HDが論理的不調。バックアップを取って初期化するしかないか。せっかくの休日が半日つぶれる。




2001ソスN8ソスソス11ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

August 1182001

 新涼や吉永小百合ブルー・ジーン

                           中村哮夫

になって感じる涼しさが「新涼(しんりょう)」。単に「涼し」と言うと、夏の暑さのなかで涼気を感じる意味なので夏の季語である。作者は東宝撮影所、同演劇部を経た舞台演出家。したがって、掲句はテレビや映画を見ての句ではなく、実景を詠んだものだろう。作句年代からすると、つい数年前の吉永小百合だ。昔から涼しげなイメージの女優であり、しかもラフな「ブルー・ジーン」姿なのだから、なるほど「新涼」にはぴったりだと思った。他に思いつく女優の名前をいくつかランダムに当てはめてみたけれど、小百合以上にしっくりとくる人はいなかった。もっとも、これは昔のいわゆる「サユリスト」の贔屓(ひいき)目かもしれず、鑑賞の客観性にはさほど自信がない。でも、ま、いいか……。彼女を一躍スターにした映画は浦山桐郎監督の『キューポラのある街』(1962・日活)であり、貧乏にもめげず明るくしっかりした性格の少女役を演じていた。すっかりファンになってしまった私は、大学新聞の文化面に「吉永小百合の不可能性」なる批評文を書いたのだったが、このタイトル以外は何も覚えていない。「可能性」ではなく「不可能性」とやったところに、なまじな「サユリスト」とは違うんだぞという生意気さが感じられる。そんなことも思い出した。句に固有名詞を詠み込むのは、それこそ客観性に乏しくなる危険性を孕むので、なかなかに難しい。私にはしっくり来たが、他の読者にはどうであろうか。『中村嵐楓子句集』(2001)所収。(清水哲男)


August 1082001

 あかあかと日は難面もあきの風

                           松尾芭蕉

陸金沢は、秋の納涼句会での一句。『おくのほそ道』に出てくる有名な句だ。「難面」は「つれなく」と読む。納涼句会だから、夕刻の句だろう。暦の上では秋に入ったけれど、日差しはまだ真夏のように「あかあかと」強烈である。それも、暦の上の約束事などには素知らぬ顔の「つれなさ」(薄情な風情)だ。しかし、こうやって真っ赤に染まった残照の景色を眺めていると、吹いてくる風にはたしかに秋の気配が漂っている。どこかに、ひんやりとした肌触りを感じる。残暑の厳しいときには、誰しもが感じる日差しと風の感覚的なギャップを巧みに捉えている。ここで思い出すのは、これまた有名な藤原敏行の和歌「秋来ぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞ驚かれぬる」だ。発想の根は同じだが、芭蕉句のほうが体感的には力強くあざやかである。逆に、敏行は繊細かつ流麗だ。このあたりは、二人の資質の差の故もあるだろうが、俳句と短歌の構造的な違いから来ているようにも思われる。とまれ「日は難面も」の日々は、いましばらくつづいてゆく。東京あたりでの秋が「さやかに」見えてくるまでには、あと一ヶ月ほどの時日を要する。(清水哲男)


August 0982001

 車窓より西瓜手送り旅たのし

                           市川公吐子

西瓜は、元来が残暑厳しき候に最盛期を迎えたようだ。したがって、秋の季語。新暦七月頃に見られる現代の西瓜は、早稲種ということになる。それが証拠に、江戸期などの古い歳時記を見ると、何の解説もなく「秋之部」に入っている。現代歳時記では、そうもいかないのか、何故「秋」なのかの言い訳が書いてある。あっ、こうここに書くことも言い訳だった(笑)。掲句は駅頭の光景。見送りに来てくれた人が、お土産にと大きな西瓜を車窓から差し入れてくれているのだ。その一つ一つを、窓際の人から奥の人へと「手送り」で渡している。「大きいなあ」「落とすなよ」「また来るからね」など、にこにこしながらの声が飛び交う。まさに「旅たのし」ではないか。このときに「旅たのし」に他の表現を当てる必要はない。ストレートに「たのし」だからこそ、情景が生きるのだ。そして、この「たのし」をもたらしたのは、西瓜をもらったこともそうだが、より「たのし」く感じたのは「手送り」という協働行為そのものによっているだろう。「手送り」は日常的な行為のようであって、実は普段はあまり経験することがない。気心の通じる仲間が何人か集まった旅などで、はじめて成立する行為なのだ。いいなあ、みんなでわいわいと旅に出たくなった。『新俳句歳時記・秋』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)




『旅』や『風』などのキーワードからも検索できます