで、いくつかの「別れ」を思い出しました。「じゃあね」と軽く手を振って「ぼくらは死ぬまで別れられるのである」なあんて、そんな詩を書いたこともありましたっけ。以上の感想は、もちろん字面通りに、「時の来て」伐り倒されてしまうのか、朴の木のある土地との惜別か、それらをイメージした上でのものであります。『雪兎』(2001)所収。(清水哲男)


July 1672001

 さつきから夕立の端にゐるらしき

                           飯島晴子

なたにも、体験があるのではなかろうか。パラパラッと降ってきたかと思うと、サアッと日が射してくる。誰かの句に、銀座通りを夕立が駆け抜けていく様子を詠んだものがあったと思うが、雨の範囲が狭いのが夕立の特徴だ。なるほど「夕立の端」と、稚気を発揮して言うしかか言いようがない。この句には自註があって、気になることが書かれている。それまでの作者は、何か目に見えて強い手ごたえのある詩的時空を実現させたいと願ってきた。しかし「俳句の詩としての究極の手応えの強さ、確かさは、面の一見の強い弱いにはかかわらないということである。一見は何も無いようで、触ってみると固い空気のようなものが在るのも愉しいではないかということである。掲句でそういうことが出来ているかどうか。多分まだ抜き残した部分があるのだろうが……」(別冊俳句『現代秀句選集』1998)。俗に言う「肩の力を抜く」に通じる心境だろうが、一読者としての私も、だんだん同じような心境に近づきつつある。幾多の華麗な句や巧緻の句に感心しつつも、めぐりめぐってまた「一見は何も無い」子規句のような世界に戻っていきそうな自分を感じている。トシのせいだとは、思えない。単に、そのほうがよほど「愉しい」からだ。『儚々』(1996)所収。(清水哲男)


July 1772001

 浜田庄司旧居の巨き冷蔵庫

                           辻 桃子

某の人となりを偲ぶというときに、業績ばかりではなく遺品も一つの手がかりとなる。故人を顕彰した記念館などに行くと、愛用した品々が展示されている。作家なら原稿用紙とか万年筆だとか、画家ならイーゼルとか絵筆の類だとか。それらもむろん興味深いが、句のようにさりげない生活道具もまた、故人の人となりを雄弁に物語る。故人がこの「巨き冷蔵庫」を気に入っていたかどうか、いや意識していたかどうかもわからないけれど、日常を共にしていたのは確かなことだから、いわゆる愛用品よりも生々しい手がかりとして迫ってくる。「浜田庄司」は陶芸家。バーナード・リーチとの親交や柳宗悦らと民芸運動を推進したことでも知られる。大正末期より益子(栃木県)に定住して、素朴な益子焼の味を生かし、質朴雄勁な作風を確立した。その作風と「巨き冷蔵庫」に、作者は通じるものを感じて、この句を得たのだろう。私は一度だけ、三十年ほど前に益子を訪ねたことがある。浜田庄司邸は見晴らしの良い土地に建っており、大きくて庄屋の家みたいだなと思った記憶がある。存命だったから、家のなかに「巨き冷蔵庫」が置かれているなどは知る由もなかった。いま調べてみたら、没くなったのは1978年(昭和五十三年)のことだった。『花』(1987)所収。(清水哲男)


