獅子座流星群。三鷹天文台の少数予測は外れたようですね。でも、こういう予測外れは結構結構。




2001ソスN11ソスソス19ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

November 19112001

 自動車のとまりしところ冬の山

                           高野素十

だ「クルマ社会」ではなかった頃の句。「自動車」という表現から、そのことが知れる。これは作者が乗っている「自動車」ともとれるし、それなりに句は成立するが、私は乗っていないほうが面白いと感じた。さて、バスやトラックではなくて、いわゆる乗用車が田舎道を走ってくることなどは滅多になかった時代である。走ってくればエンジン音がするし、いやでも「何事だろう」と村中が好奇の目を注ぐことになる。みんなが、どこの家の前でとまるのかと、じいっと眺めている。同じように作者も目で追っていると、点在する人家を遠く離れたところでやっととまった。はて、不思議なこともあるものよ。人の降りてくる気配もないし、なかなか発車もしない。しんと寝静まったような小さな「冬の山」の前に、ぽつんとある一台の黒い「自動車」は奇怪だ。好奇心はいつしか消えて、だんだん光景が寒々しい一枚の絵のように見えてくる。見慣れた自然のなかに、すっと差し込まれた都会的な異物が、ことさらにそう感じさせるのだ。昔の乗用車はたいてい黒色で塗ってあったから、この山がすっかり冠雪しているとなると、ますます寒々しい光景となる。子供の頃、近くを「自動車」が通りかかると、走って追いかけたのが私の世代だ。そんな世代には、懐かしくてふるいつきたいような寒々しさでもある。『雪片』(1952)所収。(清水哲男)


November 18112001

 褞袍着てなんや子分のゐる心地

                           大住日呂姿

語は「褞袍(どてら)」で冬。関西では「丹前(たんぜん)」と呼ぶのが普通だから、うるさいことを言えば「なんや」という関西弁にはそぐわないが、ま、いいや。この冬、はじめて褞袍を着たのか、それとも旅館で褞袍に身を包んだのか。いずれにしても面白いもので、慣れない衣裳を着ると、気分は大いに変わる。褞袍に慣れきった人だと「昼の淋しさどてら着て顔を剃らせる」(荻原井泉水)のように淡々としたものだが、作者は急に大きな褞袍を着たものだから、気分までもが昂揚して大きくなった。こうやって胡座をかいていると、ヤクザ映画のように、いまにも「子分」が頭を低くして部屋に入ってきそうだと言うのだろう。滑稽、滑稽。しかし、本人は一瞬大真面目。褞袍ではないが、私にも、いろいろと思い当たることがある。句の関連で言えば、若い頃にはじめて、たわむれに友人のを借りてサングラスをかけたときのことだ。どれどれとどこぞの店のウィンドウに写してみたら、そこに写ったのは、まぎれもい街のあんちゃん「チンピラ」風なのであった。で、それが気に入って新しいのを買ったのだから、よほどの「子分」好き体質だ。なんでなんやろか。そんなことも思い出して、余計に可笑しかった。『埒中埒外』(2001)所収。(清水哲男)


November 17112001

 焚火爆ズ中ニ軍律読ミ上ゲシ

                           新海あぐり

語は「焚火(たきび)」で冬。いまはダイオキシンが何とやらで、焚火もままならない。イヤな世の中です。ところで、こういう句に私は弱い。いざ、出陣である。火は人の闘争心を掻きたてる。寒いからだけではなくて、ばんばんと火勢を強めることで士気が鼓舞される。だんだん、みんなの目がギラギラしてくる。そこでやおら首領格が、しずかに諭すように「軍律(ぐんりつ)」を読み上げる。戦闘に際しての心構えは簡単にすませ、後は戦いに無関係な者への配慮であるとか、裏切り者への対処法であるとかと、かつての中国赤軍もかくやと思わせるような「仁義」が諄々と説かれていくのだ。焚火が爆ぜてむせ返るのだが、寂として声無し。そのうちに、闘争心は次第に冷たくも逆上する青い炎のように変化していく。落ち着いてくる。「秩父困民党」に取材した連作の一句であるが、片仮名を使って(「軍律」表記に通じて)、見事に蹶起する直前の農民の雰囲気を写している。かつての私も、身をもって似たような場面にいたことがある。このことについて知る人は少ないと思っていたら、ずっと後になって、長崎浩が「日本読書新聞」に書いた「評価」を読むことになった。でも、焚火は暢気なほうがよいに決まっている。♪たき火だ たき火だ おちばたき。巽聖歌の詩のほうが、天と地ほどによいに決まっている。作曲者の渡辺茂は、娘が小学生のときの先生だった。お元気でしょうか。『悲しみの庭』(2001)所収。(清水哲男)




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