物書き商売にとっては、もはや年末。虚子の句集を見ても、多くこのころに新年の句を詠んでいる。




2001ソスN11ソスソス10ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

November 10112001

 猟銃が俳人の中通りけり

                           矢島渚男

語は「猟銃」から「狩」につなげて冬。地方や狩る動物の種類によって解禁日は異なるが、十一月が多いと聞く。私の田舎でも、農閑期に入ったこれからが猟期である。あちこちの山から、発射音が聞こえてくる。さて掲句は、吟行で訪れた山道で猟銃を背負った男とすれ違った光景を詠んでいる。場所は、作者の暮らす信州だろう。同じ山道を歩いてはいても、俳人の目的と猟人のそれとでは大いに異なる。作者はそのことを斟酌して、猟師とすれ違ったとは言わずに、「猟銃」が俳人仲間の中をぬうっと通っていったと言っている。こういうときには、お互いに違和感を感じるものだ。作者を除けば、多くは他所者の「俳人」たちからすると、土地の猟師が通っていくのだから、自然にぬうっと見えるのも道理だけれど、一方で土地の男にしてみると、そんな気持ちではあるまい。いつもの山道に見知らぬ都会モンが群れているだけで、その間をすり抜けるのは照れ臭い気がする。だから下うつむくようにして、鉄砲をことさらに肩に揺すり上げ、足早に通り過ぎようとした。大げさに言えば、この場面は互いの文化の衝突なのだ。作者は若き日を東京で暮らし、故郷信州に戻って長く住む人ゆえに、このあたりの両者の心理的な機微は心得ている。その片方から見れば、この句のようになるけれど……。というわけだが、わざわざ仲間を突き放すようにして「俳人」と詠んだのは、すれ違ったときに、非常に親しいはずの「俳人」よりも、そして自分も「俳人」なのに、見知らぬ地元の猟師のほうに、ふっと親近感を覚えてしまったからに違いない。地元の人間同士の気持ちは、たとえ顔見知りではなくとも、このように微妙に通いあうものである。『梟のうた』(1995)所収。(清水哲男)


November 09112001

 石炭にシャベル突つ立つ少女の死

                           西東三鬼

語は「石炭」で冬。幼い死である。何故、どのようなことから「少女」が死んだのかはわからない。わからないが、作者の口吻には、幼い命を奪い去ったものへのいきどおりが感じられる。こんな理不尽な死が、あってよいものか。これでは、神も仏もないではないか。その暗澹たる怒りの念が、黒々とした「石炭」の山に「突つ立つ」一本の「シャベル」に集約されている。ここで「シャベル」は、作者の力いっぱいの怒りの具象化だ。作者は、寒い夜の通夜の客だろう。となれば、積み上げられた「石炭」は、一晩中燃やしつづけるストーブのために準備されたものだ。明るかった少女との思い出が、漆黒の「石炭」の山と対比されることで、作者の悲しみと怒りが爆発しそうに鮮やかである。単なる追悼句を越えて、掲句は人間の愛の深さを浮き彫りにしている。私が子供だった頃には、まだ「石炭」は家庭でも使われていた。それが中東での大油田の発見により、安い石油に押しまくられて姿を消していくのが、戦後のエネルギー交替の歴史である。1997年(平成9年)3月には、国内最大の炭鉱であった三池炭鉱(福岡)の閉山により、太平洋炭礦(釧路)、松島炭鉱(長崎)の二つの炭鉱を残すのみとなり、そしてこの松島炭坑もさきごろ閉山が決まった。「みんな仲間だ、炭掘る仲間」と、かつての三池炭鉱労働者の力強い歌声が、寂しく思い出される。『新版・俳句歳時記』(2001・雄山閣出版)所載。(清水哲男)


November 08112001

 上下線ともに不通ぞ夜鳴蕎麦

                           後藤一之

、屋台を引いて売り歩く蕎麦(そば)。昔の関西には「饂飩(うどん)」の屋台が多かったという。現代では、東西ともに「ラーメン」が主流だろう。駅に着いてみると、事故があって「上下線ともに不通」である。東京あたりでは、しばしばこんな羽目におちいる。とくに、どういうわけか人身事故の多い中央線では……。いつ動き始めるのかわからない電車を、構内で待つのはわびしいものだ。腹も減ってくる。こういうときに「しめたっ」と、帰宅が遅くなる口実を引っつかんで飲み屋を探したのは、若き日の私だ。が、たいていのサラリーマンは、とりあえず駅の近くで商っている「夜鳴蕎麦」でも食って待とうかと、真面目である。そんな客ばかりが、お互いに肩寄せ合って「蕎麦」を啜る図は、これまたわびしくもあり、情けなくもあり……。どうという句でもないけれど、思い当たる読者は多いだろう。この思い当たるところが、俳句の味だ。いや、味噌だ。掲句に比べると、つとに名句の誉れ高いのが山口青邨の「みちのくの雪降る町の夜鷹蕎麦」である。たしかに見事な絵にはなっているけれど、審美的に過ぎて、少なくとも掲句よりはよほど「蕎麦」の味が希薄である。『新日本大歳時記・冬』(1999)所載。(清水哲男)




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