戦後の立川市を走る外車を撮ってた人がいた。朝日地方版で紹介されていたが、切ない記録だなあ。




2001ソスN11ソスソス25ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

November 25112001

 落葉してつばめグリルのフォークたち

                           大隅優子

式ばったレストランとは違って、庶民的な雰囲気のあるのが「グリル」だろう。銀座に本店のある「つばめグリル」は、創業70年を越えたという。ま、「洋食屋さん」ですね。メニューには「ハンブルグステーキ」なんて書いてある。句の様子からして本店でないことはわかるが、どこの店だろうか。窓外では「落葉」しきり、卓上には「フォークたち」、すなわちフォークとスプーンとナイフが、小さな篭状の入れ物のなかで、静かに銀色の輝きを湛えている。これらをまとめて「フォークたち」と詠んだのは、フォークが「つばめ」の羽根を連想させたからだろう。スプーンやナイフでは、とても「つばめ」のようには飛びそうもない。「落葉」の季節に「つばめ」を感じる……。他愛ない連想といえばそれまでだけれど、注文した料理を待っている間に、ふっとそんなことを空想できる作者の感受性がほほ笑ましい。よいセンスだ。作者は二十代。「つばめグリル」といえば十数年も前の新宿店で、友人四人とたわむれに約束したことがあった。十年後の同じ日に、おたがいがどんな境遇にあるとしても、生きていたら四人でここで会おう、と。が、十年後の当日近くになり、私は当時買いたてのMacに記憶させていたので思い出したのだが、あとの三人は覚えていなかった。もう、それぞれにすっかり疎遠になっていた。会わなかった。掲句を読んで、懐かしくも思い出された「つばめグリル」である。「俳句」(2001年12月号)所載。(清水哲男)


November 24112001

 薮巻やこどものこゑの裏山に

                           星野麥丘人

語は「薮巻(やぶまき)」で冬。雪折れを防ぐために、竹や樹木を筵(むしろ)などで包み、縄でぐるぐる巻きにしたもの。といっても、霜よけとか雪吊りのようにしっかりしたものではない。江戸期雪国のドキュメンタリー・鈴木牧之『北越雪譜』に、こうある。「庭樹は大小に随ひ、枝の曲ぐるべきは曲げて縛りつけ、椙(すぎ)丸太または竹を添へ杖となして、枝を強からしむ。雪折れを厭へばなり。冬草の類は菰筵をもつて覆ひ包む」。作者は、そんな作業をしているのか。あるいは、すっかり作業が終わった庭を眺めているのか。雪の来る日も間近い寒い季節だというのに、裏山からは元気に遊ぶ子供の声が聞こえてくる。その子供はまた昔の私でもあったわけだが、いまや寒空の下で駆け回る気力はない。「薮巻」を施された竹や樹のように、縮こまってこの冬を生きていくだろう。平仮名表記の「こどものこゑ」という柔らかさが、固く身を縮めた「薮巻」の風情と対照的で、よく効いている。裏山から子供らの声が、いまにも聞こえてきそうだ。それにしても、最近は「子供は風の子」という言葉を耳にしなくなった。いまの子供たちが将来この句を読んだとしても、句味がわからないかもしれない。『合本俳句歳時記・第三版』(1997・角川書店)所載。(清水哲男)


November 23112001

 裂き燃やす絵本花咲爺冬

                           三橋敏雄

火だろう。落葉焚きだけが焚火ではない。昔は、不要になったガラクタ類は裏庭などで燃やして処分した。ゴミの収集車が回ってきたのは、都会のごく一部でのことだ。作者はいま、子供が大きくなって振り向きもしなくなった本などを燃やしている。本をそのまま火の中に投げ込むと、なかなかうまく燃えてくれない。いつまでも、原形のままにくすぶりつづける。だから「裂き燃やす」必要があるのだ。が、どんな本であれ裂くのは辛い。よほど心を鬼にしないと、裂いたり破ったりすることはできない。ましてや「絵本」には、子供が幼かったころの思い出が染みついている。記念のアルバムを裂いて燃やすような心持ちだ。裂いた途端に、痛いものが胸を走り抜けただろう。「花咲爺」の絵本の表紙は、爺さんが桜の木の上で満面に笑みをたたえて灰をまいている絵に決まっている。そんな春爛漫の絵を思い切って裂き、火中にくべる。笑顔の爺さんは見るも無残に焼けていき、そして灰になっていく。そして作者は、この絵本の灰が、決して爺さんの灰のように奇跡を起こすことはないことを知っている。最後に唐突にぽつんと置かれた「冬」が、作者の胸のうちの荒涼たる思いを集約して、よく読者に伝えている。『まぼろしの鱶』(1966)所収。(清水哲男)




『旅』や『風』などのキーワードからも検索できます