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September 0192001

 越中八尾二百十日の月上げし

                           渡辺恭子

日は立春から数えて「二百十日」目。大風(おおかぜ)がおこりやすい頃で、ちょうど稲の開花期にあたることから、農家では風を恐れて「厄日」とした。俳句で「厄日」といえば「二百十日」を指し、したがって「厄日」も秋の季語である。掲句の「八尾(やつお)」は富山県八尾町のことで、近年とみに有名になってきた越中「風の盆」の夕景を詠んでいる。風の神をしずめる風祭と盂蘭盆の収めの行事が合体した「風の盆」は、越中に限らず各地で行われる。そんななかで、ここに人気が集まっているのは、歌われる「越中おわら節」のポピュラリティもさることながら、伴奏に胡弓が使われるところにあるのだろう。私はテレビでしか見たことはないけれど、あの哀調を帯びた調べは、それでなくとも物悲しくなる秋の心に染み込んでくるようだ。今宵の月は、ほぼ真ん丸。晴れていれば、掲句とぴったりの情景のなかで、胡弓の音は夜を徹して冴え渡る。最近はマナーの悪い観光客に悩まされているという話しも聞くが、おだやかな三日間(祭りは今日から九月三日まで)であってほしい。間もなく、秋の農繁期が訪れる。『合本俳句歳時記』(1974・角川書店)所載。(清水哲男)


September 0292001

 帽置いて田舎駅長夜食かな

                           池内友次郎

食の後の夜長にとる軽い食事が「夜食」。秋の季語。作者は旅の途次で、遅い時間に次に来る列車を待っているのだろう。田舎の路線のことだから、夜になると一時間に一本来るか来ないか、そんな間隔でしか列車はやってこない。最終列車かもしれない。待っている客もまばらで、駅舎の周辺では虫の音がしきりというシチュエーションである。これが思い出としての旅の良き味わいでもあるのだが、実際に現場でくたびれて待つ身には辛いところだ。ふと、待合所から事務所のなかを見やると、駅長が「夜食」をとっている姿が見えた。ポイントは「帽を置き」であり、そこには束の間、帽子を脱いで職務を離れた駅長のリラックスした姿があるのと同時に、いかに軽食とはいえ食事を「いただく」姿勢が礼節にかなってきちんとしているところに、作者は好感を寄せている。いかにも昔気質の「田舎駅長」の顔までもが、浮かんでくるような句だ。まだSLが全盛で走っていたころの情景だろう。やがて、汽笛を鳴らして列車が近づいてくる。脱いだ帽子を目深にかぶり直し、いつものように「田舎駅長」は淡々とした姿で、砂利の敷き詰められたホームに出ていくのである。『新歳時記・秋』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)


September 0392001

 夕月夜人は家路に吾は旅に

                           星野立子

れから旅に出る作者が、駅へと向っている。私にも何度も覚えがあるが、重い旅行鞄を提げ、勤め帰りの人たちの流れに逆流して歩く心持ちは、妙なものである。旅立ちの嬉しさと、束の間にせよ、住み慣れた町を離れる寂しさとが混在するようなのだ。「夕月夜」だから、天気はよい。それがまた、かえって切なかったりする。そんな気持ちを、言外に含ませている句だ。夜行列車で出かけるのだから、かなりの遠出を想像させる。新幹線のなかった時代には、東京大阪間くらいでも、多くの人が夜行を利用していた。昼間の急行でも九時間以上はかかったので、よほど早朝に乗らないと、着いた先では夜になってしまう。それよりも、寝ながら行って朝着いたほうが、気持ちもよいし時間の経済にも適うという心持ちであり理屈であった。ところで「夕月夜」だが、単に日の暮れた後の月夜ではなく、新月から七、八日ごろまでの上弦の宵月の夜を言う。夕方出た月は、深夜近くにはもう沈んでしまう。そんなはかない月の姿も、掲句に微妙な色合いを与えている。ちなみに今宵の月は満月を過ぎたばかりなので、厳密には句の感興にはそぐわない。『実生』(1957)所収。(清水哲男)


September 0492001

 白桃に入れし刃先の種を割る

                           橋本多佳子

は、食べるのに厄介な果物だ。間違っても丸ごとそのまんまで、見合いの席などには出してはいけない。上手に皮を剥くのも一苦労だし、丸かじりというよりも、いわば「丸吸い」で食べるのがいちばんだと思うが、食べやすいように四半分くらいに切ってからという人もいる。当然にナイフを入れることになるわけだが、ここでも面倒なことには、大きくて堅い「種」がある。もちろん、誰だってそのことを知っているから、刃が当たらないように用心して切りにかかる。用心して刃先を入れると、普通は「白桃の刃を吸ふて静かなる」(高倉亜矢子)のような感触を得る。用心した結果の「静かなる」なのだ。掲句の作者もまた、同じように用心しながらナイフを入れたのだけれど、コツンと「種」に刃先が当たって、自然にはじけそうになっていた「種」が、かすかな衝撃で小気味よく割れてしまったのだった。別に大事件というわけではないし、もとより「種」を割るべく仕組んだ結果でもないのに、なんだか良い心持ちになってしまった。掲句を読んでまっさきにユニークに感じたのは、このようにちっぽけな出来事とも言えない出来事を詠める「俳人」の、そして「俳句」様式自体の神経の独特な伸ばし方である。こういうのを「俳句らしい俳句」って言うんだろうな、きっと……。『合本俳句歳時記』(1974・角川書店)所載。(清水哲男)


