寺原はすんなりダイエー入りだろう。それでいいのさ。巨人が獲ったらプロ野球は終わりだった。




2001ソスN11ソスソス20ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

November 20112001

 ねむさうにむけるみかんが匂ふなり

                           長谷川春草

れからは、炬燵(こたつ)で蜜柑の季節。句の「みかん」は、いかにももぎたてで新鮮といった感じの蜜柑ではなく、買ってきて少々日数を経た「みかん」だろう。ちょっと皮がくたびれてきているので、なるほど、しなしなと「ねむさうにむける」のである。平仮名表記がそんな皮の状態につり合っていて、実に的確だ。で、「ねむさうに」むけていくうちに、思いもかけないほどの新鮮な芳香が立ちのぼってきたのだった。This is THE MIKAN. と、作者は感に入っている。私に蜜柑の種類などの知識は皆無だが、食べるときは句のような「ねむさうにむける」もののほうが好きだ。贈答用に使う立派な姿のものよりも、八百屋でも雑の部類に入る「ヒトヤマなんぼ」のちっぽけな蜜柑ども。そのほうが、甘味も濃いようである。食べ方にもいろいろあって、むいた後の実に付いている、あれは何と言うのか、白い部分をていねいに取り除かないと気のすまない人がいる。どんなに小さい蜜柑でも、房をひとつひとつ切り離してから食べる人もいる。私は無造作に幾房かをまとめて口に放り込んでしまうが、そういう人たちはまた、魚料理なども見事にきれいに食べるのである。なお、掲句は田中裕明・森賀まり『癒しの一句』(2000・ふらんす堂)に引用句として掲載されていたもの。(清水哲男)


November 19112001

 自動車のとまりしところ冬の山

                           高野素十

だ「クルマ社会」ではなかった頃の句。「自動車」という表現から、そのことが知れる。これは作者が乗っている「自動車」ともとれるし、それなりに句は成立するが、私は乗っていないほうが面白いと感じた。さて、バスやトラックではなくて、いわゆる乗用車が田舎道を走ってくることなどは滅多になかった時代である。走ってくればエンジン音がするし、いやでも「何事だろう」と村中が好奇の目を注ぐことになる。みんなが、どこの家の前でとまるのかと、じいっと眺めている。同じように作者も目で追っていると、点在する人家を遠く離れたところでやっととまった。はて、不思議なこともあるものよ。人の降りてくる気配もないし、なかなか発車もしない。しんと寝静まったような小さな「冬の山」の前に、ぽつんとある一台の黒い「自動車」は奇怪だ。好奇心はいつしか消えて、だんだん光景が寒々しい一枚の絵のように見えてくる。見慣れた自然のなかに、すっと差し込まれた都会的な異物が、ことさらにそう感じさせるのだ。昔の乗用車はたいてい黒色で塗ってあったから、この山がすっかり冠雪しているとなると、ますます寒々しい光景となる。子供の頃、近くを「自動車」が通りかかると、走って追いかけたのが私の世代だ。そんな世代には、懐かしくてふるいつきたいような寒々しさでもある。『雪片』(1952)所収。(清水哲男)


November 18112001

 褞袍着てなんや子分のゐる心地

                           大住日呂姿

語は「褞袍(どてら)」で冬。関西では「丹前(たんぜん)」と呼ぶのが普通だから、うるさいことを言えば「なんや」という関西弁にはそぐわないが、ま、いいや。この冬、はじめて褞袍を着たのか、それとも旅館で褞袍に身を包んだのか。いずれにしても面白いもので、慣れない衣裳を着ると、気分は大いに変わる。褞袍に慣れきった人だと「昼の淋しさどてら着て顔を剃らせる」(荻原井泉水)のように淡々としたものだが、作者は急に大きな褞袍を着たものだから、気分までもが昂揚して大きくなった。こうやって胡座をかいていると、ヤクザ映画のように、いまにも「子分」が頭を低くして部屋に入ってきそうだと言うのだろう。滑稽、滑稽。しかし、本人は一瞬大真面目。褞袍ではないが、私にも、いろいろと思い当たることがある。句の関連で言えば、若い頃にはじめて、たわむれに友人のを借りてサングラスをかけたときのことだ。どれどれとどこぞの店のウィンドウに写してみたら、そこに写ったのは、まぎれもい街のあんちゃん「チンピラ」風なのであった。で、それが気に入って新しいのを買ったのだから、よほどの「子分」好き体質だ。なんでなんやろか。そんなことも思い出して、余計に可笑しかった。『埒中埒外』(2001)所収。(清水哲男)




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