米英でガスマスクが売れているという報道。日本では「防毒面」と言った。漢字変換で一発で出た。




2001ソスN10ソスソス4ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

October 04102001

 まだ膝の震へてをりぬ鰯雲

                           寺西規子

登りの句だろう。下山してきて、まだ「膝の震へ」が直らない状態で、登った山を振り返っている。その山の上には、さざ波のような「鰯雲(いわしぐも)」が広がっていた。物事をやり遂げた満足感が、見事にこの雲の様子に調和している。「膝」のチリチリした震えと、「鰯雲」のチリチリした形状と。「やったあっ」、まことに好日上天気なり。一読、読者の気も晴れ晴れとする。ただし、登山などの後で膝の筋肉が震えることを、よく「膝が笑う」と言うが、こちらの表現のほうがよかったかなとも思う。というのも、私は最初、作者が交通事故寸前の危機にあったか何かで、とても怖い体験をして、それで膝がまだ「震え」ているのかと読んでしまったからだ。この読みでも句は成立し、そんな人間の恐怖感とはまったく関係なしに、秋の雲がいつものように平和な感じで広がっているという対照の妙。怖い夢に跳ね起きて、「ああ夢だったのか」とホッとして、部屋を見回す感じに通じている。しかし掲載誌には、この句の後に「ザイル持ちし手の硬張りや水掬う」とあったので、登山の句だろうと思い直した次第だ。いずれにしても、「鰯雲」と「膝の震へ」を取り合わせた作者のセンスは、素敵だ。意外なようであって、意外ではないところが。俳誌「街」(2001年10-11月号)所載。(清水哲男)


October 03102001

 秋風よ菓子をくれたる飛騨の子よ

                           野見山朱鳥

弱で、人生の三分の一ほどは病床にあった作者の、まだ比較的元気だったころの句だ。どのようなシチュエーションで、「飛騨(ひだ)の子」が「菓子をくれた」のかはわからない。想像するに、この子はまだ私欲に目覚めてはいない年ごろだろう。四歳か、五歳か。「おじさん、はい」と菓子を差し出して、すっと離れていった。私にも同じ体験が何度かあるが、欲のしがらみにまみれているような大人からすると、その子供のあまりの私欲のなさに、一瞬うろたえてしまう。それがいかに粗末な駄菓子であったとしても、子供はもう食べたくないから、余ったから「くれた」のではない。むしろ美味しいから、もっと食べたいのに、差し出したのだ。そんな、いわば無私無欲の子供の心に、作者はいたくうたれている。子供の顔が、仏のように写ったかもしれない。地名の「飛騨」には、たまたまの旅先であったというしか元来の意味はない。でも、この子の出現によって、理屈ではなく情趣的な深い意味が出てきた。その詠嘆が「飛騨の子よ」となり、心地よい「秋風よ」となって、作者の胸を去来している。句の主潮は、決してセンチメンタリズムではない。このように表現した意図は、作者が子供から受けたのが「菓子」を越えて、掌にも、そして心にも重い確かな人間の美しさだったからだと、私は思う。『荊冠』(1959)所収。(清水哲男)


October 02102001

 冬瓜を提げて五条の橋の上

                           川崎展宏

語は「冬瓜(とうがん)」で秋。秋に熟すのに何故「冬の瓜」と言うのか。冬期までよく品質を保つことかららしいが、ややこしいネーミングだ。昔の我が家でも栽培していたが、南瓜や西瓜とは違い、もっとでっかいのだけれど、のっぺらぼうで頼りない感じがした。味もまた頼りなく、全体的にヌーボーとした感じの瓜である。さて「五条の橋の上」というと、もちろん伝説的な牛若丸と弁慶の出会いの場である。弁慶は長い薙刀(なぎなた)を持ってこの橋で待ちかまえ、牛若丸は笛を奏でながら通りかかるという寸法だった。そんな伝説を頭にして、作者は橋を渡っている。弁慶か牛若丸の気分だったかもしれない。と、向こうからやってきたのは、なんと大きな「冬瓜」を、重そうによたよたと提げた人だった。これでは、弁慶も牛若丸もあったものじゃない。そんな拍子抜けの気分を、巧みに捉えたユーモラスな句だ。何を隠そう(と気張ることもないけれど)、私が京都の大学に入ることになって、真っ先に見に行ったのが「五条の橋」だった。やはり伝説の現場が見たかったのだが、何のことはない普通の橋でしかなく、がっかりした記憶がある。もちろん橋の位置が、秀吉によって牛若丸の時代より下流にずらされたことなども、露知らなかった。大昔の五条通は、現在の松原通であるという。『夏』(1990)所収。(清水哲男)




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