September 0592001

 かなかなかな香典袋なくなれり

                           清水径子

儀袋とは違い、「香典袋」は不意に緊急に必要になるものだから、買い置きをしておく人は多いだろう。と言っても、大量に求めるのは、たくさんの人の死を待ち望んでいるようで憚られる。せいぜい数袋程度しか買わない。作者の身辺では、連続して不祝儀がつづいたのだ。そしてまた今日も訃報がもたらされ、これから通夜に出かける情景だろう。買い置きの「香典袋」を探すと、もはや一袋しか残っていなかった。紙幣を包み署名したところで、「なくなれり」となった。表では「かなかな」が鳴きしきり、その哀切な調べに和すようにして作者は「かなかなかな」とつぶやき、すらりと句になった。三番目の「かな」を切れ字と読むことも可能だが、私には鳴き声のように思える。連続して死者を見送る人の喪失感が、鳴き声として読むことで滲み出てくる気がするからだ。切れ字と取ると詠嘆の度合いが濃くなり、連続した死者への思いよりも、これから見送りに行く一人の死者への思いのほうが強調されてしまう。となれば、「香典袋」が「なくなれり」という描写が生きてこないわけだ。蜩の聞こえる暮れかけた部屋でしばし端座している心に、一瞬「香典袋なくなれり」という現世的な所帯じみた感覚を走らせた。ここに、生き残った者の茫然たる喪失感がよく表現されている。『哀湖』(1981)所収。(清水哲男)


September 0692001

 秋風を映す峠の道路鏡

                           大串 章

眼の面白さ。地方に出かけるたびに今更のように感じ入ることの一つに、自家用車の普及ぶりがある。私の田舎でもそうだが、どこの家にも必ず車がある。都会地とは違って、車は文字通りの必需品なのだ。自転車でも構わないようなものだが、雨や雪の日、あるいは夜間の外出のことを考えると、やはり車に如くはなし。先日訪れた穂高でも福井でも、そのことを感じた。田舎道をテクテク歩いている人の姿は、なかなか見かけられなかった。近所の人とも、互いに車ですれ違うという印象だ。したがって、あちこちに道路標識が立ち、「峠(とうげ)」のカーブには「道路鏡(ミラー)」も立つ。作者もおそらく峠道を車で登ってきて、景色を楽しむべく車から降りて一休みしているのだろう。で、ふと近くに立っている「道路鏡」に気がついた。次から次へと車が通る場所ではないので、ミラーが映しているのは、ただそのあたりの草や木の情景だけである。このミラーは、ほとんど本来の用途である車を映すこともなく、いつまでもじっとこの場所に立っている。ミラーのその空漠たるありようを、作者は木や草を映すと言わずに、「秋風を映す」と仕留めた。峠の「道路鏡」が、鮮やかに見えてくるようだ。『天風』(1999)所収。(清水哲男)


September 0792001

 五右衛門風呂の蓋はたつぷり赤のまま

                           大木あまり

城暮石に「ゴム長を穿きてふるさと赤のまま」の一句あり。犬蓼(いぬたで)の花を赤飯になぞらえて「赤のまま」と言った。どこにでも咲いているから、懐しい幼時の記憶と結びつく。あらためて見やると、なんだかほっとするような風情がある。掲句は丹沢での作。これから一番風呂をご馳走になるのだが、いわゆる内風呂ではなくて、母屋から少し離れた場所にある風呂場だろう。まだ表は明るい。風呂場を取り囲むようにして「赤のまま」が揺れており、風呂槽には湯がまんまんと湛えられている。「五右衛門風呂」だけに「蓋はたつぷり」と、浮蓋(うきぶた)の様子でたっぷりの湯を詠んだところが面白い。入る前から、懐しい幸福感に浸っている。まさしくご馳走である。「五右衛門風呂」命名の由来は、石川五右衛門釜茹(かまゆで)の刑から来ているようだ。『東海道中膝栗毛(ひざくりげ)』で、弥次喜多には入り方がわからなかったという話は有名。この風呂が、関西以西に流行っていたことを示している。私の田舎(山口県)でも、全体が鉄製の浴槽が「五右衛門風呂」の名で普及していたが、厳密に言えばこれは「長州風呂」だと、物の本に書いてあった。桶の底である釜だけが鉄製のものを「五右衛門風呂」と呼んだそうだ。『火のいろに』(1985)所収。(清水哲男)


September 0892001

 泥の荷の上に教科書秋出水

                           加藤義明

は台風や集中豪雨で、家や田畑を水流の下に埋めることがある。これが「秋出水(あきでみず)」で、単に「出水」と言えば、梅雨期のそれを指す。私の田舎での経験では、いわゆる床下浸水に何度か見舞われ、朝目覚めると土間に下駄がぽこぽこと浮いていたことを思い出す。そこらへんに置いてある道具類は、みんな泥をかぶってしまい、水が引いた後の始末が大変だった。掲句も、水が引いた後の句である。後始末に忙しい他家の様子を、ちらりと垣間見た句だろう。泥だらけになった荷物が干されていて、いちばん上に「教科書」の乗っているのが見えた。ただそれだけのことだが、その家の大人たちの気配りが、よくわかって好もしい。子供には「教科書」は毎日必要なものだし、いちばん大切なものとしていちばん早く乾かさなければと、いちばん乾きそうなまだ泥だらけの「荷の上」に置いてあった。あるいは出水を予想して、最初から難を逃れるべく高いところに置いてあったのかもしれないが、いずれにしても水をかぶってしまった「教科書」である。このときに「教科書」は、学習のためのツール以上の意味を持っている。そんなことはどこにも書いてないけれど、この家の子育てのありようや教育観までがうかがわれるようで、字面をはるかに越えた雄弁な中身となった。『新歳時記・秋』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)


