一日が25時間になるとして、後の一時間を何に使いますか。多忙なときに限って思い出す質問です。




2001ソスN10ソスソス23ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

October 23102001

 月光を纏ひしものに誰何さる

                           和湖長六

の光の美しい夜。ほろ酔い加減で機嫌よく家路をたどっていると、前方をさえぎるように人影が現われ、いきなり「誰何(すいか)」された。「どこ行くの」「どこから来たの」「いつも、ここ通るの」。警官である。私にも経験があるが、あれは不快というよりも、驚きの念のほうが先に来る。不快は、後からやってくる。そして、やり取りをしているうちに落ち着いてくると、だんだんと不思議な気持ちになってくるのだ。身に覚えはないことながら(「だからこそ」か)、何かを疑われているという気分は、妙なものである。なんだか小説か映画か、架空の世界に入り込んだような感じになり、思わずあたりを見回してしまう。掲句は、そんな心持ちを、警官に「月光」を纏(まと)わせることで表現しているのではなかろうか。闇夜ならば闇に溶けてしまいそうな黒っぽい警官の制服が、月夜だから独特な光彩を放って浮かび上がっているのだ。実際には浮かび上がるわけもないけれど、そんなふうに感じられたということ。およそ温度を感じさせない冷たい月明による制服の光彩が、否応なく作者を架空の世界に連れていったということだろう。他にもいろいろに読めるとは思うが、「誰何」と「月光」との取り合わせは面白い。後を引くイメージだ。『林棲記』(2001)所収。(清水哲男)


October 22102001

 黄落のひかり突切る高校生

                           廣瀬直人

く晴れた日の通学路。黄色く色づいた銀杏の葉が、日差しを受けてきらきらと舞いながら落ちてくる。その「ひかり」を自転車通学の高校生たちが、勢いよく「突切」っていく。「ひかり突切る」で、句の焦点が見事に定まった。「突切る」高校生には、「黄落(こうらく)」の情趣など関係はない。そういうことには、一切無頓着である。彼らにとっては、ただ爽やかな「ひかり」でしかない。それが若さだ。一瞬、そんな姿に作者は見ほれてしまった。歌われているのは、若さへの賛歌である。ある程度の年齢になると、こういう感じ方は誰にでも起きるのではなかろうか。私に若さが多少ともあったころには、他人の若さなんて、ひたすらに猥雑で生臭く騒々しいばかりで、むしろ遠ざけたい対象だった。それがいつの間にか、ただ若いというだけの存在を許容しはじめ、果ては見ほれるようなことにもなってきた。しかし人間は皮肉にできていて、そのただ中にあるときには、おのれの若さには気がつかない。何も感じない。句の「高校生」にしても、むろん同じ感覚だろう。あくまでも気持ちのよい句なのだが、そんなことも同時に思われて、ちょっとセンチメンタルな気分にもさせられてしまった。『日の鳥』(1975)所収。(清水哲男)


October 21102001

 夜の菊や胴のぬくみの座頭金

                           竹中 宏

代劇めかしてはいるけれど、作者はいまの人であるからして、現代の心情を詠んだ句だ。昔もいまも金(かね)に追いつめられた人の心情は共通だから、こういう婉曲表現を採っても、わかる人にはわかるということだろう。「座頭金(ざとうがね)」とは「江戸時代、座頭が幕府の許可を得て高利で貸し付けた金」(『広辞苑』)のこと。どうしても必要な金が工面できずに、ついに高利の金に手を出してしまった。たしかに「胴」巻きのなかには唸るような金があり、それなりの「ぬくみ」はある。これで、当座はしのげる。ひとまずホッと息をついている目に、純白の「夜の菊」が写った。オノレに恥じることなきや。後悔の念なきや。こういうときには、普段ならなんとも思わない花にまで糾弾されているような気になるものだ。ましてや、相手は凛とした「菊」の花だから、たまらない気持ちにさせられる。ここでつまらない私の苦労話を持ち出すつもりはないが、作者が同時期にまた「征旅の朝倒産の昼それらの秋」と詠んでいるのがひどく気にかかる。「征旅(せいりょ)」は、戦いへの旅である。ここで復習しておきたいのは、べつに俳句は事実をそのままに詠むものではないということではあるが、さりとても、さりながら……気にかかる。フィクションであってほしいな。俳誌「翔臨」(第43号・2001)所載。(清水哲男)




『旅』や『風』などのキーワードからも検索できます