ようやくADSL環境に入りました。猛烈に早い。と言っても、HPを重くしないようにしなければ。




2001蟷エ9譛5譌・縺ョ句(前日までの二句を含む)

September 0592001

 かなかなかな香典袋なくなれり

                           清水径子

儀袋とは違い、「香典袋」は不意に緊急に必要になるものだから、買い置きをしておく人は多いだろう。と言っても、大量に求めるのは、たくさんの人の死を待ち望んでいるようで憚られる。せいぜい数袋程度しか買わない。作者の身辺では、連続して不祝儀がつづいたのだ。そしてまた今日も訃報がもたらされ、これから通夜に出かける情景だろう。買い置きの「香典袋」を探すと、もはや一袋しか残っていなかった。紙幣を包み署名したところで、「なくなれり」となった。表では「かなかな」が鳴きしきり、その哀切な調べに和すようにして作者は「かなかなかな」とつぶやき、すらりと句になった。三番目の「かな」を切れ字と読むことも可能だが、私には鳴き声のように思える。連続して死者を見送る人の喪失感が、鳴き声として読むことで滲み出てくる気がするからだ。切れ字と取ると詠嘆の度合いが濃くなり、連続した死者への思いよりも、これから見送りに行く一人の死者への思いのほうが強調されてしまう。となれば、「香典袋」が「なくなれり」という描写が生きてこないわけだ。蜩の聞こえる暮れかけた部屋でしばし端座している心に、一瞬「香典袋なくなれり」という現世的な所帯じみた感覚を走らせた。ここに、生き残った者の茫然たる喪失感がよく表現されている。『哀湖』(1981)所収。(清水哲男)


September 0492001

 白桃に入れし刃先の種を割る

                           橋本多佳子

は、食べるのに厄介な果物だ。間違っても丸ごとそのまんまで、見合いの席などには出してはいけない。上手に皮を剥くのも一苦労だし、丸かじりというよりも、いわば「丸吸い」で食べるのがいちばんだと思うが、食べやすいように四半分くらいに切ってからという人もいる。当然にナイフを入れることになるわけだが、ここでも面倒なことには、大きくて堅い「種」がある。もちろん、誰だってそのことを知っているから、刃が当たらないように用心して切りにかかる。用心して刃先を入れると、普通は「白桃の刃を吸ふて静かなる」(高倉亜矢子)のような感触を得る。用心した結果の「静かなる」なのだ。掲句の作者もまた、同じように用心しながらナイフを入れたのだけれど、コツンと「種」に刃先が当たって、自然にはじけそうになっていた「種」が、かすかな衝撃で小気味よく割れてしまったのだった。別に大事件というわけではないし、もとより「種」を割るべく仕組んだ結果でもないのに、なんだか良い心持ちになってしまった。掲句を読んでまっさきにユニークに感じたのは、このようにちっぽけな出来事とも言えない出来事を詠める「俳人」の、そして「俳句」様式自体の神経の独特な伸ばし方である。こういうのを「俳句らしい俳句」って言うんだろうな、きっと……。『合本俳句歳時記』(1974・角川書店)所載。(清水哲男)


September 0392001

 夕月夜人は家路に吾は旅に

                           星野立子

れから旅に出る作者が、駅へと向っている。私にも何度も覚えがあるが、重い旅行鞄を提げ、勤め帰りの人たちの流れに逆流して歩く心持ちは、妙なものである。旅立ちの嬉しさと、束の間にせよ、住み慣れた町を離れる寂しさとが混在するようなのだ。「夕月夜」だから、天気はよい。それがまた、かえって切なかったりする。そんな気持ちを、言外に含ませている句だ。夜行列車で出かけるのだから、かなりの遠出を想像させる。新幹線のなかった時代には、東京大阪間くらいでも、多くの人が夜行を利用していた。昼間の急行でも九時間以上はかかったので、よほど早朝に乗らないと、着いた先では夜になってしまう。それよりも、寝ながら行って朝着いたほうが、気持ちもよいし時間の経済にも適うという心持ちであり理屈であった。ところで「夕月夜」だが、単に日の暮れた後の月夜ではなく、新月から七、八日ごろまでの上弦の宵月の夜を言う。夕方出た月は、深夜近くにはもう沈んでしまう。そんなはかない月の姿も、掲句に微妙な色合いを与えている。ちなみに今宵の月は満月を過ぎたばかりなので、厳密には句の感興にはそぐわない。『実生』(1957)所収。(清水哲男)




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