July 132001
ナイターの点灯しなほ薄暮なる
岩崎健一
新しい歳時記が出ると、必ず引いて見る項目に「ナイター」がある。野球狂の習い性だ。病膏肓だ。だが、なかなかこれだという句にはお目にかかれない。掲句も、残念ながら句としては面白みに欠ける。現場の魅力に寄り掛かりすぎているからだ。と言いつつも引く気になったのは、句の出来はともかくとして、作者が「ナイター」の劇場的な醍醐味をよく知っているなと思ったからだ。夕方の6時くらいから試合がはじまるわけだが、日没が7時に近いという今ごろの試合だと、まだ明るくて点灯されていない。薄暮ゲームが、しばらくつづく。と、そのうちに、まだかなり明るいのに、照明灯に火が入る。このあたりのタイミングで、句は詠まれた。そして、この後の十五分くらいの間の球場の美しい変化については、申し訳ないが実際に見ていただくしかない。十五分ほどの時の流れのなかで、徐々に変わっていく自然と人工の光線の織りなす微妙な移り変わりの様子は、晴れていればいるほどに素晴らしい。これだけでも、出かけて金を払う値打ちがある。したがって、逆に「ナイターの雨を見てをり夫の背」(丹間美智子)にはひどく辛いものがある。せっかく、楽しみにして二人で遠出してきたのに……ね。いい奥さんだ、なんて野暮な雨なんだ。句としては、断然こちらの勝ちである。『新日本大歳時記・夏』(2000・講談社)所載。(清水哲男)
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