September 0992001

 秋まつり雨ふつかけて来りけり

                           久保田万太郎

ムラノチンジュノカミサマノ、キョウハメデタイオマツリビ、……。いまの音楽教科書には載ってないそうだが、「秋祭」といえば絢爛たる都会の祭よりも、この素朴でひなびた味わいの「ムラマツリ」のほうがふさわしい。そんな村祭を見物している途中で、パラパラッと雨が降ってきた。この季節には、よくあることだ。天を仰いでしかめ面をする人もいるだろうが、作者はこれも風情のうちさと機嫌がよろしい。「ふつかけて」という威勢のよい表現に、それがうかがえる。おそらくは神輿(みこし)見物の最中で、担ぎ手の威勢の良さに触発された措辞だと思う。巧みな句だ。ウメエもんだ。昨日今日と、我が町でも遠く三鷹村以来の伝統的な「オマツリビ」である。天気予報によると、少しは「ふつかけ」られるかもしれない。見物する側は万太郎のように風情を楽しめばよいのだが、神輿の管理者は渋い表情になる。とりわけて白木の神輿が雨水を吸い込むと、後の手入れが大変だと聞いた。乾くのに三日はかかり、しかも造作はガタガタになる。最初から雨降りならばビニールシートで覆うそうだけれど、渡御(とぎょ)の途中ではそうもいかない。そういう立場の人が掲句を読んだら、ますます渋い表情で即座に「冗談じゃねえや」と吐き捨てることだろう。『新日本大歳時記・秋』(1999)所載。(清水哲男)


September 1092001

 一米四方もあれば虫の村

                           五味 靖

んだとたんに「なるほどね」と膝を打った。虫の音や姿を詠むのは、人間のいわば手前勝手な営みだが、虫同士の生活の場に思いをいたすのは、その反対だ。小さな虫たちが、それもたったの「一米四方」で村落を形成していると想像することで、鳴き声や姿の受け取りようも、ずいぶんと変わってくるではないか。私に虫のテリトリーの知識は皆無だけれど、この小さな「村」から生涯出ていかない(いけない)虫もいるのだろう。逆に、村から村へと渡り歩く気ままな流れ者もいそうである。戦いもあれば、災害もあるだろう。あれこれそんなことを考えていると、小さな虫たちに一入(ひとしお)いとしい気持ちがわいてくる。作者は、とても優しい人なのだろうなとも思う。そして小さな「村」があるからには、それらが寄り集まった「国」も存在する理屈だ。同じ句集に「寝落つとは虫の国へと入りしこと」があり、この句にもまた「なるほどね」と、作者の独特な資質を感じた。虫の音を聞いているうちに、いつしか「寝落」ちてしまった。考えてみれば「寝る」とは自然の摂理に同化することであり、人為的な「国」やら文化文明の類いとは切れてしまうことだ。このときに、人間も虫もが同じ「国」に生きるのである。なお、両句とも季語は「虫」で秋季。『武蔵』(2001)所収。(清水哲男)


September 1192001

 秋の夜の時計に時計合せ寝る

                           波多野爽波

日の朝は、早く起床しなければならない。そこで、目覚まし時計をセットしたのだろう。ラジオなどの時報に合わせるのではなく、室内の掛け時計に合わせた。いつも見慣れている掛け時計だから、少し進み気味だとか遅れ気味だとかを熟知しているので、そのあたりの誤差を計算して慎重に合わせたのだ。それでも正しくセットされたかどうかが気になり、何度も確かめている。思い当たる読者も多いだろう。では、なぜ「秋の夜」なのだろうか。時計を合わせることと季節とは、本来無関係である。必然性は、こういうことだろう。秋に入ると日の出がどんどん遅くなるので、まだ夏の日の出感覚から抜けきれない身には、そこが心配になる。夏だと窓が明るくなっても「まだこんな時間か」と、もう一寝入りできたのだが、その感覚で秋の時刻をとらえると間違ってしまう。それに、秋は熱帯夜もないので、ぐっすりと眠れる。そんな要素が重なって、寝過ごしやすいのが秋という季節。だからこそ、時計を慎重の上にも慎重に合わせたというわけだ。かつて早朝のラジオ番組を担当していたころには、私は毎晩三つの目覚まし時計をセットして寝ていた。手巻きで動く時計と電池式のものと、そしてもう一つはAC電源で動くものと。もしも、これらが偶然に全部故障したら、こいつはもう「どうにもならねえや」という心持ち。でも、やっぱり心配は心配だった。『舗道の花』(1956)所収。(清水哲男)


September 1292001

 江戸の空東京の空秋刀魚買ふ

                           摂津幸彦

風一過の(か、どうかは知らねども)抜けるような青空が広がっている。この空は、江戸も東京も同じだ。とても気分がよいので、今夜は「秋刀魚(さんま)」にしようと買い求めた。江戸の人も、青空の下で自分と同じような気分で買っていたにちがいない。時代を越えて、この空が昔と同じであるように、昔の人と気持ちがつながった思いを詠んでいる。威勢のよさのある魚だから、江戸っ子気質にも通じている。ところで、江戸期に秋刀魚は「下品(げぼん)」とされていたようだ。つまり、下等な魚だと。例の馬琴の『俳諧歳時記栞草』を調べてみたが、載っていなかった。となれば、「秋刀魚」はごく新しい季語ということになる。あまりにも安価でポピュラーすぎた魚だからだろうか。そりゃまあ、鯛(たい)なんかと比べれば、ひどく脂ぎっているので上品な味とは言えない。そういえば落語の『目黒の秋刀魚』の殿様の食前にも、蒸して脂を抜き上品に調理した(つもりの)ものが出ていたのだった。さぞや不味かったろう。だから「秋刀魚は目黒に限る」が効いている。掲句とは無関係だが、「秋刀魚」の句を探しているうちに、こんな句に出会った。「花嫁はサンマの饅のごときもの」(渡辺誠一郎)。「饅」は酢味噌で食べる「ぬた」。ずいぶん考えてみたが、さっぱりわからない。悔しいけど、お手上げです。どなたか、解説していただけませんでしょうか。両句とも『新日本大歳時記・秋』(1999)所載。(清水哲男)


