「居候あらしの屋根を這いまわり」という川柳。住宅環境の激変で、不朽の名作とはならなかった。




2001蟷エ9譛10譌・縺ョ句(前日までの二句を含む)

September 1092001

 一米四方もあれば虫の村

                           五味 靖

んだとたんに「なるほどね」と膝を打った。虫の音や姿を詠むのは、人間のいわば手前勝手な営みだが、虫同士の生活の場に思いをいたすのは、その反対だ。小さな虫たちが、それもたったの「一米四方」で村落を形成していると想像することで、鳴き声や姿の受け取りようも、ずいぶんと変わってくるではないか。私に虫のテリトリーの知識は皆無だけれど、この小さな「村」から生涯出ていかない(いけない)虫もいるのだろう。逆に、村から村へと渡り歩く気ままな流れ者もいそうである。戦いもあれば、災害もあるだろう。あれこれそんなことを考えていると、小さな虫たちに一入(ひとしお)いとしい気持ちがわいてくる。作者は、とても優しい人なのだろうなとも思う。そして小さな「村」があるからには、それらが寄り集まった「国」も存在する理屈だ。同じ句集に「寝落つとは虫の国へと入りしこと」があり、この句にもまた「なるほどね」と、作者の独特な資質を感じた。虫の音を聞いているうちに、いつしか「寝落」ちてしまった。考えてみれば「寝る」とは自然の摂理に同化することであり、人為的な「国」やら文化文明の類いとは切れてしまうことだ。このときに、人間も虫もが同じ「国」に生きるのである。なお、両句とも季語は「虫」で秋季。『武蔵』(2001)所収。(清水哲男)


September 0992001

 秋まつり雨ふつかけて来りけり

                           久保田万太郎

ムラノチンジュノカミサマノ、キョウハメデタイオマツリビ、……。いまの音楽教科書には載ってないそうだが、「秋祭」といえば絢爛たる都会の祭よりも、この素朴でひなびた味わいの「ムラマツリ」のほうがふさわしい。そんな村祭を見物している途中で、パラパラッと雨が降ってきた。この季節には、よくあることだ。天を仰いでしかめ面をする人もいるだろうが、作者はこれも風情のうちさと機嫌がよろしい。「ふつかけて」という威勢のよい表現に、それがうかがえる。おそらくは神輿(みこし)見物の最中で、担ぎ手の威勢の良さに触発された措辞だと思う。巧みな句だ。ウメエもんだ。昨日今日と、我が町でも遠く三鷹村以来の伝統的な「オマツリビ」である。天気予報によると、少しは「ふつかけ」られるかもしれない。見物する側は万太郎のように風情を楽しめばよいのだが、神輿の管理者は渋い表情になる。とりわけて白木の神輿が雨水を吸い込むと、後の手入れが大変だと聞いた。乾くのに三日はかかり、しかも造作はガタガタになる。最初から雨降りならばビニールシートで覆うそうだけれど、渡御(とぎょ)の途中ではそうもいかない。そういう立場の人が掲句を読んだら、ますます渋い表情で即座に「冗談じゃねえや」と吐き捨てることだろう。『新日本大歳時記・秋』(1999)所載。(清水哲男)


September 0892001

 泥の荷の上に教科書秋出水

                           加藤義明

は台風や集中豪雨で、家や田畑を水流の下に埋めることがある。これが「秋出水(あきでみず)」で、単に「出水」と言えば、梅雨期のそれを指す。私の田舎での経験では、いわゆる床下浸水に何度か見舞われ、朝目覚めると土間に下駄がぽこぽこと浮いていたことを思い出す。そこらへんに置いてある道具類は、みんな泥をかぶってしまい、水が引いた後の始末が大変だった。掲句も、水が引いた後の句である。後始末に忙しい他家の様子を、ちらりと垣間見た句だろう。泥だらけになった荷物が干されていて、いちばん上に「教科書」の乗っているのが見えた。ただそれだけのことだが、その家の大人たちの気配りが、よくわかって好もしい。子供には「教科書」は毎日必要なものだし、いちばん大切なものとしていちばん早く乾かさなければと、いちばん乾きそうなまだ泥だらけの「荷の上」に置いてあった。あるいは出水を予想して、最初から難を逃れるべく高いところに置いてあったのかもしれないが、いずれにしても水をかぶってしまった「教科書」である。このときに「教科書」は、学習のためのツール以上の意味を持っている。そんなことはどこにも書いてないけれど、この家の子育てのありようや教育観までがうかがわれるようで、字面をはるかに越えた雄弁な中身となった。『新歳時記・秋』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)




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