July 1872001

 青草をいつぱいつめしほたる籠

                           飯田蛇笏

読、微笑を誘われた。そして、思い出した。子供の頃にホタルを採るのはよいとして、心配だったのは「ほたる籠」に入れた後のホタルの世話である。ぜんたい、何を食べるのかもわからない。子供にホタルの光を観賞しようというような風流心は希薄だから、採ったらずうっと飼う気持ちなのである。飼うためには、どんなことをすればよいのか。大人に聞いてみても、無情に「はて……」などと言う。ノウハウがない。仕方がないので、そのうちに、ホタルのいる環境を「ほたる籠」のなかに作ってやることを思いつく。私の場合も適当に青草を敷いて、少し水を含ませた。句の子供はまだ小さいから、お兄ちゃんたちの見よう見真似で敷いたのはよいが、青草をぎゅう詰めにしてしまっている。でも、得意満面だ。おいおい、それではホタルを入れられないよと、作者は苦笑もし微笑も浮かべているのである。一つ一つ、こんなことを経験しながら、子供は育っていく。作者も、おそらくは遠い日のことを思い出しているのだろう。季語は「ほたる(蛍)」ではなく「ほたる籠(蛍籠)」。私のころは、竹製のものが多かった。『新日本大歳時記・夏』(2000)所載。(清水哲男)


July 1972001

 「実入れむ実入れむ」田を重くする蝉時雨

                           和湖長六

わゆる「聞きなし」である。鳥のさえずりなどの節まわしを、それに似たことばで置き換えることだ。地方によっても違うだろうが、たとえばコノハズクの「仏法僧」、ホオジロの「一筆啓上仕り候」、ツバメの「土喰うて虫喰うて口渋い」、コジュケイの「ちょっと来い、ちょっと来い」などが一般的だろう。米語にもあるようで、コジュケイは「People pray」だと物の本で知った。日本人のある人には「かあちゃん、こわい」としか聞こえないそうだ(笑)。このように、鳥の「聞きなし」は普通に行われてきたが、掲句のような蝉のそれには初めてお目にかかった。「蝉時雨」だから何蝉ということではなく、作者には集団の鳴き声が「実入れむ実入れむ」と聞こえている。青田を圧するように鳴く蝉たちの声を聞いているうちに、自然にわき上がってきた言葉だから、無理がない。それにしても、こんなにも連日やかましく「実入れむ」と激励されるとなると、いよいよ田の責任は重大だ。「田を重くする」は、そんな田の心情(!)と、田を押さえつけるような蝉時雨の猛烈さとを、諧謔味をまじえて重層的に表現していて納得できる。この夏、信州に行く。あの一面の青田に出会ったら、きっとこの句を思い出すだろう。はたして「実入れむ」と聞こえるかどうか。楽しみだ。『林棲記』(2001)所収。(清水哲男)


July 2072001

 葉も蟹も渦のうちなる土用かな

                           依光陽子

日は「土用」の入りだ。春夏秋冬に土用はあって、その季節の終わりの十八日間を言う。陰陽五行説。夏の土用は暑さのピークで、他のそれに比べて季節感が際立つために、単に「土用」といえば夏の土用を指すのが一般的だ。俳句でも夏の季語とされてきた。掲句は、渦巻く水のなかで「葉も蟹も」もみくちゃにされている。「葉も蟹も」に小さな命を代表させているわけで、実際にこんな情景を見られたとしたら、見ている人間も「渦」に吸い込まれ巻き込まれる一つの小さな命に思えてくるに違いない。作者の実見かどうかには関係なく、うだるような暑さの「渦」に翻弄される命のありようが、よく伝わってくる。「土用」で付け加えておけば、今日からの十八日間が元来の「暑中」なので、いまでも律義な人はこの期間中にしか暑中見舞状を出さない。私の知りあいにも、そういう人がいる。また、気になる今年の「土用の丑」は7月25日(水)だ。いずれにしても、夏の真っ盛りがやってきました。読者諸兄姉におかれましては、ご自愛ご専一にお過ごしくださいますように……。「俳句研究」(2001年8月号)所載。(清水哲男)