September 1392001

 秋あつし宝刀われにかかはりなき

                           藤木清子

和十五年ころ、第二次大戦前夜。やむにやまれぬ大和魂。いつ日本が伝家の「宝刀(ほうとう)」を、欧米の列強相手に引っこ抜くかが、国民的な話題となっていたころの作だ。作者には掲句以前に「戦争と女はべつでありたくなし」などがあり、愛国心に男も女もないという気概を披歴している。が、女性には参政権もなかった時代だから、気概も徐々に空転して「われにかかはりなき」の心境に至ったのだろう。時の国家権力にいくら共鳴し近づこうとしても、しょせん女は排除される運命だと諦観した句と推定できる。勝手にしやがれ、なのである。このように、明らかに国家による女性差別の時代があった。そして、いきなりの男女同権、主権在民……。望ましいと言うよりも、しごく当たり前の時代が到来したわけだ。が、はしょって述べるしかないけれど、男女同権主権在民の「民主主義」が明確にしたのは、皮肉にもそんな権利では取りつくシマもない権力構造そのものの姿だった。藤木清子よ。あなたは女ゆえに、愛国者として権力に翼賛することを拒否されたわけではなかったのだ。抜けば玉散る氷の刃(やいば)。いつの時代にも、そんな見栄を実行に踏み切れるのは権力者だけである。したがって「正義」の名の下に真珠湾に奇襲をかけ、逆に「正義の報復」に原子爆弾を平然と投下した権力もありえたのだ。このことを思うと、われら女も男も「われにかかはりなき」とでも、お互いに可哀想にもつぶやきあうしかないのではないか。カネもヒマもない庶民には、テロリズムもまた、思弁的夢想の範疇でしか動かせない。「秋あつし」……。『女流俳句集成』(1999)所収。(清水哲男)


September 1492001

 水澄みて金閣の金さしにけり

                           阿波野青畝

語は「水澄む」。夏に比べて、秋は大気が爽やかになり水の澄む季節なので、秋の季語である。その水が澄みに澄んで、「金閣」寺を美しく写し出している。さながら絵葉書に見るような情景だ。戦前の作だから、焼失(1950)する前の建物であり、美しさは想像するしかないが、現在のものよりも「金」の色はくすんでいたかもしれない。歴史を経た金色である。その金色が折からの西日を受けて(作者自解による)、くすんだままにくっきりと池に投影されてきた。「さしにけり」の「さす」は、「口紅をさす」などと言うときの「さす」。彩(いろど)りをするという意味。澄み切った池の水に西日の傾きに連れて、すうっと地味な金色が反映してきたときの動的な感覚を表現している。絵葉書と言ったが、この「さしにけり」までの動きは絵葉書では表せない。空は晴れているので、上空には当然秋の夕焼けがのぞめたろう。すなわち、空も金色を湛えていた。と、ここでまた絵葉書。「寺を辞したとき、すでに日が西に没していた」と、自解にある。目裏に美しい残像を刻みつけるようにして、作者は寺を離れたことだろう。日の暮れた京都のひんやりとした大気の感触が、すこぶる心地よい。『国原』(1942)所収。(清水哲男)


September 1592001

 コスモスや海少し見ゆる邸道

                           萩原朔太郎

洒な「邸(やしき)」の建ち並ぶ道を散策している。塀沿いにはコスモスの花が可憐に咲き、風に揺れている。小高い丘陵にある邸道からは、「海」が「少し見ゆる」というロケーション。視覚的にしっかりと構成されていて、寂しい秋の海の色までが目に見えるようだ。作者以外には、道行く人もいないのである。実は、この句には前書があって「晩秋の日、湘南の或る侘しき海水浴場にて」とある。こうあからさまに説明されてしまうと興ざめで、むしろ前書きは不要と思うが、句だけで立てるかどうかに不安があったのかもしれない。他にも、前書きつきの句の多い人だ。詩人の故か。作句年代は不明だが、いずれにしても昭和も初期の句だ。そのことを頭に入れて読むと、句の印象はかなり変わってくる。というのも、当時の「コスモス」はいまとは違い、とてもモダンな花という印象が強かったからだ。メキシコ原産で、日本には幕末に渡来したそうだが、本格的に広まったのは1909年(明治42年)、文部省が全国の小学校に栽培法を付して配布してからである。つまり珍しい異国の花であり、栽培すべき花であり、ハイカラな花であったわけだ。だから朔太郎の感覚からすると、モダンな邸宅地などにこそ似合う花だった。したがって揚句は、モダンな哀愁を帯びた句として鑑賞しなければならないのだが、もはやコスモスにモダンなフィルター機能は望むべくもない。作者の真意とは、離れたところで読まざるを得なくなっている。俳句も年をとる。『萩原朔太郎全集・第三巻』(1986)所収。(清水哲男)


September 1692001

 或る闇は蟲の形をして哭けり

                           河原枇杷男

の音しきりの窓辺で書いています。窓外は真っ暗と言いたいところですが、東京の郊外といえども、どこかしらに光りがあって、真の闇は望むべくもありません。でも、虫の声の聞こえてくるあたりを見やると、そこはたしかに闇の中という感じがします。あちこちに、とても小さな真の闇がある。その意味では、都会の闇には、いつもそれなりの「形」があると言ってもよいだろう。むろん揚句の闇は、巨大なる真の闇である。鼻をつままれても、相手が誰だかわからないほどの……。だから、この闇には形などないわけで、そんな闇に「蟲(むし)の形」を与えたところが手柄の句。そして「哭(な)けり」の主語は「蟲」ではなくて、あくまでも「闇」そのものだ。平たく言えば、たまたま「闇」が「蟲」の形をして、いま「哭」いているのだよという見立て。したがって、句の「蟲の形」は明確な輪郭を持つものではない。いわば心眼をこらせば「蟲の形」をなしてくる「或る闇」なのだ。見ようとしなければ絶対に見えない「形」だし、見ようとすれば見える感じになる「形」である。故にたとえば「或る時」に「或る闇」は、たまたま人間の形になって哭くこともあるだろう。そんな方向に読者を連れていくのが、この句の大きな魅力だと思った。『密』(1970)所収。(清水哲男)


