久しぶりの二連休。原稿は一本あるけれど、自宅にいられる。来月用の看板でも塗り替えようかな。




2001ソスN11ソスソス24ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

November 24112001

 薮巻やこどものこゑの裏山に

                           星野麥丘人

語は「薮巻(やぶまき)」で冬。雪折れを防ぐために、竹や樹木を筵(むしろ)などで包み、縄でぐるぐる巻きにしたもの。といっても、霜よけとか雪吊りのようにしっかりしたものではない。江戸期雪国のドキュメンタリー・鈴木牧之『北越雪譜』に、こうある。「庭樹は大小に随ひ、枝の曲ぐるべきは曲げて縛りつけ、椙(すぎ)丸太または竹を添へ杖となして、枝を強からしむ。雪折れを厭へばなり。冬草の類は菰筵をもつて覆ひ包む」。作者は、そんな作業をしているのか。あるいは、すっかり作業が終わった庭を眺めているのか。雪の来る日も間近い寒い季節だというのに、裏山からは元気に遊ぶ子供の声が聞こえてくる。その子供はまた昔の私でもあったわけだが、いまや寒空の下で駆け回る気力はない。「薮巻」を施された竹や樹のように、縮こまってこの冬を生きていくだろう。平仮名表記の「こどものこゑ」という柔らかさが、固く身を縮めた「薮巻」の風情と対照的で、よく効いている。裏山から子供らの声が、いまにも聞こえてきそうだ。それにしても、最近は「子供は風の子」という言葉を耳にしなくなった。いまの子供たちが将来この句を読んだとしても、句味がわからないかもしれない。『合本俳句歳時記・第三版』(1997・角川書店)所載。(清水哲男)


November 23112001

 裂き燃やす絵本花咲爺冬

                           三橋敏雄

火だろう。落葉焚きだけが焚火ではない。昔は、不要になったガラクタ類は裏庭などで燃やして処分した。ゴミの収集車が回ってきたのは、都会のごく一部でのことだ。作者はいま、子供が大きくなって振り向きもしなくなった本などを燃やしている。本をそのまま火の中に投げ込むと、なかなかうまく燃えてくれない。いつまでも、原形のままにくすぶりつづける。だから「裂き燃やす」必要があるのだ。が、どんな本であれ裂くのは辛い。よほど心を鬼にしないと、裂いたり破ったりすることはできない。ましてや「絵本」には、子供が幼かったころの思い出が染みついている。記念のアルバムを裂いて燃やすような心持ちだ。裂いた途端に、痛いものが胸を走り抜けただろう。「花咲爺」の絵本の表紙は、爺さんが桜の木の上で満面に笑みをたたえて灰をまいている絵に決まっている。そんな春爛漫の絵を思い切って裂き、火中にくべる。笑顔の爺さんは見るも無残に焼けていき、そして灰になっていく。そして作者は、この絵本の灰が、決して爺さんの灰のように奇跡を起こすことはないことを知っている。最後に唐突にぽつんと置かれた「冬」が、作者の胸のうちの荒涼たる思いを集約して、よく読者に伝えている。『まぼろしの鱶』(1966)所収。(清水哲男)


November 22112001

 短日や盗化粧のタイピスト

                           日野草城

語は「短日」で冬。もう七十年も前の昭和初期の職場風景だ。このころの草城は、大阪海上火災保険に勤めていた。当時のタイピストは専門職として貴重であり、いわばキャリアウーマンの先駆け的存在だった。しかし、なにしろ昔は男社会だ。オフィスで働く女性も少なく、しかも男どもに互して働いたのだから、しっかりした気丈な女性像が浮かんでくる。あまり化粧っ気もなく、服装も地味だったろう。そんな女性が、仕事の合間に素早く「盗化粧(ぬすみげしょう)」をするのを、作者は偶然に見てしまった。つまり、タイピストに「女」を見てしまった。日暮れも近く、退社時間ももうすぐだ。会社が退けたら、誰かに会いに行くのだろうか。一瞬そんな詮索心もわきかけたが、ちょっと首をふって、作者も自分の仕事に戻った……。文字通りの事務的な雰囲気のなかで、瞬間「人間の生々しさ」が明滅したシーンを定着させたところに、作者の手柄がある。余計なことながら、国内の保険会社という仕事柄、女性が操作していたのは和文タイプではなかったろうか。となると、当時の最先端を行く事務機器だ。和文タイプの発明は大正期のことであり、それまでは銀行などでも、帳簿への記入はすべて筆書きだった。小林一三が、回想録に書いていたのを読んだことがある。室生幸太郎編『日野草城句集』(2001)所収。(清水哲男)




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