明日から師走。ここの看板は塗り替えて乾かしてあります。でも、肝心の句がまだだ。走らねば。




2001ソスN11ソスソス30ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

November 30112001

 しかるべく煮えて独りの牡丹鍋

                           飯島晴子

語は「牡丹鍋(ぼたんなべ)」で冬。「猪鍋(ししなべ)」とも言い、猪の肉と野菜を煮込む味噌仕立ての鍋料理だ。これを「牡丹鍋」と言うのは、「牡丹に唐獅子」の「獅子」の発音に引っかけてある。まるで判じ物だ。さて、私にも覚えがあるが、独りで食べる鍋料理ほど侘(わび)しいものは、めったにあるものではない。何人かで、にぎやかに食べてこその鍋物である。そもそも鍋料理の発想が、そのことを前提としている。すなわち、鍋を囲む人たちも御馳走のうちというわけだ。それを、これから作者は独りで食べようとしている。鍋を据えたとたんから、もう侘しさを感じはじめていただろう。そこで句の勝負どころは、誰もが感じるこうした独りの侘しさを、いかに独自の発想でまとめあげるかということになる。「独りの牡丹鍋」と言うだけで、侘しい気分は十二分に露出してしまう。追い討ちをかけるように、それこそ「侘しい」などという言葉を折り込んだら、煮えすぎた鍋のように食えたものではあるまい。で、苦吟一番、「しかるべく」とひねりだした。周囲に誰もいなくても、煮えてくる状態は、みんなで囲んでいるときと同じであると……。いつもと同じ鍋の活気を詠むことで、対照的に作者の侘しい気持ちが句に極まった。『寒晴』(1990)所収。(清水哲男)


November 29112001

 長き夜やあなおもしろの腹話術

                           中村哮夫

語は「長き夜(夜長)」。実際に夜が最も長いのは冬至のころだが、季語としては秋に分類されている。夏の短夜の後なので、めっきり夜が長くなったと感じられる気分を尊重した分類だ。さて、掲句は寄席かキャバレーか、あるいは何かの集いでの即吟だろう。「腹話術」を、心底楽しいと賛嘆している。「長き夜」を過ごすには、絶好の芸ではないかと……。私はへそ曲がりだから、べつに「腹話術」じゃなくたって、落語もあれば漫才もあるだろうにと思い、句のどこに「腹話術」の必然性があるのかと真意を訝った。しばらく考えての結論は、こうだ。「腹話術」一般は、技術的には簡単な芸に属する。人形を操るのは難しいが、少しくらいなら「術」は誰にでもできる。できるから、仕組みを知っているから、見るときには誰もがちらちらと腹話術師の口元に注目し、意地悪くも失敗のかけらを見定めようとする。手品師を見るのと、同じ目つきになる。そこで作者が言うのは、そんなふうにして見るのは楽しくないじゃないか、「腹話術」には子供のように不思議だなあと思ってこその楽しさがある。どうせ、「長き夜」なのだ。演者のあら探しなんぞにかまけるよりも、ゆったりと騙されているほうがよほど心地よい。そんな気持ちになると、ほんとうに「あなおもしろし」ですぞ。と、これはベテラン演出家である作者の「芸を楽しむ心得第一条」のような句だと思えてくる。『中村嵐楓子句集』(2001)所収。(清水哲男)


November 28112001

 路上に蜜柑轢かれて今日をつつがなし

                           原子公平

刻。車に轢(ひ)かれた「蜜柑」が、路上にぐしゃりと貼り付いていた。飛び散った果汁の黒いしみも、見えている。そこで作者は今日の自分を「つつがなし」、何事もなく無事でよかったと感じたというのである。健康な人であれば、日常が「つつがなく」過ぎていくのが普通のことだから、毎日その日を振り返って「つつがなし」と安心したりはしない。ただ、こんな場面に偶然に出くわすと、あらためて我が身の息災を思うことはある。そういうことを、寸感として述べた句だろう。しかし、もしも轢かれているのが猫や犬だったとしたら、こうはいくまい。作者は自分の息災を思うよりも前に、同じ動物として、轢死した猫や犬の痛みを我が身に引き込んでしまうからだ。ああ、あんなふうにならなくてよかった。とは、とても思えないし、思わない。掲句を眺めていると、自然にそういう思いにもとらわれてしまう。それと「つつがなし」という思いは、絶対的な根拠からではなく、相対的な視点から出てくることがよくわかる。もとより、作者はそんなことを言っているわけではないのだが、そういうことも思わせてしまうところが、俳句の俳句たる所以の一つであろうか。読者諸兄姉には、本日も「つつがなく」あられますように。『海は恋人』(1987)所収。(清水哲男)




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