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October 26102001

 バス停に小座布団あり神の留守

                           吉岡桂六

語は「神の留守」から「神無月」。陰暦十月の異称で、冬。したがって、まだちょっと早い。八百万の神々が出雲大社に集まるため、諸国の神が留守になる月。これが定説のようだが、雷の無い月だから、とも。句のバス停は作者がいつも利用するそれではなくて、旅先だろうか、とにかくはじめてのバス停だ。バス停のベンチに「小座布団」が置いてあること自体が珍しいので、「ほお」と思った。他にバスを待つ人はおらず、作者一人だ。座布団の色までは書いてないけれど、私の好みのイメージとしては、赤色がふさわしい。ちっちゃくて真っ赤な座布団。なんだか小さな神様のために用意されているようだと作者は感じ、でも、いまは出雲にお出かけだからお使いにはならないのだと微笑している。「神無月」の句には意味あり気な作品が多いなかで、即物的にからっと仕上げた腕前に魅かれた。最近の我が町・三鷹市やお隣の武蔵野市では、小回りの利くカラフルで小さなバスが走り回っている。三鷹駅からジブリ美術館へ行くバスも、黄色くてちっちゃな車体だ。こんなバスにこそ「小座布団」が似合いそうだが、ほとんどの停留所にはベンチも置かれていない。『遠眼鏡』(2001)所収。(清水哲男)


July 0972005

 遠雷や別れを急くにあらねども

                           吉岡桂六

語は「遠雷」で夏、「雷」に分類。喫茶店だろうか。いつしか熱心に話し込んでいるうちに、ふと遠くで雷が鳴っているのに気がついた。表を見ると、それまでは晴れていた空がすっかり暗くなっている。降り出すのも、時間の問題だ。まさか降るとは思わないので、相手も自分も傘を持ってきていない。それからは、お互いに気もそぞろ。話はまだ途中なのだが、遠雷のせいで、心持ちはだんだん中腰になっていく。といって時間はまだ早く、べつに「別れを急(せ)く」必要はないのだけれど、ずぶぬれになるかもしれぬイメージが先行して、なんとなく落ち着かないのだ。よほど親しい間柄なら、止むまでここでねばろうかと腹をくくるところだが、そういう相手でもないのだろう。それに、相手にはこの後の予定があるかもしれない。などと口には出さないが、お互いにお互いの不確かな事情を思いやって、こういうときには結局、どちらからともなくぐずぐずと立ち上がってしまうものだ。話が面白かっただけに、別れた後にしばし残念な気持ちが残る。で、これで夕立が来なかったとなればなおさらに後を引く。誰にでも、そんな経験の一度や二度はあるだろう。そうした日常の地味な人情の機微を、さりげない手つきで巧みに捉えた佳句だ。俳句でないと、この味は出ない。『東歌』(2005)所収。(清水哲男)


October 03102006

 名月や江戸にいくつの潮見坂 

                           吉岡桂六

伏の多い東京には神楽坂、九段坂、道玄坂、と坂の付いた地名が今も多く残る。これらの地名はそれぞれ生活に密着したものだが、富士見坂、江戸見坂、潮見坂などはそこから何が見えるかという眺望によって名付けられた。永井荷風の『日和下駄』に「当代の碩学森鴎外先生の居邸はこの道のほとり、団子坂の頂に出ようとする処にある。二階の欄干に佇むと市中の屋根を越して遥かに海が見えるとやら、然るが故に先生はこの楼を観潮楼と名付けられたのだと私は聞伝えている。(団子坂をば汐見坂という由後に人より聞きたり。)」という一節がある通り、そこから見えるものがそこに暮らす者の誇りであった。富士山を見上げ、海原を眺めて日々を暮らしていた頃には、旅人もまた道中垣間見える海を眺めて心を休めていた。はるかに浮かぶ真帆白帆。現在でも山や月を見上げることはできるが、海を望む場所はもはや高層ビルの展望台に立たない限り無理だろう。しかし潮見坂の文字を思う都度、人が海を恋い慕う気持ちが付けた名なのだとあたたかく思い起こす。十五夜まであと3日。だんだん丸くなってゆく月に、各所の潮見坂から海を眺めた人々の姿を重ねる。『東歌』(2005)所収。(土肥あき子)


June 2362009

 あにいもとわかれわかれよさくらんぼ

                           吉岡桂六

くらんぼは「桜ん坊」。「甘えん坊」や「朝寝坊」などと同様の親しみの接尾語を持つ、唯一の果実である。現実はともかく、イラストでは必ず二つひと組が基本で描かれるというのも、可愛らしく思う気持ちが働いているように思われる。掲句は、二つつながりのさくらんぼの一つを口に入れたとき、仲良しの兄妹を引き裂いてしまったような罪悪感がふっと生まれたのだろう。すべてを平仮名表記にすることで、赤黒いアメリカンチェリーではなく、きらきらと光る清々しい鮮紅色を思わせ、またふっくらした幼い日々を彷彿させる。桜の花がそうであるように、さくらんぼも収穫時には複数個が連なって結実しているが、箱入れの状態で花枝ごとに切り離し、ひと粒ごとにサイズ決定をするという。この作業にも掲句の気持ちが終始よぎっているのではないか。まるで意地悪な継母になったように、兄妹たちをばらばらにしていく。「ヘンゼルとグレーテル」「青い鳥」「白鳥の王子」など、童話で登場する兄と妹は、どれも困難を乗り越える永遠のモチーフであった。『若き月』(2009)所収。(土肥あき子)




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