猛暑というよりも酷暑。わけもなく溜め息ばかりついている。食欲はあるので、まだマシなほうか。




2001ソスN7ソスソス18ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

July 1872001

 青草をいつぱいつめしほたる籠

                           飯田蛇笏

読、微笑を誘われた。そして、思い出した。子供の頃にホタルを採るのはよいとして、心配だったのは「ほたる籠」に入れた後のホタルの世話である。ぜんたい、何を食べるのかもわからない。子供にホタルの光を観賞しようというような風流心は希薄だから、採ったらずうっと飼う気持ちなのである。飼うためには、どんなことをすればよいのか。大人に聞いてみても、無情に「はて……」などと言う。ノウハウがない。仕方がないので、そのうちに、ホタルのいる環境を「ほたる籠」のなかに作ってやることを思いつく。私の場合も適当に青草を敷いて、少し水を含ませた。句の子供はまだ小さいから、お兄ちゃんたちの見よう見真似で敷いたのはよいが、青草をぎゅう詰めにしてしまっている。でも、得意満面だ。おいおい、それではホタルを入れられないよと、作者は苦笑もし微笑も浮かべているのである。一つ一つ、こんなことを経験しながら、子供は育っていく。作者も、おそらくは遠い日のことを思い出しているのだろう。季語は「ほたる(蛍)」ではなく「ほたる籠(蛍籠)」。私のころは、竹製のものが多かった。『新日本大歳時記・夏』(2000)所載。(清水哲男)


July 1772001

 浜田庄司旧居の巨き冷蔵庫

                           辻 桃子

某の人となりを偲ぶというときに、業績ばかりではなく遺品も一つの手がかりとなる。故人を顕彰した記念館などに行くと、愛用した品々が展示されている。作家なら原稿用紙とか万年筆だとか、画家ならイーゼルとか絵筆の類だとか。それらもむろん興味深いが、句のようにさりげない生活道具もまた、故人の人となりを雄弁に物語る。故人がこの「巨き冷蔵庫」を気に入っていたかどうか、いや意識していたかどうかもわからないけれど、日常を共にしていたのは確かなことだから、いわゆる愛用品よりも生々しい手がかりとして迫ってくる。「浜田庄司」は陶芸家。バーナード・リーチとの親交や柳宗悦らと民芸運動を推進したことでも知られる。大正末期より益子(栃木県)に定住して、素朴な益子焼の味を生かし、質朴雄勁な作風を確立した。その作風と「巨き冷蔵庫」に、作者は通じるものを感じて、この句を得たのだろう。私は一度だけ、三十年ほど前に益子を訪ねたことがある。浜田庄司邸は見晴らしの良い土地に建っており、大きくて庄屋の家みたいだなと思った記憶がある。存命だったから、家のなかに「巨き冷蔵庫」が置かれているなどは知る由もなかった。いま調べてみたら、没くなったのは1978年(昭和五十三年)のことだった。『花』(1987)所収。(清水哲男)


July 1672001

 さつきから夕立の端にゐるらしき

                           飯島晴子

なたにも、体験があるのではなかろうか。パラパラッと降ってきたかと思うと、サアッと日が射してくる。誰かの句に、銀座通りを夕立が駆け抜けていく様子を詠んだものがあったと思うが、雨の範囲が狭いのが夕立の特徴だ。なるほど「夕立の端」と、稚気を発揮して言うしかか言いようがない。この句には自註があって、気になることが書かれている。それまでの作者は、何か目に見えて強い手ごたえのある詩的時空を実現させたいと願ってきた。しかし「俳句の詩としての究極の手応えの強さ、確かさは、面の一見の強い弱いにはかかわらないということである。一見は何も無いようで、触ってみると固い空気のようなものが在るのも愉しいではないかということである。掲句でそういうことが出来ているかどうか。多分まだ抜き残した部分があるのだろうが……」(別冊俳句『現代秀句選集』1998)。俗に言う「肩の力を抜く」に通じる心境だろうが、一読者としての私も、だんだん同じような心境に近づきつつある。幾多の華麗な句や巧緻の句に感心しつつも、めぐりめぐってまた「一見は何も無い」子規句のような世界に戻っていきそうな自分を感じている。トシのせいだとは、思えない。単に、そのほうがよほど「愉しい」からだ。『儚々』(1996)所収。(清水哲男)




『旅』や『風』などのキーワードからも検索できます