July 2172001

 貧乏な日本が佳し花南瓜

                           池田澄子

瓜は、日本が貧乏だったころを象徴する野菜だ。敗戦の前後、食料難の時代には、いたるところで南瓜が栽培されていた。自宅の庭はもとより、屋根の上にまで蔓を這わせていたのだから、忘れられない。花は夏の間中咲きつづけ、次から次へと実を結ぶ。肥料もままならなかったのに、よほど生命力が強くたくましい植物なのだ。屋根の上の花はともかく、だいたいが地べたにくっつくように咲くので、黄色い花は土埃をかぶって汚らしい印象だった。あまり暑い日には、不貞腐れたようにしぼんでしまう。しぼむと、しょんぼりとして、ますます汚らしい。南瓜ばかり食べて、人々の顔は黄色くなっていた。そんな時代のことを、作者は豊かな日本の畑の一画に「花南瓜」をみとめて、思い出している。肥料も潤沢だから、きっとこの花は、写真に撮って図鑑に載せてもよいくらいに奇麗なのだろう。しかし作者は、きっぱりと「貧乏な日本が佳(よ)し」と言い切っている。貧乏がよいわけはないけれど、いまのような変な豊かさよりは、断じて「佳(よ)し」と。この断言は、さまざまなことを思わせて、心に沁みる。変化球を得意とする作者が、珍しく投げ込んできた直球をどう打ち返すのか。それは、読者個々の思いにゆだねなければなるまい。『ゆく船』(2000)所収。(清水哲男)


July 2272001

 夏の夜や崩て明し冷し物

                           松尾芭蕉

少納言は「夏は、夜」がよろしいと言った。「月のころはさらなり、闇もなほ、螢の多く飛びちがひたる」。違いないが、健全な風流心にとどまっている。そこへいくと、掲句の「夏の夜」はよろしいようなよろしくないような、とにかく健全さは読み取れない。「なつのよやくずれてあけしひやしもの」と読む。句会が宴会に転じ、ずるずると飲みかつ語るうちに、夜がしらじらと明け初めてきた。その光のなかで卓上を見やれば、昨夜のせっかくの冷えた酒肴も見苦しく崩れてしまっている。みんなの顔もとろんと大儀そうで、ああ適当に切り上げておけばよかったのにと、後悔の念にかられているのである。眼目は、実際に「崩て」いるのは「冷し物」なのだが、座全体が「崩て」しまっている雰囲気を、崩れた「冷し物」に象徴させているところだ。徹夜の酒席の常であり、江戸期も現代も同じことで、最後はこの狼藉ぶりに後悔しながらのお開きとなる。蛇足ながら、旅にあった芭蕉は別室ですぐに休めたろうが、朝のまぶしい光のなかを歩いて帰宅する人もいたはずで、そんな人は一句ひねるも何もなかっただろう。私はいま、若き日に徹夜で飲んだ果ての新宿の早暁の光を思い出している。(清水哲男)


July 2372001

 市中は物のにほひや夏の月

                           野沢凡兆

の出のころを詠んでいる。一般的に「夏の月」といえば、心理的に夜涼を誘う季語である。が、まだ「市中(いちなか)」に「物のにほひ」があるというのだから、赤くほてるような感じで月がのぼってきた時刻の情景だろう。風もなく蒸し暑い「市中」に、ぎっしりと軒をつらねる店々からの雑多な「にほひ」が、入りまじって流れて来、なおさらに暑く感じられる。そのむうっと停滞した熱気が、よく伝わってくる。この句に、芭蕉は「あつしあつしと門々の声」とつけているが、私には気に入らない。臭覚的な「物のにほひ」の暑さから、逃れるようにして空を見上げるようなことは誰にでもある。つまり五感の切り替えというほとんど本性的な知恵なのだが、そこにもかえって暑さを増幅するような月しかなかったという諧謔味を、芭蕉は聴覚的に解説してみせたのだろう。でも、言うだけ野暮とはこのことで、凡兆は「あつしあつし」とストレートに表現する愚を避け、わざわざ工夫と技巧をこらして迂回したというのに、「それを言っちゃあお終いよ」ではないか。連句は、第一に気配りの文芸だ。この日の芭蕉は、よほど機嫌が悪かったのかもしれない。参考までに、機嫌がよいときの芭蕉の名句を。「蛸壺やはかなき夢を夏の月」。(清水哲男)


