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November 05112001

 サフランや姉居し頃の蓄音機

                           木村十三

まには、こんな良家風の句もよいものだ。季語は「サフラン」で秋。春に咲くクロッカスと同種だ。花弁の淡紅色に、雄しべの黄色と雌しべの赤との取りあわせが美しい。昼なお仄暗い洋間から、作者は庭の「サフラン」を眺めている。窓の傍らには、姉がいたときと同じところに、もう誰も使わなくなった「蓄音機」がそのまま置いてある。姉がいた頃には、よく大事にしていたレコードを聞かせてもらったっけ。昔と変わらぬ部屋であり、サフランであり、蓄音機であるのだが、もはや昔日のはなやぎがこの部屋に戻ってくることはないだろう。姉を追慕する心は、この家の盛りがとっくに過ぎてしまったことを知っている。むろん、こうした想像は、私の独断的な好みによるものだ。まったく違う想像も可能だ。しかし「姉」と「サフラン」と「蓄音機」と来れば、私の想像も当たらずといえども遠からずではないかと思う。とりわけて、「姉」がいなくなっても処分しきれずに置いてある「蓄音機」というのだから、想像に拍車がかかる。安物ではあるまい。手回し式のものではなくて、いわゆる「電蓄(でんちく)」ではないだろうか。それこそ良家で、何度か聞かせてもらった記憶がある。その大きさ、その仕立てからして、子供心を震撼せしめるような輝きを放っていた。機械のデザインに魅せられた最初が、そのシックな電蓄であった。私がいまパソコンのMacintoshを愛用するわけも、元はといえば、その電蓄の魅力に発している。『俳句の花・下巻』(1997)所載。(清水哲男)


March 1732012

 サフランの二つ咲けども起きて来ず

                           遠藤梧逸

のサフランはハナサフラン、クロッカスのことだろう、昭和四十七年三月十一日の作。並んで〈シャボン玉ふと影消してしまひけり〉があり、その前書には「発病一時間にして空し」と。あまりにあっけなく逝ってしまった妻、呆然とした喪失感に包まれている作者にとって、クロッカス、というどこか弾んだ響きは、この時の心情にはそぐわなかったのだろう。そして、二つ咲けども、はやはり、二つ、なのであり、一つ、では、時間が感じられず、三つ、では長すぎる。『青木の実』(1981)と題されたこの句集、自筆の句と題字が、少しくすんだ柔らかい緑で、実、の一字だけがしっとりとした赤という、素朴だけれど美しい装丁の一冊である。(今井肖子)




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