ADSLのおかげで時間が節約できると思いきや、ついあちこちを覗いてしまうので、寝不足気味に。




2001蟷エ9譛6譌・縺ョ句(前日までの二句を含む)

September 0692001

 秋風を映す峠の道路鏡

                           大串 章

眼の面白さ。地方に出かけるたびに今更のように感じ入ることの一つに、自家用車の普及ぶりがある。私の田舎でもそうだが、どこの家にも必ず車がある。都会地とは違って、車は文字通りの必需品なのだ。自転車でも構わないようなものだが、雨や雪の日、あるいは夜間の外出のことを考えると、やはり車に如くはなし。先日訪れた穂高でも福井でも、そのことを感じた。田舎道をテクテク歩いている人の姿は、なかなか見かけられなかった。近所の人とも、互いに車ですれ違うという印象だ。したがって、あちこちに道路標識が立ち、「峠(とうげ)」のカーブには「道路鏡(ミラー)」も立つ。作者もおそらく峠道を車で登ってきて、景色を楽しむべく車から降りて一休みしているのだろう。で、ふと近くに立っている「道路鏡」に気がついた。次から次へと車が通る場所ではないので、ミラーが映しているのは、ただそのあたりの草や木の情景だけである。このミラーは、ほとんど本来の用途である車を映すこともなく、いつまでもじっとこの場所に立っている。ミラーのその空漠たるありようを、作者は木や草を映すと言わずに、「秋風を映す」と仕留めた。峠の「道路鏡」が、鮮やかに見えてくるようだ。『天風』(1999)所収。(清水哲男)


September 0592001

 かなかなかな香典袋なくなれり

                           清水径子

儀袋とは違い、「香典袋」は不意に緊急に必要になるものだから、買い置きをしておく人は多いだろう。と言っても、大量に求めるのは、たくさんの人の死を待ち望んでいるようで憚られる。せいぜい数袋程度しか買わない。作者の身辺では、連続して不祝儀がつづいたのだ。そしてまた今日も訃報がもたらされ、これから通夜に出かける情景だろう。買い置きの「香典袋」を探すと、もはや一袋しか残っていなかった。紙幣を包み署名したところで、「なくなれり」となった。表では「かなかな」が鳴きしきり、その哀切な調べに和すようにして作者は「かなかなかな」とつぶやき、すらりと句になった。三番目の「かな」を切れ字と読むことも可能だが、私には鳴き声のように思える。連続して死者を見送る人の喪失感が、鳴き声として読むことで滲み出てくる気がするからだ。切れ字と取ると詠嘆の度合いが濃くなり、連続した死者への思いよりも、これから見送りに行く一人の死者への思いのほうが強調されてしまう。となれば、「香典袋」が「なくなれり」という描写が生きてこないわけだ。蜩の聞こえる暮れかけた部屋でしばし端座している心に、一瞬「香典袋なくなれり」という現世的な所帯じみた感覚を走らせた。ここに、生き残った者の茫然たる喪失感がよく表現されている。『哀湖』(1981)所収。(清水哲男)


September 0492001

 白桃に入れし刃先の種を割る

                           橋本多佳子

は、食べるのに厄介な果物だ。間違っても丸ごとそのまんまで、見合いの席などには出してはいけない。上手に皮を剥くのも一苦労だし、丸かじりというよりも、いわば「丸吸い」で食べるのがいちばんだと思うが、食べやすいように四半分くらいに切ってからという人もいる。当然にナイフを入れることになるわけだが、ここでも面倒なことには、大きくて堅い「種」がある。もちろん、誰だってそのことを知っているから、刃が当たらないように用心して切りにかかる。用心して刃先を入れると、普通は「白桃の刃を吸ふて静かなる」(高倉亜矢子)のような感触を得る。用心した結果の「静かなる」なのだ。掲句の作者もまた、同じように用心しながらナイフを入れたのだけれど、コツンと「種」に刃先が当たって、自然にはじけそうになっていた「種」が、かすかな衝撃で小気味よく割れてしまったのだった。別に大事件というわけではないし、もとより「種」を割るべく仕組んだ結果でもないのに、なんだか良い心持ちになってしまった。掲句を読んでまっさきにユニークに感じたのは、このようにちっぽけな出来事とも言えない出来事を詠める「俳人」の、そして「俳句」様式自体の神経の独特な伸ばし方である。こういうのを「俳句らしい俳句」って言うんだろうな、きっと……。『合本俳句歳時記』(1974・角川書店)所載。(清水哲男)




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