July 2472001

 重荷つり上げんと裸体ぶら下る

                           竹中 宏

語は「裸」で夏。これぞ「裸」のなかの「裸」だ。もとより全裸ではないのだけれど、まったき裸の凄みを感じる。真夏の工事現場あたりでの嘱目吟かもしれないし、そうではないかもしれない。そんなことはどうでもよいと思われるほどに、この「裸体」には説得力がある。底力がある。人間、いくら生きていても、裸でこのように渾身の力と体重をかけて何かをする機会は、めったにあるものではない。句の男は、それを当たり前のようにやっている。当人はもちろん、見ている側にも、いや句を読んでいるだけの側にも力が入る。単純でわかりやすい構図だけに、よりいっそうの力が入るのだ。こういう句を読むと、炎暑に立ち向かうという気概がわいてくる。小手先でごちゃごちゃクレーンの装置などをいじっているよりも、この男の単純な力技の発揮のほうが、よほど清冽な真夏の過ごし方だと思えてしまう。はたして、この「重荷」はつり上がったろうか。なかなかつり上がらずに、男はぶざまにも宙で脚をバタバタさせることになるのかもしれない。それも、また良し。作者の役割は「ぶら下がる」ときの気合いだけを伝えることなのだから。作者の竹中宏は、十代からの草田男門である。「翔臨」(第41号・2001年6月30日発行)所載。(清水哲男)


July 2572001

 土用うなぎ冷戦に要るエネルギー

                           かとうさきこ

手が男であれ女であれ、昔から「冷戦」は苦手だ。パパッと言い合ったほうが、よほど楽である。しかし、止むをえずに「冷戦」に入ることもある。私から言わせれば、みんな相手のせいなのだ。不意に「むっ」と押し黙ったまま、物を言わなくなる。このタイプは、男よりも圧倒的に女に多い。こうなったらお手上げで、何を言っても無駄である。勝手にしろと、喧嘩のテーマを外れたところでも腹が立ち、しかし声をあらげるのも無駄だと知っているので、こちらも黙り込んでしまう。ここから、立派な「冷戦」となる。「冷戦」の嫌なところは、いつまでも尾を引くところ。その間に、ああでもあろうかこうでもあろうかと相手の心を推し量ることにもなり、なるほど「エネルギー」が要ること、要ること。この句を読んで感心させられたのは、「冷戦」中の作者がちゃっかり(失礼っ)と「土用うなぎ」に便乗してエネルギーを補強しているところだ。事「冷戦」に関しては、私に限らず、男にはまずこんな知恵はまわらないだろうと思う。たとえフィクションであろうとも、だ。したがって、掲句に「冷戦」得意の女性一般(気に障ったら、ごめんなさい)の強さの秘密を垣間みたような……。面白い発想だなあと、男としては、さっきから感心しっぱなしなのである。「俳句界」(2001年8月号)所載。(清水哲男)


July 2672001

 処女二十歳に夏痩がなにピアノ弾け

                           竹下しづの女

い女を叱りつけている。「処女」は「おとめ」。夏痩せでしんどいなどと言うけれど、まだ「二十歳(はたち)」じゃないの。若いんだから、たかが夏痩せくらいでグズグズ言わずに、ちゅんと仕事をしなさいっ。作者は、杉田久女や長谷川かな女と同世代の「ホトトギス」同人。はやくに夫を亡くし、五人の子女を女手ひとつで育て上げた。句集を読んでいると、その労苦のほどがしのばれる。同じころに「夏痩の肩に喰ひ込む負児紐」があり、夏痩せの辛さは我とわが身でわかっているのだ。そこを耐えて踏み越えていかなければと、若い女のわがままに我慢がならなかったのだろう。「男まさり」と言われたが、昭和初期の社会で男に伍して生きていくためには、めそめそなどしていられない。天性の気性の強さがあったとはいえ、そうした生活の条件がさらに強さを磨き上げたのである。夫亡き後は、職業婦人として図書館に勤めた。「汗臭き鈍の男の群に伍す」と、心の内で「鈍(のろ)の男」どもに怒りつづける日々であった。ところで、ダイエット流行の今日、掲句の痩せたことを喜ばぬ女性の態度に不審を覚えるむきもあるかもしれない。が、「夏痩」は食欲不振の栄養不良から来るもので、ほとんど病気状態だから、辛いことは辛かったのだ。『女流俳句集成』(1999)所収。(清水哲男)


