土用の丑。大伴家持「石麻呂に吾れ物申す夏痩によしと云ふ物ぞ鰻とり召せ」。昨年より三割安と。




2001ソスN7ソスソス25ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

July 2572001

 土用うなぎ冷戦に要るエネルギー

                           かとうさきこ

手が男であれ女であれ、昔から「冷戦」は苦手だ。パパッと言い合ったほうが、よほど楽である。しかし、止むをえずに「冷戦」に入ることもある。私から言わせれば、みんな相手のせいなのだ。不意に「むっ」と押し黙ったまま、物を言わなくなる。このタイプは、男よりも圧倒的に女に多い。こうなったらお手上げで、何を言っても無駄である。勝手にしろと、喧嘩のテーマを外れたところでも腹が立ち、しかし声をあらげるのも無駄だと知っているので、こちらも黙り込んでしまう。ここから、立派な「冷戦」となる。「冷戦」の嫌なところは、いつまでも尾を引くところ。その間に、ああでもあろうかこうでもあろうかと相手の心を推し量ることにもなり、なるほど「エネルギー」が要ること、要ること。この句を読んで感心させられたのは、「冷戦」中の作者がちゃっかり(失礼っ)と「土用うなぎ」に便乗してエネルギーを補強しているところだ。事「冷戦」に関しては、私に限らず、男にはまずこんな知恵はまわらないだろうと思う。たとえフィクションであろうとも、だ。したがって、掲句に「冷戦」得意の女性一般(気に障ったら、ごめんなさい)の強さの秘密を垣間みたような……。面白い発想だなあと、男としては、さっきから感心しっぱなしなのである。「俳句界」(2001年8月号)所載。(清水哲男)


July 2472001

 重荷つり上げんと裸体ぶら下る

                           竹中 宏

語は「裸」で夏。これぞ「裸」のなかの「裸」だ。もとより全裸ではないのだけれど、まったき裸の凄みを感じる。真夏の工事現場あたりでの嘱目吟かもしれないし、そうではないかもしれない。そんなことはどうでもよいと思われるほどに、この「裸体」には説得力がある。底力がある。人間、いくら生きていても、裸でこのように渾身の力と体重をかけて何かをする機会は、めったにあるものではない。句の男は、それを当たり前のようにやっている。当人はもちろん、見ている側にも、いや句を読んでいるだけの側にも力が入る。単純でわかりやすい構図だけに、よりいっそうの力が入るのだ。こういう句を読むと、炎暑に立ち向かうという気概がわいてくる。小手先でごちゃごちゃクレーンの装置などをいじっているよりも、この男の単純な力技の発揮のほうが、よほど清冽な真夏の過ごし方だと思えてしまう。はたして、この「重荷」はつり上がったろうか。なかなかつり上がらずに、男はぶざまにも宙で脚をバタバタさせることになるのかもしれない。それも、また良し。作者の役割は「ぶら下がる」ときの気合いだけを伝えることなのだから。作者の竹中宏は、十代からの草田男門である。「翔臨」(第41号・2001年6月30日発行)所載。(清水哲男)


July 2372001

 市中は物のにほひや夏の月

                           野沢凡兆

の出のころを詠んでいる。一般的に「夏の月」といえば、心理的に夜涼を誘う季語である。が、まだ「市中(いちなか)」に「物のにほひ」があるというのだから、赤くほてるような感じで月がのぼってきた時刻の情景だろう。風もなく蒸し暑い「市中」に、ぎっしりと軒をつらねる店々からの雑多な「にほひ」が、入りまじって流れて来、なおさらに暑く感じられる。そのむうっと停滞した熱気が、よく伝わってくる。この句に、芭蕉は「あつしあつしと門々の声」とつけているが、私には気に入らない。臭覚的な「物のにほひ」の暑さから、逃れるようにして空を見上げるようなことは誰にでもある。つまり五感の切り替えというほとんど本性的な知恵なのだが、そこにもかえって暑さを増幅するような月しかなかったという諧謔味を、芭蕉は聴覚的に解説してみせたのだろう。でも、言うだけ野暮とはこのことで、凡兆は「あつしあつし」とストレートに表現する愚を避け、わざわざ工夫と技巧をこらして迂回したというのに、「それを言っちゃあお終いよ」ではないか。連句は、第一に気配りの文芸だ。この日の芭蕉は、よほど機嫌が悪かったのかもしれない。参考までに、機嫌がよいときの芭蕉の名句を。「蛸壺やはかなき夢を夏の月」。(清水哲男)




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