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August 3082001

 ゆらゆらと回想のぼるまんじゅしゃげ

                           榊原風伯

に吹かれている「まんじゅしゃげ(曼珠沙華)」を、作者は眺めるともなく眺めていた。そのうちに、ぽつりぽつりと過去の出来事のあれこれが、思い出されてきた。だんだんと「ゆらゆらと」揺れる花そのものに、あたかも自分が変身でもしたかのように、次々に「回想」がのぼってくる。「回想のぼる」が、花の揺れと同化した感じをよく出していて面白い。花が栄養を根から茎へと吸い上げるように、作者の思い出も自然に頭に「のぼる」ということである。と言うからには、おそらく作者が立っているのは墓地であろう。死んでいった親しい人々をめぐっての「回想」なのだ。私の記憶でも、曼珠沙華は皇居の堀端に群生するヤツを除くと、多くは墓地に揺れている花であった。墓地に多いのは、土葬の時代にネズミや獣による死体荒らし対策だったというのが通説だ。アルカロイドのリコリンを中心とする猛毒成分を含むので、殺鼠剤に使われたという。で、別名が「死人花(しびとばな)」、あるいは「彼岸花」。戦前の曲だが戦後にもよく歌われた歌謡曲に『長崎物語』というのがあり、「♪赤い花なら曼珠沙華、オランダ屋敷に雨が降る…」の歌い出しからして華麗なので、よく歌った。しかし歌の「曼珠沙華」が、そこらへんの墓場にいくらでも咲いている「彼岸花」だとは、ちいっとも知らなかったのだった。『日めくり俳句 引出しの三行詩』(2000)所収。(清水哲男)


January 0312004

 真っさらで無くてもいいや寝正月

                           榊原風伯

詣でに出かけたり、きちんと挨拶回りをしたりと、正月を粛然とした「真っさら」な気持ちで過ごす人がいる一方で、こういう人もいる。せっかくのまとまった休日だ。思う存分朝寝をして、何をするでもなく一日をやり過ごす。淑気も何もあるものか、これに勝る贅沢なしと「寝正月」を決め込むのだ。どうぞ、ごゆっくり……。ただ変なことを言うようだが、こうした心境になるにも才能が要る。そんな気がする。私は昨春までスタジオ暮らしだったので、暮れにも正月にも休みがなかった。実に久しぶりに仕事のない新年を迎えているわけだが、元日はともかく、昨日あたりからどうも落ち着けないでいる。何もしないで過ごしてよいことはわかっているのだが、ときどき自分に言い聞かせないと、不安になってくる。かといって世間は休みだし、まさか誰かを呼びだして遊ぶわけにもゆかないし、どうにもこの時空間を持て余し気味である。傍目からすれば、私の様子は完ぺきな寝正月なのだろうが、内心はほとんど逆なのだ。掲句に触れて思ったのは、だから寝正月にも才能が必要なのではないかということだった。もう一句、こんなのもある。「ごろりんこごろんと極め寝正月」(北星墨花)。そうか、やはり寝正月も「極め」るものであるらしい。才能に加えて、努力も要るようである。『炎環・新季語選』(2003)所載。(清水哲男)


December 26122011

 行く年や一編集者懐かしむ

                           榊原風伯

家や評論家などの著者が、かつての担当編集者を懐かしんでいるともとれるが、この場合はそうではない。作者は私の河出書房「文芸」編集部時代の同僚だったし、河出退職後も編集者を勤めた人だから、「一編集者」とは作者自身のことだ。どんな仕事でもそうだろうが、月刊誌編集者の年末も多忙である。というよりも、普段の月とは仕事のリズムが激変するので、退職してからも年末のてんてこまいは特別に記憶に残るのである。忙しさは、しかしクリスマスを過ぎるあたりで、急ブレーキでもかかったかのように霧消してしまい、仕事納めまでの何日間かは今度はヒマを持て余すことになる。このいわば空白期に、大げさに言えば、編集者は「行く年」とともに一度死ぬのである。再び生き返るのは、年が改まってからの数日後であり、それまでのわずかな期間は編集者としてのアンテナや神経をたたんでしまう。つまり、職業人的人格を放棄するというわけだ。そんな年末の曲折のことを、作者は「過ぎ去ればすべてなつかしい日々」(永瀬清子)とでも言いたげに、ひとりぽつねんと回顧している。『炎環・新季語選』(2003)所載。(清水哲男)




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