July 2772001

 冷奴つまらぬ賭に勝ちにけり

                           中村伸郎

機嫌である。「つまらぬ賭(かけ)」とは何だろうか。知る由もないが、結論はわかりきっているのに、あえて「賭」をいどんできた奴に応えたところが、やっぱりそうだったということだろう。つまり、結論はわかっていたのだが、それを言いたくもないのに口に出さされた不機嫌なのである。想像するに、たとえば賭の対象は女性で、彼女の艶聞の真偽にからんでいた……とか。「つまらぬ賭」の相手は目の前にいて、「今夜は俺のおごりだ」などとほざいている。負けたほうがニヤニヤする賭事も、よくある。だから「冷奴」も美味くはない。なんとなく、ぐじゃぐじゃとつついている。そんな気分のありようが、よく伝わる句だ。ところで、作者は文学座の役者で小津映画にもよく出ていた、あの「中村伸郎」だろうか。人違いかもしれないけれど、だとすれば、この冷奴の食べ方も、より鮮やかに目に浮かんでくる。小津映画のなかで、彼はもっとも無感動に物を食べる演技の名人だった。『新歳時記・夏』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)

[まったくの余談…]ご本人だとしたら、二十年ほど前のスタジオで、一度だけお話をうかがったことがある。話の中身はすっかり忘れてしまったが、とにかくとても煙草の好きな方だった。晩年は医者に禁じられたそうだが、苦しかったにちがいない。お通夜の席で、みんなで線香代わりに煙草を喫って偲んだという新聞記事が出た。どうせ助からないのなら、存分に喫わせてあげればよかったのに。実に「つまらぬ」医者もいたものだと、義憤を感じたことを覚えている。


July 2872001

 弟子となるなら炎帝の高弟に

                           能村登四郎

い暑いと逃げ回るのにも、疲れる。かといって、しょせん凡人である。かの禅僧快川が、火をかけられ端坐焼死しようとする際に発したという「心頭を滅却すれば火もまた涼し」の境地には至りえない。ならば、猛暑の上を行ってやろう。すなわち、いっそのこと「炎帝(えんてい)」の弟子になってやれ、それも下っ端ではなくて「高弟」になるんだ。「高弟」になって、我とわが身を真っ赤な火の玉にして燃えつづけてやるんだ……。暑さには暑さを、目には目を。猛暑酷暑に立ち向かう気概にあふれていて、気持ちの良い句だ。しかし、よほど身体の調子がよいときでないと、この発想は生まれてこないだろう。「炎帝」は夏をつかさどる神、またはその神としての太陽のことで、れっきとした夏の季語である。同じ作者に「露骨言葉に男いきいき熱帯夜」があり、こちらは立ち向かうというのではなく、やり過ごす知恵とでも言うべきか。どうせよく眠れない「熱帯夜」なのだからと、酒盛りをおっぱじめ、飲むほどに酔うほどに卑猥な言葉を連発しあっている男たち。不眠に悶々とするよりは、かくのごとくに「いきいき」できるのだからして、「露骨言葉」もなんのそのなのである。『寒九』(1986)所収。(清水哲男)


