普段はあえぐように進むバスがスイスイと走っていく。これが道路だ!! この状態も、今日までか。




2001ソスN8ソスソス17ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

August 1782001

 朝顔や締めあう首のあべこべに

                           増田まさみ

ちらかと言えば「朝顔」は夏の花だが、伝統的に秋の季語とされる。薬草として中国から渡ってきた植物で、万葉集にも出てくる。観賞用になったのは鎌倉時代以降からで、江戸時代に盛んになったというのが定説。観賞用の花は品種改良が重ねられるので、可憐で涼しげな姿をなんとか夏に登場さすべく改良されたのかもしれない。掲句は、その可憐で涼しげな花同士が「首」を絞めあっていると言うのである。お互いの蔓が、相手の花下の「首」にからみついている状態だ。人間同士の首の締め合いならば、正対しなければならない。が、朝顔は互いに「あべこべ」の方を向いて、すなわち素知らぬ顔で、互いにぎゅうぎゅうと締め上げあっているというわけだ。なあるほど……。ブラック・ユーモアの味がする。誰に聞いたのだったか、句を読んで、こんな話を思い出した。ある小学生の女の子が誕生パーティに、いつも自分をいじめるイヤな子も呼んだ。呼ばないと、後でどんな目に遭うかわからないからだ。女の子の母親が集まったみんなに「いつまでも仲良くしてね」と挨拶すると、いじめっ子がにこにこと「私たちシンユウだから、イッカイもケンカなんかしたことないんですよ」と応えた。母親からは見えない机の下で、当の女の子の膝をしっかりと抓(つね)りながら……。『女流俳句集成』(1999)所収。(清水哲男)


August 1682001

 盆三日あまり短かし帰る刻

                           角川源義

え火から送り火までは、正三日間。はやくも送り火の刻限になってしまった。作者は次女(真理)の魂を迎え、いま送りだそうとしている。もう少し、一緒にいたい。いてやりたい。「でも、もう『帰る刻』なのだから……」と、みずからにあきらめの気持ちを言い含める表現に、逆縁の辛さが滲み出た。逆縁ではなくても、同様の気持ちで今日の夕刻を迎える人たちはたくさんいる。毎年、そのことを思うと、夕刻の光が常日頃とは色合いのちがう感じに写る。桂信子には「温みある流燈水へつきはなす」の一句。別れがたい辛さを断ち切るために、「温み(ぬくみ)ある」燈籠を、万感の思いを込めて一気に「つきはなす」のだ。私の故郷では、今宵盆踊りがあり、終了すると近所の川で燈籠流しが行われる。農作業の合間に、何日もかけて作った立派な精霊舟も流される。せっかくの燈篭や舟がひっかかったり転覆しないようにと、数人の若い衆が竹竿を持って川に入り、一つ一つを注意深く見守る。燈篭の灯火に、腰まで水につかった彼らの姿が闇のなかで明滅する。過疎の村だから、岸辺にいる大人のなかには明日は村を離れて都会に帰る人も多い。夜が明ければ、もう一つの別れが待っているのだ。『西行の日』所収。(清水哲男)


August 1582001

 森の黙に星座集いて敗戦忌

                           酒井弘司

た、八月十五日がめぐってきた。もう五十六回目だもの、「また」はふっと吐息のように出てきた実感である。今年は、同世代の酒井弘司(1938-)に登場してもらおう。十代の作品だ。図式を描いてしまえば、「森の黙」とは生き残って地上にある我らの沈黙であり、集う天の「星座」は亡くなられた方々を象徴している。すなわち、生きて残った者に死んだ者が寄り添うかたちで、今日という日が記録されている。普通は逆だ。肩に手を置くのは生き残った者であるべきだが、句では死者のほうから集まってきてくれている。理不尽に殺された人たちが、どうしてそんなに優しくあることができるのか……。この思いから、生き残った者たちにじわりと湧き上がってくるのは、やはり戦争への哀しみと憎しみである。そして作者は、今日という日を「敗戦忌」と呼ぶ。この呼称は、日本の歴史にとっての重要なポイントだ。公的には「終戦記念日」と言うようだが、私は作者とともに「敗戦忌」ないしは「敗戦日」と言いつづけてきた。「終戦」にはちがいなくとも、敗れた事実を曖昧にしてはならない。その意味で、むしろこの句の眼目は、十代の若者が公的なまやかしに抗して「敗戦忌」と言い切っているところにこそあるのだと、私は思いたい。そう思うのが、死者に対するせめてもの礼節である。『蝶の森』(1961)所収。(清水哲男)




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