年内原稿仕事九割終了。来月半ばで全て終了予定。さあ遊び友達が待っている。で、本日も原稿書き。




2001ソスN11ソスソス26ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

November 26112001

 人類の旬の土偶のおっぱいよ

                           池田澄子

い句ですね。無季ではあるけれど、この時代のいまの冬の季節にこそ、輝きを放つ句だと読める。テロ事件、報復戦争、それに加えて以前からの慢性的な不況、それに伴う失業者の増加。さらには陰惨な犯罪の多発など、どれをとっても、いまが人類の盛りなどとは、とうてい誰も思うまい。このときに「人類の旬(しゅん)」とはいつごろだったろうかと思い巡らすのは、自然な心の成り行きだろう。作者はそれを「土偶」の姿から縄文期に見たのであり、言われてみればそうかもしれないと納得できる。数多く出土しているこの泥人形たちの多くは、女性像である。それこそ「おっぱい」があるのでわかるわけだが、ではなぜ女性像なのかについては諸説があるようだ。が、なかでほぼ共通して見える解釈に呪術性との関連があり、これには素直にうなずけた。縄文人にだって知識も教養もあったが、男はもちろん当の女性にしてからが、妊娠出産の不思議さには呆然としていたに違いないからだ。妊娠姿の「土偶」もある。畏れの念がわくのも、ごく自然のことだったろう。で、女性像を人形に作るにあたってのいちばんの留意点は、誰が見ても女性とわかるところにあったはずだ。すなわち、女性の女性たる所以を形にすることである。それが「おっぱい」だった。初期の人形には、顔も手足もない。省略されたのではなく、女性を表現するのに、そんなものは必要がなかったからだろう。憶測にはなるが、縄文人には女性らしい顔つきや手足、さらには物腰などという物差しが無かったのだと思う。作者の言うように、女性像を乳房に集約できた時代は、たしかに「人類の旬」と言ってもよいのではあるまいか。「土偶のおっぱい」は、なるほど実に凛乎として見える。「俳句研究」(2001年12月号)所載。(清水哲男)


November 25112001

 落葉してつばめグリルのフォークたち

                           大隅優子

式ばったレストランとは違って、庶民的な雰囲気のあるのが「グリル」だろう。銀座に本店のある「つばめグリル」は、創業70年を越えたという。ま、「洋食屋さん」ですね。メニューには「ハンブルグステーキ」なんて書いてある。句の様子からして本店でないことはわかるが、どこの店だろうか。窓外では「落葉」しきり、卓上には「フォークたち」、すなわちフォークとスプーンとナイフが、小さな篭状の入れ物のなかで、静かに銀色の輝きを湛えている。これらをまとめて「フォークたち」と詠んだのは、フォークが「つばめ」の羽根を連想させたからだろう。スプーンやナイフでは、とても「つばめ」のようには飛びそうもない。「落葉」の季節に「つばめ」を感じる……。他愛ない連想といえばそれまでだけれど、注文した料理を待っている間に、ふっとそんなことを空想できる作者の感受性がほほ笑ましい。よいセンスだ。作者は二十代。「つばめグリル」といえば十数年も前の新宿店で、友人四人とたわむれに約束したことがあった。十年後の同じ日に、おたがいがどんな境遇にあるとしても、生きていたら四人でここで会おう、と。が、十年後の当日近くになり、私は当時買いたてのMacに記憶させていたので思い出したのだが、あとの三人は覚えていなかった。もう、それぞれにすっかり疎遠になっていた。会わなかった。掲句を読んで、懐かしくも思い出された「つばめグリル」である。「俳句」(2001年12月号)所載。(清水哲男)


November 24112001

 薮巻やこどものこゑの裏山に

                           星野麥丘人

語は「薮巻(やぶまき)」で冬。雪折れを防ぐために、竹や樹木を筵(むしろ)などで包み、縄でぐるぐる巻きにしたもの。といっても、霜よけとか雪吊りのようにしっかりしたものではない。江戸期雪国のドキュメンタリー・鈴木牧之『北越雪譜』に、こうある。「庭樹は大小に随ひ、枝の曲ぐるべきは曲げて縛りつけ、椙(すぎ)丸太または竹を添へ杖となして、枝を強からしむ。雪折れを厭へばなり。冬草の類は菰筵をもつて覆ひ包む」。作者は、そんな作業をしているのか。あるいは、すっかり作業が終わった庭を眺めているのか。雪の来る日も間近い寒い季節だというのに、裏山からは元気に遊ぶ子供の声が聞こえてくる。その子供はまた昔の私でもあったわけだが、いまや寒空の下で駆け回る気力はない。「薮巻」を施された竹や樹のように、縮こまってこの冬を生きていくだろう。平仮名表記の「こどものこゑ」という柔らかさが、固く身を縮めた「薮巻」の風情と対照的で、よく効いている。裏山から子供らの声が、いまにも聞こえてきそうだ。それにしても、最近は「子供は風の子」という言葉を耳にしなくなった。いまの子供たちが将来この句を読んだとしても、句味がわからないかもしれない。『合本俳句歳時記・第三版』(1997・角川書店)所載。(清水哲男)




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