July 2972001

 炎天下おなじ家から人が出る

                           永末恵子

らぎらと灼けつくような日盛りの通りだ。人影もない。すると、とある家から「人」が出てきた。そして「おなじ家」から、また人が出てきた。ただそれだけのことなのだが、作者はなんだか不意をつかれたような気持ちになっている。ひとりだけならば、さほど何も感じなかったろう。つづいてもうひとり出てきたことで、この「炎天下」に何用かと、思わずも出てきた「人」たちにではなく、その「家」のほうに、不思議なものでも見るような視線を走らせたにちがいない。つまり、その「家」の事情に関心が動いたのだ。すなわち、いま止むを得ずに「炎天下」にいる自分の事情以上の事情があるような気がしてしまったのである。私には、句の全景が白日夢のように写る。あるいは、無声映画の露出オーバーの一シーンでも見ているような感じだ。真っ白な道のむこうに建つ真っ黒な家から、真っ黒な人影がぽろりぽろりと出てくる無音の世界……。炎天、ここに極まれり。作者の出発は自由詩だったと聞くが、自由詩では書けない世界をちゃんと知っている人ならではの「俳句」だとも思った。『留守』(1994)所収。(清水哲男)


July 3072001

 日と月と音なく廻る走馬燈

                           岩淵喜代子

絵仕掛けの回り灯籠。今流に言えば科学玩具だが、物の本によると「中国から伝来したもので、江戸時代初期、宗教的色彩の濃いものからしだいに変化して、元文年間(1736〜41)以後、遊戯的な技巧や工夫が加えられ、夏の納涼玩具として発達した」のだという。作者は「音なく迴る走馬燈」を見ている。その影絵に「日と月」が具体的にあったのかどうかは別にして、「音なく迴る」のは「日と月」も同じであることに思いが至っている。すなわち、この宇宙全体が一種の走馬燈みたいなものではないか、と。この時間も、走馬燈といっしょに「日と月」も廻っているのだ。そのことに思いが至って、また目の前の走馬燈を見つめ直すと、単なる涼感以上の感慨がわいてくるようだ。通いあう句に、角川源義の「走馬灯おろかに七曜めぐりくる」がある。これはこれで捨てがたいが、時空間的に大きく張った掲句は、走馬燈の玩具性をはるかに越えており、そこに作者の手柄が感じられる。影絵のよさは、仮想現実(バーチャル・リアリティ)を目指さないところだ。あくまでも、影でしかないのである。仮想にとどまるのだ。だから、想像力の活躍する余地が大きい。両手を使ってたわむれに障子に写し出すイヌやキツネの影に、目を輝かす子はいまでもたくさんいるにちがいない。『蛍袋に灯をともす』(2000)所収。(清水哲男)


July 3172001

 夏木立一とかたまりに桶狭間

                           高野素十

念なことに現地を知らないので、掲句が「桶狭間(おけはざま)」の光景をうまく言い当てているのかどうかはわからない。桶狭間といえば、古戦場として名高い。1560年(永禄3年)5月19日、尾張桶狭間(現・愛知県豊明市)における今川義元と織田信長の壮絶な戦いがあった土地だ。この戦(いくさ)に勝利したことで、信長には決定的な弾みがついた。そんな歴史を持つ土地を訪ねてみると、想像していたよりもずうっと狭い感じがしたので、「一とかたまり」と言ったのだろう。往時と変わらぬはずの「夏木立」を遠望しながら、作者は武将たちの運命を決した舞台のあまりの小ささに感じ入っている。「一とかたまり」が、よく効いている。ところで、素十の句集をパラパラ繰ってみるだけでわかることだが、彼は「一」という数字を多用した俳人だ。句作にあたって「先ず一木一草一鳥一虫を正確に見ること」を心がけたというが、逆に多面的重層的な森羅万象を「一」に帰すことにも熱心だった。彼の「まつすぐに一を引くなる夏書かな」のように、たしかに「一」は気持ちの良い数字ではある。むろん、掲句も気持ちがよろしい。素十の「一」を考えていると、素十句にかぎらず、俳句は具体的に「一」という数字を使わないまでも、つまるところは「一」を目指す文芸のように思えてくる。『野花集』(1953)所収。(清水哲男)




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