September 1792001

 茹栗を食べて世帯の言葉かな

                           草間時彦

表を突かれた。言われてみれば、なるほど家族間だけで使う「世帯の言葉」というものがある。家族で「茹栗(ゆでぐり・うでぐり)」を食べながら、作者がどういう言葉を口にしたのかはわからない。が、その言葉は、およそ他人の前では使わない(使えない)ものだった。他人には意味不明に聞こえるような言葉か、あるいは聞かれて気恥ずかしくなるような言葉か。そのことにハッと気がついて、すうっと句になった。栗を茹でるのは、焼いたりするのとはちがって、極めて家庭的な行為なので、「世帯の言葉」に抵抗なくつながっていく。さて、この「世帯の言葉」に対するのが「世間の言葉」だろう。私たちはほとんど無意識のうちに使い分けているが、たまに両者がぶつかりあう現場に遭遇することがある。たとえば、客に招かれたときなどがそうだ。このときに招かれた客は「世間」であり、招いた側は「世帯」である。客は当然「世間の言葉」を使うわけだが、招いた側の家族は客には「世間」で応対し、家族同士では「世帯」で応接しなければならない。「世間」に出たことのない子供でもいると、使い分けが明らかにこんがらがってくる。客には意味不明の言葉を使わざるをえなくなって、照れ笑いを浮かべたりする。そんなシチュエーションではないのに、揚句の作者は「世帯の言葉」に気がついた。「世間」では幼児言葉とされているそれでも使ったのだろうか。『櫻山』(1974)所収。(清水哲男)


September 1892001

 すずなりの茱萸をかざして通りけり

                           若林いち子

だちょっと「茱萸(ぐみ)」の熟れる季節には早いだろう。霜の降りるころになると、実の赤さが増す。その頃の情景だ。かつての山の子としては、一読「わあっ、なんと豪勢な」と声をあげたくなるような句である。真っ赤な実が「すずなりに」なった大枝を、これ見よがしにサワサワと「かざして」通る人。そこらへんにいくらでも茱萸の木は自生していたが、このような「大物」に出会うことは、めったになかった。だから、作者とともに私もまた、通る人をただうらやましく見つめるだけである。食べたい欲望よりも、所有欲をかきたてられるのだ。柿でも栗でも、あるいはアケビなどでも、野の物に対する気持ちはみな同じように働いていた。そういうことを思い出した。ところで、当歳時記が定本としている角川版歳時記では「茱萸」を秋としているが、厳密に言うと「茱萸」は季語ではない。「茱萸」という名前はグミ科グミ属の総称だからだ。冬をのぞいた三季に、種類の異なったそれぞれの「茱萸」がある。つまり、単に「茱萸」という名前で特定できる植物は存在しないわけだ。したがって、もっともポピュラーなこの季節のものは「秋茱萸」と言い習わしてきた。揚句の情景から推察して、読者はこの「茱萸」を「秋茱萸」と判断することになるのである。『新歳時記・秋』(1989)所載。(清水哲男)


September 1992001

 乙女座の男集まれ花野の天

                           原子公平

とえば、野村泊月に「大阿蘇の浮びいでたる花野かな」がある。「花野(はなの)」は秋の花が咲きみちた野を言うが、本義はこのように広々とした野や高原を指している。花々が澄んだ光のなかで揺れ、まことに明るく広大な野だ。が、そこにはどことなく秋ゆえの淋しい感じも漂っている。「乙女座の男」である作者(九月十四日生まれ)は、そんな高原に来ている。「天」は都会では見られない広々とした空であり、抜けるような青さを湛えていて、上天気なのだ。身も心も晴れ晴れとした上機嫌が、思わずも叫ばせた一句だろう。日ごろから何となく「乙女座の男」であることにひっかかっていた気持ちが、ここ「花野」に立つうちに解き放たれた。「花」と言えば「乙女」じゃないか。と、平凡な連想が「乙女座の男」を「みんな」集めたら愉快だろうなという空想につながった。「天」の意識は、もうこの世にはいない男たちへの呼びかけも含んでいるのかもしれない。では、ここに「みんな」を集めたらなぜ愉快なのか……。などと、あまり理屈をこねて鑑賞すると面白くない句になってしまう。字面だけを追うとよくわからないところはあるが、作者の上機嫌はとてもよく伝わってくる。作者の爽やかな気持ちの良さがわかれば、それでよいのではないか。『海は恋人』(1987)所収。(清水哲男)


September 2092001

 日と月のめぐり弥栄ねこじゃらし

                           池田澄子

観や背景を大きく構えて、小さなものにストンと落とす。俳句では、よく見かける手法の一つだ。このときに問われるのは(句が面白くなるかどうかを決めるのは)、大きな構えよりも小さなものの選択眼だろう。揚句は「日と月のめぐり」と大きく構え、駄目押しのように「弥栄(いやさか)」と、構えにつっかい棒までしている。「弥栄」は、発展繁栄を祈る掛け声。結婚披露宴の乾杯の音頭などで「御両家の弥栄を……」と、よく耳にする。「日と月のめぐり」はまことにおめでたく、「弥栄」とまで叫んだ作者の目がさてどこに落ちるのか。と、期待して読むと、なんとそこらへんに生えている「ねこじゃらし」に落ちたのだった。「なあんだ」と拍子抜けの面白さを感じることもできるし、一歩進めて「ねこじゃらし」の平凡から「日々好日」の庶民感覚を読むこともできる。最初私はそんなふうに読んだが、なんだか違うような気がして、何度か反芻してみた。そして思ったのは、作者が「ねこじゃらし」に見ているのは、その平凡さではなくて、その無表情ではないのかということだった。この草は、いつだって「どこ吹く風」と揺れている。そう考えると「弥栄」の叫びは、滑稽なほどに空しく響いてくる。叫んだ作者の心情などは、あっさりと無視されたというわけだ。すなわち「日と月のめぐり」に余計なつっかい棒は無用であり、ただ虚無的に「日と月」はめぐるのみなのだと、私のなかでの句意はここに落ちることになった。「俳句研究」(2001年10月号)所載。(清水哲男)


