無線LANに再度チャレンジ。落ち着いて気長にとは心するものの、いつしか短気が駆け巡りはじめる。




2001ソスN9ソスソス15ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

September 1592001

 コスモスや海少し見ゆる邸道

                           萩原朔太郎

洒な「邸(やしき)」の建ち並ぶ道を散策している。塀沿いにはコスモスの花が可憐に咲き、風に揺れている。小高い丘陵にある邸道からは、「海」が「少し見ゆる」というロケーション。視覚的にしっかりと構成されていて、寂しい秋の海の色までが目に見えるようだ。作者以外には、道行く人もいないのである。実は、この句には前書があって「晩秋の日、湘南の或る侘しき海水浴場にて」とある。こうあからさまに説明されてしまうと興ざめで、むしろ前書きは不要と思うが、句だけで立てるかどうかに不安があったのかもしれない。他にも、前書きつきの句の多い人だ。詩人の故か。作句年代は不明だが、いずれにしても昭和も初期の句だ。そのことを頭に入れて読むと、句の印象はかなり変わってくる。というのも、当時の「コスモス」はいまとは違い、とてもモダンな花という印象が強かったからだ。メキシコ原産で、日本には幕末に渡来したそうだが、本格的に広まったのは1909年(明治42年)、文部省が全国の小学校に栽培法を付して配布してからである。つまり珍しい異国の花であり、栽培すべき花であり、ハイカラな花であったわけだ。だから朔太郎の感覚からすると、モダンな邸宅地などにこそ似合う花だった。したがって揚句は、モダンな哀愁を帯びた句として鑑賞しなければならないのだが、もはやコスモスにモダンなフィルター機能は望むべくもない。作者の真意とは、離れたところで読まざるを得なくなっている。俳句も年をとる。『萩原朔太郎全集・第三巻』(1986)所収。(清水哲男)


September 1492001

 水澄みて金閣の金さしにけり

                           阿波野青畝

語は「水澄む」。夏に比べて、秋は大気が爽やかになり水の澄む季節なので、秋の季語である。その水が澄みに澄んで、「金閣」寺を美しく写し出している。さながら絵葉書に見るような情景だ。戦前の作だから、焼失(1950)する前の建物であり、美しさは想像するしかないが、現在のものよりも「金」の色はくすんでいたかもしれない。歴史を経た金色である。その金色が折からの西日を受けて(作者自解による)、くすんだままにくっきりと池に投影されてきた。「さしにけり」の「さす」は、「口紅をさす」などと言うときの「さす」。彩(いろど)りをするという意味。澄み切った池の水に西日の傾きに連れて、すうっと地味な金色が反映してきたときの動的な感覚を表現している。絵葉書と言ったが、この「さしにけり」までの動きは絵葉書では表せない。空は晴れているので、上空には当然秋の夕焼けがのぞめたろう。すなわち、空も金色を湛えていた。と、ここでまた絵葉書。「寺を辞したとき、すでに日が西に没していた」と、自解にある。目裏に美しい残像を刻みつけるようにして、作者は寺を離れたことだろう。日の暮れた京都のひんやりとした大気の感触が、すこぶる心地よい。『国原』(1942)所収。(清水哲男)


September 1392001

 秋あつし宝刀われにかかはりなき

                           藤木清子

和十五年ころ、第二次大戦前夜。やむにやまれぬ大和魂。いつ日本が伝家の「宝刀(ほうとう)」を、欧米の列強相手に引っこ抜くかが、国民的な話題となっていたころの作だ。作者には掲句以前に「戦争と女はべつでありたくなし」などがあり、愛国心に男も女もないという気概を披歴している。が、女性には参政権もなかった時代だから、気概も徐々に空転して「われにかかはりなき」の心境に至ったのだろう。時の国家権力にいくら共鳴し近づこうとしても、しょせん女は排除される運命だと諦観した句と推定できる。勝手にしやがれ、なのである。このように、明らかに国家による女性差別の時代があった。そして、いきなりの男女同権、主権在民……。望ましいと言うよりも、しごく当たり前の時代が到来したわけだ。が、はしょって述べるしかないけれど、男女同権主権在民の「民主主義」が明確にしたのは、皮肉にもそんな権利では取りつくシマもない権力構造そのものの姿だった。藤木清子よ。あなたは女ゆえに、愛国者として権力に翼賛することを拒否されたわけではなかったのだ。抜けば玉散る氷の刃(やいば)。いつの時代にも、そんな見栄を実行に踏み切れるのは権力者だけである。したがって「正義」の名の下に真珠湾に奇襲をかけ、逆に「正義の報復」に原子爆弾を平然と投下した権力もありえたのだ。このことを思うと、われら女も男も「われにかかはりなき」とでも、お互いに可哀想にもつぶやきあうしかないのではないか。カネもヒマもない庶民には、テロリズムもまた、思弁的夢想の範疇でしか動かせない。「秋あつし」……。『女流俳句集成』(1999)所収。(清水哲男)




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