野見山朱鳥に「何をなせとや秋天下かく臥して」の一句あり。それに比べりゃ、こんな風邪なんて。




2001ソスN10ソスソス3ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

October 03102001

 秋風よ菓子をくれたる飛騨の子よ

                           野見山朱鳥

弱で、人生の三分の一ほどは病床にあった作者の、まだ比較的元気だったころの句だ。どのようなシチュエーションで、「飛騨(ひだ)の子」が「菓子をくれた」のかはわからない。想像するに、この子はまだ私欲に目覚めてはいない年ごろだろう。四歳か、五歳か。「おじさん、はい」と菓子を差し出して、すっと離れていった。私にも同じ体験が何度かあるが、欲のしがらみにまみれているような大人からすると、その子供のあまりの私欲のなさに、一瞬うろたえてしまう。それがいかに粗末な駄菓子であったとしても、子供はもう食べたくないから、余ったから「くれた」のではない。むしろ美味しいから、もっと食べたいのに、差し出したのだ。そんな、いわば無私無欲の子供の心に、作者はいたくうたれている。子供の顔が、仏のように写ったかもしれない。地名の「飛騨」には、たまたまの旅先であったというしか元来の意味はない。でも、この子の出現によって、理屈ではなく情趣的な深い意味が出てきた。その詠嘆が「飛騨の子よ」となり、心地よい「秋風よ」となって、作者の胸を去来している。句の主潮は、決してセンチメンタリズムではない。このように表現した意図は、作者が子供から受けたのが「菓子」を越えて、掌にも、そして心にも重い確かな人間の美しさだったからだと、私は思う。『荊冠』(1959)所収。(清水哲男)


October 02102001

 冬瓜を提げて五条の橋の上

                           川崎展宏

語は「冬瓜(とうがん)」で秋。秋に熟すのに何故「冬の瓜」と言うのか。冬期までよく品質を保つことかららしいが、ややこしいネーミングだ。昔の我が家でも栽培していたが、南瓜や西瓜とは違い、もっとでっかいのだけれど、のっぺらぼうで頼りない感じがした。味もまた頼りなく、全体的にヌーボーとした感じの瓜である。さて「五条の橋の上」というと、もちろん伝説的な牛若丸と弁慶の出会いの場である。弁慶は長い薙刀(なぎなた)を持ってこの橋で待ちかまえ、牛若丸は笛を奏でながら通りかかるという寸法だった。そんな伝説を頭にして、作者は橋を渡っている。弁慶か牛若丸の気分だったかもしれない。と、向こうからやってきたのは、なんと大きな「冬瓜」を、重そうによたよたと提げた人だった。これでは、弁慶も牛若丸もあったものじゃない。そんな拍子抜けの気分を、巧みに捉えたユーモラスな句だ。何を隠そう(と気張ることもないけれど)、私が京都の大学に入ることになって、真っ先に見に行ったのが「五条の橋」だった。やはり伝説の現場が見たかったのだが、何のことはない普通の橋でしかなく、がっかりした記憶がある。もちろん橋の位置が、秀吉によって牛若丸の時代より下流にずらされたことなども、露知らなかった。大昔の五条通は、現在の松原通であるという。『夏』(1990)所収。(清水哲男)


October 01102001

 クレヨンの月が匂ひて無月かな

                           田尻すみを

宵は中秋の名月。雲におおわれて名月が見えない状態を「無月(むげつ)」と言う。雨ならば「雨月(うげつ)」となる。一炊という昔の人の句に「月かくす雲こそ二九四十五日」(「二九四」は「にくし」、足すと「十五」)があり、残念な気持ちを駄洒落に託して舌打ちしている。掲句の作者も残念は残念なのだが、子供の画いた満月の絵をながめながら、見えない月を心に描いたところに情趣が感じられる。なるほど、これもまた月見には違いない。子供の絵は、宿題で明日学校に提出するために画いたのだろう。画いた子供は、さっさと寝てしまった。まだ画きたてなので、「クレヨン」の匂いが濃く漂ってくる。懐かしい匂いだ。と思うと同時に、もう「クレヨン」で絵が画けるようになった我が子の成長ぶりにも、思いが至っている。「無月」を詠んではいるが、見えない句の力点は、むしろこちらにかかっていると、私は読む。「クレヨン」の匂いといえば、以前ウチの子にアメリカ土産にくださった方があった。「クレヨン」など、どこの国のものでも匂いは同じだろうと思っていたが、さにあらず。彼の国のそれは「匂う」というよりも「臭う」という感じで、家族みんなで閉口した。仮にこの「クレヨン」で画いた絵だとしたら、とうてい掲句は生まれえない。それほどに強烈な「臭い」であった。『新日本大歳時記・秋』(1999)所載。(清水哲男)




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