宮崎勇『べえべえ言葉考』。「べえべえ」は都下多摩地方の方言。縄文期には既にあったんべえと。




2001ソスN11ソスソス29ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

November 29112001

 長き夜やあなおもしろの腹話術

                           中村哮夫

語は「長き夜(夜長)」。実際に夜が最も長いのは冬至のころだが、季語としては秋に分類されている。夏の短夜の後なので、めっきり夜が長くなったと感じられる気分を尊重した分類だ。さて、掲句は寄席かキャバレーか、あるいは何かの集いでの即吟だろう。「腹話術」を、心底楽しいと賛嘆している。「長き夜」を過ごすには、絶好の芸ではないかと……。私はへそ曲がりだから、べつに「腹話術」じゃなくたって、落語もあれば漫才もあるだろうにと思い、句のどこに「腹話術」の必然性があるのかと真意を訝った。しばらく考えての結論は、こうだ。「腹話術」一般は、技術的には簡単な芸に属する。人形を操るのは難しいが、少しくらいなら「術」は誰にでもできる。できるから、仕組みを知っているから、見るときには誰もがちらちらと腹話術師の口元に注目し、意地悪くも失敗のかけらを見定めようとする。手品師を見るのと、同じ目つきになる。そこで作者が言うのは、そんなふうにして見るのは楽しくないじゃないか、「腹話術」には子供のように不思議だなあと思ってこその楽しさがある。どうせ、「長き夜」なのだ。演者のあら探しなんぞにかまけるよりも、ゆったりと騙されているほうがよほど心地よい。そんな気持ちになると、ほんとうに「あなおもしろし」ですぞ。と、これはベテラン演出家である作者の「芸を楽しむ心得第一条」のような句だと思えてくる。『中村嵐楓子句集』(2001)所収。(清水哲男)


November 28112001

 路上に蜜柑轢かれて今日をつつがなし

                           原子公平

刻。車に轢(ひ)かれた「蜜柑」が、路上にぐしゃりと貼り付いていた。飛び散った果汁の黒いしみも、見えている。そこで作者は今日の自分を「つつがなし」、何事もなく無事でよかったと感じたというのである。健康な人であれば、日常が「つつがなく」過ぎていくのが普通のことだから、毎日その日を振り返って「つつがなし」と安心したりはしない。ただ、こんな場面に偶然に出くわすと、あらためて我が身の息災を思うことはある。そういうことを、寸感として述べた句だろう。しかし、もしも轢かれているのが猫や犬だったとしたら、こうはいくまい。作者は自分の息災を思うよりも前に、同じ動物として、轢死した猫や犬の痛みを我が身に引き込んでしまうからだ。ああ、あんなふうにならなくてよかった。とは、とても思えないし、思わない。掲句を眺めていると、自然にそういう思いにもとらわれてしまう。それと「つつがなし」という思いは、絶対的な根拠からではなく、相対的な視点から出てくることがよくわかる。もとより、作者はそんなことを言っているわけではないのだが、そういうことも思わせてしまうところが、俳句の俳句たる所以の一つであろうか。読者諸兄姉には、本日も「つつがなく」あられますように。『海は恋人』(1987)所収。(清水哲男)


November 27112001

 なが性の炭うつくしくならべつぐ

                           長谷川素逝

事をするにつけても、人の「性(さが)」は表われる。手際の良し悪し、上手か下手かも表われる。「炭」をつぐ行為などは、その最たるものの一つだった。でも、機器にスイッチを入れるだけの現代の暮らしの中にだって、その気になって観察すれば「性」の表われは認められる。ただ昔の生活では「炭」つぎのように、本来の目的に至るまでのプロセスが露(あらわ)にならざるを得なかったときには、そこに美学の発生しやすい環境があった。「なが」は「汝が」であり、女性を指している。妻だろう。連れ添ってこのかた、いつも冬になると、炭を「うつくしくならべつぐ」妻に感心している。しかし、どうかすると、あまりにも「うつくしくならべ」すぎるのではないのかと、彼女の神経質なところが気にもなっている。むしろ無造作を好む私には、そんな作者の微妙な心の揺れ、複雑なニュアンスが感じられる。讃めているだけではないような気がする。だからことさらに「性」と言い、きちょうめんな妻の性質や気質を強調しているのではあるまいか。私は、乱雑に炭がつがれていく状態のほうが好きだ。見た目にも暖かさが感じられるし、実際にもそのほうが炭と炭との間に空気が入り込むからよく熾(おこ)るので、暖かい理屈だ。もっとも、家計を考えれば熾りすぎるので不経済きわまりない。寒くなりはじめると、途端に炭の値段が上がった。そこで、良妻としては「うつくしくならべつぐ」ことにより、節約をしているのかもしれない。ま、これはあながち冗談とも言えない話なのだが、掲句の女性の場合には、そこまで考えての行為ではないと素直に受け取っておこう。そうでないと、せっかくの句が壊れてしまう。『新歳時記・冬』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)




『旅』や『風』などのキーワードからも検索できます