November 042001
二階からたばこの煙秋のくれ
除 風
この江戸期の無名俳人の作をいまに残したのは、ご存知柴田宵曲(1897-1966)の手柄だ。実に不思議な句で、後を引く。宵曲は「ただ眼前の景である」と言い切っている。平屋がほとんどだった時代だから、二階家というと、普通に商家と思ってよいだろう。だから、「たばこ」をふかしているのは客である。食い物商売か、飲み屋の類か。通りがかりの作者は、ただ二階屋から「たばこの煙」がひっそりと立ちのぼっている様子を見たというだけで、後は何も言っていない。それが「秋のくれ」に似つかわしいと抒情しているのだ。そういうことになる。しかしねえ、宵曲さん。と、稀代の碩学には失礼を承知で申しあげるのですが、通りがかりの二階家の窓から流れ出た煙管煙草の煙が、たそがれ時の往来から見えたりするものでしょうか。それと意識していれば見えるかもしれませんが、作者にその意識があるとは思えないのです。ふかしている人の影でもあるのならばともかく、何気なくふっと見上げた目には、たぶん写らないのではないでしょうか。すなわち、私は実景ではなく、秋の夕暮れの侘しさを詠むための想像句と読んだのでした。あるかなきかのか細い一筋の「たばこの煙」が、この季節の夕暮れにあらまほしき小道具として作者は詠み、それが逆に実景としてのリアリティを保証したのではないのかと。いずれにしても宵曲の言っているように、詠まれたもの以外は他の「消息」を何も伝えていない句だ。そのことが俳句としての不思議を拡大するのであり、そのことが秋の暮れの侘しさの伝統的な根拠を示す要因となっているのだろう。春夏秋冬の日暮れのなかで、いちばん人の気配の薄いのが秋だということを、見えない「けむり」に託した句というのが、私の読み方です。『古句を観る』(1984・岩波文庫)所載。(清水哲男)
『旅』や『風』などのキーワードからも検索できます
|