『目には目を』というアメリカ映画があった。自爆テロの意味をよく理解したクレバーな作品だった。




2001ソスN9ソスソス23ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

September 2392001

 母の行李底に団扇とおぶひひも

                           熊谷愛子

悼句だろう。亡くなった母親の遺した物を整理するうちに、行李(こうり)を開けたところ、いちばん底のほうから「団扇(うちわ)」と「おぶひひも」が出てきた。彼女は、何故こんな役立たずのものを大事に仕舞っておいたのか。……といぶかしく思いかけて、作者はハッとした。覚えているはずもないが、この「おぶひひも」は赤ん坊の私をおんぶしてくれたときのもの。となれば、この「団扇」は暑い盛りに私に風を送ってくれたものなのだ。二度と使うことはないのに、こうやってとっておいた母の心が、わかったような気がした。母は「行李」を開けたときに、ときどき底のものを見ていたにちがいない。私が反抗したとき、私に馬鹿にされたとき、そして私が結婚して家を出たときなどに……。とくに女性にはプライバシーもへちまもなかった時代には、自分用の「行李」だけは、プライバシーの拠り所だったはずだ。だから、そこに仕舞ってあるのは単なる「物」以上の意味をこめた「もの」も収納されていたのだと思う。このときに「行李」の「底」とは、「心の底」と同義である。何度か読んでいると、自然に涙がにじんでくる。名句である。「おぶひひも」の平仮名が、切なくも実によく効いている。「団扇」は夏の季語だから、一応夏に分類はしておくが、句の本意からすると無季が適切かと。『旋風(つむじ)』(1997)所収。(清水哲男)


September 2292001

 いなづまの花櫛に憑く舞子かな

                           後藤夜半

語は「いなづま(稲妻)」で秋。女性讃句。一瞬、遠くで光った「いなづま」が、眼前の「舞子(舞妓)」の「花櫛(はなぐし)」に「憑く(つく)」ように見えたと言うのである。このときに稲妻は花櫛に同化して花櫛そのものなのであり、間接的にはおそらく彼女の気性の強さを表していて、その気性を作者は好ましく思っているということだろう。稲妻が消えた後でも、花櫛はなお稲妻に憑かれて異彩を放っている。「ウツクシい」な。夜半はこのときに、まだ二十代か。大阪の商人で、遊里に入門したばかりと推定する。そんな初々しさが感じられる句だ。さて、「舞子」の定義。私は京都に住みながら、祇園の女性たちとは当たり前に無縁だった。たまたま、表で見かけるだけ。テレビで観るのと、さして変わりはない異次元世界の存在。したがって、どなたが「舞子」やら「芸子」やらの区別も、いまだにつかないでいる。で、以下はMacに仕込んである小学館の『スーパー・ニッポニカ2001』の丸写しだ。「京阪地方以西における半玉(はんぎょく)の名称。12〜16歳で芸子(げいこ)(芸者)に昇格するのは半玉と同じだが、座敷の余興に舞踊のほか下方(したかた)とよばれる鼓や太鼓の伴奏を勤めるなど独特の風習をもつ。玉代も芸者と同額で、半玉が芸者より低い地位にあるのに対し、芸者と同格に待遇された。座敷に出る盛装は、髪を割信夫(わりしのぶ)に結い、針打・花簪(はなかんざし)などで飾り、大振袖(ふりそで)の友禅を裾(すそ)を引いて着、襦袢(じゅばん)には赤衿を用い、厚板などの帯を「だらり」(猫じゃらし)に結び、戸外は高い木履(おこぼ)(ぽっくり)を履いて高く褄(つま)をとって歩くのを典型とする。1947年(昭和22)以後は年少女子の酒席接待が禁じられたので、年齢が引き上げられるとともに風俗も変化している。〈原島陽一〉」。ふうん、と思うだけ。でも、句の女性の美しさはわかるなあと思うのである。こんなふうに女性を讃めるのは、なかなか難しいんだよ。『青き獅子』(1962)所収。(清水哲男)


September 2192001

 季すぎし西瓜を音もなく食へり

                           能村登四郎

の季語とされている「西瓜」だが、さすがに気温の下がってくる陰暦八月ともなると、真夏のように威勢の良い食べ方はできなくなる。なにせアフリカ原産、水分が90パーセント強の果実ゆえ、気温が高くないと「音」をたててかぶりつく気持ちは失せてしまう。「季」は「とき」。したがって「音もなく食へり」となるわけで、しかもこの季節外れの「西瓜」はみずから求めたものではないだろう。何かの事情で、仕方なく食う羽目になったのだ。招かれた先が、生産農家だったのかもしれない。先方は十分に美味いと自信をもって薦めたのだろうが、作者の困惑ぶりが、その表情までもが手に取るようにうかがわれて面白い。家庭でならば、しらあっとした顔になるはずが、御馳走してくれた人の好意の手前、そうもいかない。いかにもの表情で食べながらも、しかし威勢よく食べる音は立てていないのだから、音が表情を裏切っている。ホントにマズそうな句だ。だから、ウマい句なのだ。こういうことは、べつに「西瓜」ではなくとも、誰にもたまに起きることがある。私が俳句は「思い当たりの文芸」という所以だし、うっかり見逃してしまいかねない地味な作品だが、自然よりも人間にこだわりつづけた登四郎の面目躍如たる秀句だと「音」たてていただいた。自選集『人間頌歌』(1990・ふらんす堂文庫)所収。(清水哲男)




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