September 2192001

 季すぎし西瓜を音もなく食へり

                           能村登四郎

の季語とされている「西瓜」だが、さすがに気温の下がってくる陰暦八月ともなると、真夏のように威勢の良い食べ方はできなくなる。なにせアフリカ原産、水分が90パーセント強の果実ゆえ、気温が高くないと「音」をたててかぶりつく気持ちは失せてしまう。「季」は「とき」。したがって「音もなく食へり」となるわけで、しかもこの季節外れの「西瓜」はみずから求めたものではないだろう。何かの事情で、仕方なく食う羽目になったのだ。招かれた先が、生産農家だったのかもしれない。先方は十分に美味いと自信をもって薦めたのだろうが、作者の困惑ぶりが、その表情までもが手に取るようにうかがわれて面白い。家庭でならば、しらあっとした顔になるはずが、御馳走してくれた人の好意の手前、そうもいかない。いかにもの表情で食べながらも、しかし威勢よく食べる音は立てていないのだから、音が表情を裏切っている。ホントにマズそうな句だ。だから、ウマい句なのだ。こういうことは、べつに「西瓜」ではなくとも、誰にもたまに起きることがある。私が俳句は「思い当たりの文芸」という所以だし、うっかり見逃してしまいかねない地味な作品だが、自然よりも人間にこだわりつづけた登四郎の面目躍如たる秀句だと「音」たてていただいた。自選集『人間頌歌』(1990・ふらんす堂文庫)所収。(清水哲男)


September 2292001

 いなづまの花櫛に憑く舞子かな

                           後藤夜半

語は「いなづま(稲妻)」で秋。女性讃句。一瞬、遠くで光った「いなづま」が、眼前の「舞子(舞妓)」の「花櫛(はなぐし)」に「憑く(つく)」ように見えたと言うのである。このときに稲妻は花櫛に同化して花櫛そのものなのであり、間接的にはおそらく彼女の気性の強さを表していて、その気性を作者は好ましく思っているということだろう。稲妻が消えた後でも、花櫛はなお稲妻に憑かれて異彩を放っている。「ウツクシい」な。夜半はこのときに、まだ二十代か。大阪の商人で、遊里に入門したばかりと推定する。そんな初々しさが感じられる句だ。さて、「舞子」の定義。私は京都に住みながら、祇園の女性たちとは当たり前に無縁だった。たまたま、表で見かけるだけ。テレビで観るのと、さして変わりはない異次元世界の存在。したがって、どなたが「舞子」やら「芸子」やらの区別も、いまだにつかないでいる。で、以下はMacに仕込んである小学館の『スーパー・ニッポニカ2001』の丸写しだ。「京阪地方以西における半玉(はんぎょく)の名称。12〜16歳で芸子(げいこ)(芸者)に昇格するのは半玉と同じだが、座敷の余興に舞踊のほか下方(したかた)とよばれる鼓や太鼓の伴奏を勤めるなど独特の風習をもつ。玉代も芸者と同額で、半玉が芸者より低い地位にあるのに対し、芸者と同格に待遇された。座敷に出る盛装は、髪を割信夫(わりしのぶ)に結い、針打・花簪(はなかんざし)などで飾り、大振袖(ふりそで)の友禅を裾(すそ)を引いて着、襦袢(じゅばん)には赤衿を用い、厚板などの帯を「だらり」(猫じゃらし)に結び、戸外は高い木履(おこぼ)(ぽっくり)を履いて高く褄(つま)をとって歩くのを典型とする。1947年(昭和22)以後は年少女子の酒席接待が禁じられたので、年齢が引き上げられるとともに風俗も変化している。〈原島陽一〉」。ふうん、と思うだけ。でも、句の女性の美しさはわかるなあと思うのである。こんなふうに女性を讃めるのは、なかなか難しいんだよ。『青き獅子』(1962)所収。(清水哲男)


September 2392001

 母の行李底に団扇とおぶひひも

                           熊谷愛子

悼句だろう。亡くなった母親の遺した物を整理するうちに、行李(こうり)を開けたところ、いちばん底のほうから「団扇(うちわ)」と「おぶひひも」が出てきた。彼女は、何故こんな役立たずのものを大事に仕舞っておいたのか。……といぶかしく思いかけて、作者はハッとした。覚えているはずもないが、この「おぶひひも」は赤ん坊の私をおんぶしてくれたときのもの。となれば、この「団扇」は暑い盛りに私に風を送ってくれたものなのだ。二度と使うことはないのに、こうやってとっておいた母の心が、わかったような気がした。母は「行李」を開けたときに、ときどき底のものを見ていたにちがいない。私が反抗したとき、私に馬鹿にされたとき、そして私が結婚して家を出たときなどに……。とくに女性にはプライバシーもへちまもなかった時代には、自分用の「行李」だけは、プライバシーの拠り所だったはずだ。だから、そこに仕舞ってあるのは単なる「物」以上の意味をこめた「もの」も収納されていたのだと思う。このときに「行李」の「底」とは、「心の底」と同義である。何度か読んでいると、自然に涙がにじんでくる。名句である。「おぶひひも」の平仮名が、切なくも実によく効いている。「団扇」は夏の季語だから、一応夏に分類はしておくが、句の本意からすると無季が適切かと。『旋風(つむじ)』(1997)所収。(清水哲男)


