七夕に男三人だけで会う変な会がある。年に一度でも新しい話題はあまりない。それが心地よい。




2001ソスN7ソスソス7ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

July 0772001

 牽牛織女文字間違へてそよぎをり

                           川崎展宏

京あたりでは、七夕を陽暦で行う。梅雨のさなかで「牽牛織女」もあったものではないが、明治の陽暦採用時に、せめて東京人だけでもと新暦に義理を立てた名残りだろうか。季語としては秋に分類されている。ところで、掲句は皮肉を詠んでいるのではない。短冊の誤字にもまた、風情があってよろしい。「一所懸命書いたんだろうになあ」と、作者は微笑している。短冊の文字の句で有名なのは、石田波郷の「七夕竹惜命の文字隠れなし」だが、療養所での七夕祭ゆえに「惜命」の二文字が胸に突き刺さるようだ。さて、たまたま掲げた二句ともに文字にこだわっているけれど、これはたまたまの暗合ではなく必然性がある。七夕の由来は複雑でここに書ききれないが、行事的な一つの意味は文字や裁縫の上達を願うところにあった。私が小学校で習った七夕も、この意味合いが強かった。早朝に里芋の葉にたまった露を集めて登校し、その水で墨をすって文字を書いたので、よく覚えている。書く文字もそれこそ「牽牛織女」であり「天の川」であり、小さい子は「おほしさま」だつた。いまのように願い事は書かなかった。もっとも書けと言われても、敗戦後の混乱期だったから、願いを思いついたかどうか。せいぜいが「白い飯を腹いっぱい食いたい」などと、そんなところだったろう。『蔦の葉』(1973)所収。(清水哲男)


July 0672001

 出荷箱数多の金魚ぶつからず

                           渡辺倫子

西で頑張っている総合誌「俳句文芸」のコンクールで、竹中宏が特選に選んだ句。金魚の句は数あれど、出荷時の金魚を詠んだ句は珍しい。作者は奈良市在住とあるから、日本最大の産地である大和郡山市あたりでの実見だろう。私は見たことがないので、この「出荷箱」がどんな形状をしているものなのか、見当もつかない。しかし選評で竹中さんも述べているように、そのような知識がないと観賞できない句ではない。とにかく、積み重ねられては次々に運ばれていく「箱」には「数多(あまた)の金魚」が揺れている。小さな金魚にしてみれば、とてつもない大揺れのなかにある。しかも、揺れは不規則きわまりないのだ。ここで、作者の目が光った。そんな大揺れのなかにあっても、一匹一匹がお互いに、決してぶつかりあうことはない。人間だったら「ぶつからず」どころか、パニックを起こして阿鼻叫喚の世界となるところだ。「この世の重力や時間とは別な物理の支配する世界が、こんなところにあった?」(竹中評)という発見が素晴らしい。「出荷箱」とゴツゴツと句を起こしている技法も、現場の雰囲気を伝えて効果的だ。「俳句文芸」(2001年7月号)所載。(清水哲男)


July 0572001

 焼酎のただただ憎し父酔へば

                           菖蒲あや

だんは温和でも、ひとたび飲むと人が変わったようになる。陽気になるのならばまだしも、妙に怒りっぽくなったり暴力的になったりする人がいる。作者の父親も、いわゆる酒癖が悪かったのだ。彼が飲みはじめると、家族みんなで小さくなっていたのだろう。でも、そんなになるのは、決して父親のせいではなく、あくまでも「焼酎(しょうちゅう)」がいけないのだと……。憎しみの対象を「ただただ」焼酎に向けさせているのは、父親への愛情である。そんなになるまで飲むお父さん「も」悪いとは感じていても、それを言いたくない「いじらしさ」。一般論で言えば甘い認識だろうが、家族関係は「一般論」では括れない。一般的に酒乱なら酒乱だけを抽出して何かを言うことはできても、それは作者の「いじらしさ」の出所とはついに無縁であるだろう。ただ、こういう論法自体を、それこそ一般的には酒飲みの自己弁護と言うらしい(笑)。ところで「焼酎」は夏の季語だ。何故か。江戸期の図解入り百科事典『和漢三才図会』に「気味はなはだ辛烈にして、つかへを消し、積聚を抑へて、よく湿を防ぐ」とある。おまけに安価。つまり、手っ取り早い暑気払いには絶好の飲み物というわけである。『新歳時記・夏』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)




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