今月のスケジュール表をよくよく見たら、週末がほとんど埋まっている。「不眠不休」で遊ばねば。




2001ソスN8ソスソス3ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

August 0382001

 爪弾く社用で贈るメロンかな

                           守屋明俊

集では、この句の前に「ごきぶりを打ちし靴拭き男秘書」が置かれている。秘書の仕事の一貫として、高級果物店で「社用で贈る」メロンを選っているのだ。なるべく出来のよいものを贈るべく、いくつかのメロンを爪で弾いてみている。もしも不味いものでも届けてしまったら、会社の沽券にかかわるので真剣にならざるを得ない。が、作者はおそらく、いま選んでいるような高価なメロンは口にしたことがないのだろう。ていねいに一つ一つ弾いてはみるものの、本当のところは、どれが良いのかよくわからない。途方に暮れるほどでもないが、失敗は許されないので、気を取り直してまた弾いてみる。サラリーマンだったら、たいていの人が作者の心中は理解できると思う。業務とはいえ、何故俺はここでこんなことをやってんだろうと、一種泣き笑いの状況に放り込まれることがある。そこらへんの心理的に微妙なニュアンスが、「爪弾く」という微妙な仕草を通じているので、よく伝わってくる。漠然としたサラリーマンの哀感を詠んだ句は多いが、掲句は具体的にきっちりと壺をおさえていることで出色の出来と言えよう。それこそこの句を「爪弾」いてみれば、読者それぞれにたしかな苦い音を聞けるはずである。『西日家族』(1999)所収。(清水哲男)


August 0282001

 笹舟を水鉄砲で送り出す

                           つぶやく堂やんま

近は軽いピストル型のものしか見かけないが、作者が子供だったころのそれは、たぶん手作りの竹製「水鉄砲」のはずである。竹筒の先端に錐や釘で適当な大きさの穴を開け、木の棒にボロ布を固く巻き付けて筒の中に押し込み、ポンプの原理で水を吸い上げては押し出す。私もよく作ったが、作ってみてわかることは、悲しいかな、なかなか相応しい標的が見つからないことである。いやしくも「鉄砲」なのだからして、何かにカッコよく命中させたいと思うのが、子供なりの人情というものだろう。それも、なるべくなら動く標的が望ましい。そこで「ちちははを水鉄砲の的に呼ぶ」(井沢正江)となったりするわけだが、いかな親馬鹿でも、そうそう相手になってはくれない。で、ついに標的を捜しあぐねた子供が思いついたのが、掲句の世界だ。思いついたというよりも、水鉄砲遊びをあきらめて、笹舟作りに移ってみたら、たまたま手元に「鉄砲」があることに気がついたのだ。おお、目の前にあるのは、まさに動く標的ではないか。だが、構えてはみたものの、せっかく作った笹舟をまともに撃って転覆させるのはもったいない。そんな意識が瞬間的に働き、射撃手としては笹舟の少し後ろの水面を撃つことで、「送り出す」ことにしたという次第。それも一度ならず、何度も何度もである。炎天下で一人遊びをする子供ならではの、淡い寂寥感も漂ってきて、懐かしい味のする句だ。『ぼんやりと』(1998)所収。(清水哲男)


August 0182001

 晝顔やとちらの露も間にあハす

                           横井也有

みは「ひるがおやどちらのつゆもまにあわず」。、一見、頓智問答かクイズみたいな句だ。「どちらの露」の「どちら」とは何と何を指しているのだろうか。作者の生きた江戸期の人なら、すぐにわかったのだろうか。答えは「朝顔」と「夕顔」である。この答えさえ思いつけば、後はすらりと解ける。朝顔と夕顔には、天の恵みともいうべき「露」が与えられるが、炎天下に咲く「昼顔」には与えられない。すなわち「間にあハす」である。同じ季節に同じような花を咲かせるというのに、なんと不憫な昼顔であることよと同情し、かつそのけなげさを讚えている。もう少し深読みをしておけば、句は人生を「朝顔」「昼顔」「夕顔」の三期に分け、いわば働き盛りを「昼顔」期にあてているのかもしれない。露置く朝や夕に比べて、露にうるおう余裕もなく、がむしゃらに働かざるを得ない朱夏の候を、けなげな「昼顔」に象徴させている気配が感じられなくもない。いずれにしても、この謎掛けのような句法は、江戸期に特有のものだろう。現に近代以降、この種の遊び心はほとんどすたれてしまっている。近代人の糞真面目が、俳諧のおおらかさや馬鹿ばかしさの「良い味」を無視しつづけた結果である。芭蕉記念館蔵本『俳諧百一集』所載。(清水哲男)




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