September 2492001

 臼ニなる榎倒れて夜寒哉

                           中村掬斗

者は一茶門、信州の人。それでなくとも、信州への寒気の訪れは早い。ましてや今日は、夏の間茂り木陰をつくっていた「榎(えのき)」(エノキに「夏の木」という日本字をあてるのは、このことから)が伐り倒され、夜寒もひとしお身にしみる。「榎」は高さ20メートルほどにも及ぶ大木だから、伐り倒された後の光景はさぞや寒々しかったにちがいない。私が気に入ったのは「臼(うす)ニなる」の「なる」。「榎」の材質は堅いので、昔から建材や家具に用いられてきた。が、消費者としての現代人はもはや結果としての建材や家具を目にするだけで、鞠斗の時代の人々のように、目の前の大木が結果としての「臼」になる過程に携わったり見たりすることはない。伐り倒された木の太い部分は「臼」になり、枝の部分は薪炭になる。と、当時の人々は倒された木から、いや木が立っているうちから、ごく自然に過程と結果をイメージできたのだ。その「ごく自然」な心が、臼に「なる」という言い方に表れており、決して臼に「する」ではないのである。木が自然に生長してきたように、今度は自然に臼に「なる」のだと言ってもよい。このことを逆に言えば、当時の読者にとっての掲句の「なる」は、あまりにも当たり前すぎて面白くもなんともなかっただろう。むろん作者の眼目も「なる」にはないので、句意は動かない。『一茶十哲句集』(1942)所収。(清水哲男)


September 2592001

 夜の黄葉運河に並ぶ娼婦館

                           棚山波朗

語は「黄葉(こうよう・もみじ)」。秋に紅葉しないで葉が黄色くなるのは、イチョウ、ケヤキ、クヌギなど。オランダはアムステルダムでの作句だそうだ。詳しくは知らないが、あの国には公娼制度があって、女たちが春をひさぐ「娼婦館」の建ち並ぶ一画がある。四半世紀ほども前に、一度だけ通りかかったことがあるが、いわゆる「飾り窓」システムだった。私には目もくらむような美女たちが、豪華なインテリアで装飾された部屋で、思い思いの格好で客を待っている。彼女たちと交渉する男は、部屋の片隅の表の細いドアから室内に入り、多くの野次馬に見つめられながら「商談」をせねばならない。だからいくら「旅の恥はかき捨て」と言っても、交渉には相当な度胸がいる。もちろん、金もいる。見ていると、商談不成立ですごすごと出てくる客は、ほとんどが黒人であった。「チクショウめっ」と、これは野次馬たる私の代弁。彼女たちには客を断わる権利があり、眺めていた感じでは「春をひさぐ」というような哀れさは微塵もなかった。そのときに「上を見ろ」と、いっしょにいた事情通が言った。「若い女は、こうして一階にいられる。何年かすると、二階に上がる。そのうちに、最上階に追いやられるんだ」。見上げると、上の階にいくほど照明が薄暗くなっていた。いちばん「黄葉」に近いところでは、灯の消えている部屋もあった。以上が、掲句についての私なりの解釈のつもりである。「俳句」(2001年10月号)所載、『雁風呂』所収。(清水哲男)


September 2692001

 剣劇の借景の柿落ちにけり

                           守屋明俊

刈りなどの秋の農繁期を過ぎると、芝居がかかるのが楽しみだった。たまに旅回りの一座がやってくることもあったが、定期的に演じられていたのが素人芝居だ。村の若い衆とおっさん連中が、田圃やら空き地やらに舞台を組んで、クラシックな『瞼の母』やら『国定忠次』やらを演じたものだ。にわか作りの舞台だから、立派な背景画なんぞは望むべくもない。ならば、そこらへんの自然を生かして(「借景」として)やろうじゃないかと知恵を出し、舞台裏に見える景色に合った出し物を選んでいたのだろう。実際、日ごろ無愛想な近所のおっさんが、白塗りで「山は深山(しんざん)、木は古木(こぼく)……」と見栄を切る場面なんぞは、背景がまさにその通りなのだからして「ウマいことを言うなあ」と感心した覚えがある。だから、いまだに覚えているのだ。さて、掲句ではクライマックスの「剣劇」シーンだ。切り狂言といって、この立ち回りが芝居の華。「役者」たちが演出通りに押したり引いたりしていると、背景の柿が突然ぽたっと落ちた。おそらくは、あろうことか舞台の上に落ちてきたのだろう。これで舞台と客席に張りつめていたせっかくの緊張感が、あっけなくも途切れてしまう。なかには、吹き出す奴もいたりする。ここで、芝居はパーだ。柿が熟して自然に落ちる様子は「ぽたっ」というよりも「ぽたあっ」ないしは「ぼたり」と、かなり存在感のある落ち方をする。そこらへんの機微をよく捉え、滑稽感に哀感を振りかけたような味が面白い。いや、お見事っ。『西日家族』(1999)所収。(清水哲男)


September 2792001

 蝗炒るむかし兵馬を征かしめて

                           糸 大八

語は「蝗(いなご)」で秋。蝗を炒(い)りながら、昔のことを思い出している。思い出しているのは、自分のことというよりも、村の出来事であり歴史である。毎年秋になると、どの家でも、こうして蝗を炒ってきた。いまも炒る。そのことは昔とちっとも変わらないが、変わったこともいろいろとある。で、いちばん村が激変したときといえば、戦時だった。若い衆には赤紙が来て次々に出征していき、農耕馬も軍馬として徴用されていった。見送ったのは老人と女子供であり、残された者に銃後の農作業は辛く厳しいものであった。遂に帰ってこなかった若い衆もいたし、馬たちは一頭も戻ってはこなかつた。いまにして思えば、残った者は人や馬を「見送った」のではなくて、むしろ能動的に「征(ゆ)かしめ」たのではなかったのか。「兵馬を征かしめて」、「むかし」もこうやって平時のように蝗を炒ったものだ。その行為は平時のいまも変わらないが、変わらないからこそ、炒るという平凡で不変な行為が「むかし」の変事を鮮明に炙り出してくるのである。しかし、痛恨という思いではない。時代の高揚感にみずからも昂ぶり、日の丸を打ち振って「征かしめ」たおのれの卑小さを思うのみなのである。作者は現在の六十歳代だから、当時はほんのちっぽけな子供でしかなかった。なのに、この句だ。胸をうたれる。「俳句界」(2001年10月号)所載。(清水哲男)


September 2892001

 秋刀魚焼かるおのれより垂るあぶらもて

                           木下夕爾

いてい「秋刀魚」を焼く句というと、菜箸(さいばし)に火がついたとか、煙がものすごいとか、当の魚それ自体の焼かれる状態には目をやらずに詠む。目がいかないのではなくて、目はいっているのだが、見なかったことにして詠むのである。何故か。書くまでもないだろうが、これから食べようかという相手を、人は同じ生物レベルで認めたくないからだ。認めたなら、すなわち共食いになるからだ。共食いを感性的に忌避するのは、人間だけだと思う。人が自然界で弱いほうの生物として生き永らえてきたのは、まずは人間同士の共食いを可能なかぎりに避けてきた知恵からではないだろうか。したがって人食い人種(と言われた人たちの真実は知らないが)は、極めて「人為」的に淘汰されてしまった。共食いを人類生存の障害として排除してきた別種の表現形態や様式が、食欲とは何の関係もない風情で、しれっと文化文明として我々の前に立っていると思うと、これはこれで興味深い。掲句の作者は、そうしたことどもに半ば本能的に苛立ち、共食いを直視せよと言わんばかりなのである。人にも我が身を焼く「あぶら」はあるじゃないか、と。このときに、自分自身の「あぶら」で身を焼かれている「秋刀魚」を哀れとも、ましてや滑稽と言うのではない。むしろ掲句は、共食いを直視できない人間の哀れと滑稽を言いたかったのだと思う。淡く透明な抒情詩をたくさん書いた詩人にしては、めずらしく原初的な怒りを露(あらわ)にした句だ。ただし賭けてもいいが、この人は「秋刀魚」が好物ではなかったと、それだけは言えるだろう。『遠雷』(1959)所収。(清水哲男)


September 2992001

 秋晴の空気を写生せよといふ

                           沢木欣一

者自註に「『空気が写生出来なければ駄目だ』と棟方さんが語った。終戦間もなく富山県福光町に疎開中の棟方さんを訪ねた頃のこと」とある。「棟方さん」とは、棟方志功のことだ。いかにも画家らしい言葉だが、あらゆる表現者に通ずるところがあると思う。言葉の意味としては、別に突飛でも難しくもない。たとえば「秋晴」に何をどのように感じるかは、何も感じないことを含めて、人さまざまである。このときに、どういう感じ方をしても自由なわけで、それがその人なりの「秋晴」という事象の「把握」だ。表現をしない人は常に事象を把握するのみにとどまるが、むろんそれはそれで一向に構わない。だが、ひとたび自分が把握したすべてを正確に他人に伝えようとなると、どうしても見えない「空気」を見えるように「写生」しなければならない。……と「棟方さん」は言うのである。考えてみれば、誰のどんな「把握」であろうとも、心のなかでは既に「空気」までをも「写生」した状態にあるわけだ。それをそのまま出す(「写生」する)ことができなければ「駄目」なんだと、画家はしごく当たり前のことを述べたのであった。それにしても、作者は「棟方さん」の言葉をそのまんま句にして、なおいまひとつ真意がつかめずに考え込んでいるようだ。その考え込んでいる「空気」がそのまんまに「写生」されているので、句になったというところか。『二上挽歌』所収。(清水哲男)


September 3092001

 すだちしぼる手許や阿波の女なる

                           京極杞陽

語は「すだち(酢橘)」で秋。昔から、阿波徳島の名産だ。物の本には「果汁は多く酸味が強いが、多種類の酸性アミノ酸を含むために特有の風味と芳香があり、酢として珍重される。季節感のある果物の一つとして風味を尊び、緑果のうちに利用され、焼きマツタケやシイタケなどにはふさわしく、焼き魚、煮物、刺身、吸い物、湯豆腐など和食にあう。ブランデーや紅茶などにも調和する。8月末から10月にかけて出荷が多い。(飯塚宗夫)」とある。私の祖父は本場徳島の男だったが、晩年に暮らした大阪で「すだち」を食膳に上げていた記憶はない。容易には、手に入らなかったからだろう。現在では、それこそ大阪にでも東京にでも全国的に出荷されている「すだち」は、掲句が作られた三十年前くらいだと、なかなかお目にかかれぬ果実であった。この背景を知らないと、この句の味はわからない。困ったものだが、これも俳句の因果なところ。で、この背景を知ってしまえば、句意は明瞭となる。どこぞの料亭か小料理屋で、こともなげに「すだち」をしぼる女性がいた。「徳島の出だね、さすがだねえ」と作者は話しかけ、案の定だったと言ったに過ぎない。でもね。私も放送のゲストのかすかな訛りから、出身地を嗅ぎ当てたくなったりする。それが何だと言われても困るけれど、そんなひとりよがりの得意や楽しみが、誰にでも一つや二つはあるかと思って、この句を掲載した次第。湯豆腐が食べたくなった。『露地の月』(1977)所収。(清水哲男)




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