December 012001
病院へゆく素手さげて十二月
石原舟月
句を読んではっと気づかされるのは、ふだんの月とは違い、十二月はたしかに手に荷物を提げることの多い月ということだ。とくに月の後半ともなれば、なにやかやと両手に提げて歩くことになる。しかし、これは健康者の日常だ。作者は「病院にゆく」だけなのだから、いつものように何も提げていく必要はない。そんな病者の目には、行き交う人の荷物を提げている姿が、ことのほか鮮やかに見えるのである。俺が提げているのは「素手(すで)」でしかないと、あらためて師走の風に病身の切なさを思っている。「素手さげて」という措辞が、言外に街ゆく人のありようを描き出していて適切だ。当たり前のことながら、立場が違えば十二月観も異なる。杉山岳陽に「妻として師走を知りしあはれさよ」があって、これもその一つ。新婚はじめての師走である。彼女の独身時代には、あれこれと楽しい会合などもあったはずの月だが、家庭に入ればそうはいかない。正月の用意やら浮世の義理を果たす用事やらで、なかなか自分の時間を持つことができない。忙しく立ち働く妻の心情をおもんぱかって、作者は可哀想にとも思い、いとしいとも思っている。さて、読者諸兄姉に、今年の十二月はどんなふうに写っているのだろうか。『新日本大歳時記・冬』(1999・講談社)所載。(清水哲男)
May 042003
ちまき買ひ交通難の刻過ごす
杉山岳陽
わかったようで、わからない句。家族のために「ちまき(粽)」を買い求め、少しでも早く帰りたいのだが、「交通難」のせいで苛々させられている。ここまではわかるのだけれど、しからば、このときの作者は物理的にはどんな状態にあるのだろうか。つまり、交通難とは何を指して言っているのかがわからないのだ。現代の感覚からすると、交通渋滞ということになりそうだが、この句は出典の発行年からして、1960年代以前に詠まれている。ほんの一部の地域を除いては、まだ渋滞は一般的ではなかったころの句だ。むろん、そんなにマイカーは普及していない。そこでネットを走り回って調べてみたところ、専門家の間では、交通渋滞と交通難とでは定義の違うことがわかった。交通渋滞はいまどきの私たちが体験しているそれであるが、交通難は交通機関が乏しい、インフラの整備が遅れている状態を指すのである。該当する一般的な用例としては、こんなのがあった。「最近の大阪は、東京と同じく交通難だった。午後三時を過ぎると、御堂筋でも、なかなか空車がつかまらない」(梶山季之『黒の試走車』1962)。明らかに、交通渋滞ではないことがわかる。そんなこんなを考え合わせると、掲句の作者の場合も、この状態にあるのだと思われる。タクシー待ちとは限らないにしても、バスや市電を待っているが、なかなか来ないので苛々している図だ。ああ、言葉は難しい。言語難。『新改訂版俳諧歳時記・夏』(1968・新潮文庫)所載。(清水哲男)
September 182010
虫売の鼻とがりつゝ灯にさらす
杉山岳陽
猛暑日が続いていたが、虫が鳴きだしたのは早かったように思う。虫売は文字通り虫を売ることを商売にする人のこと。この句を読んで、以前見た浮世絵を思い出した。後ろに虫籠がたくさん吊してあり、手前に大きく虫売の顔が描かれているのだが、長い顔に細い鼻でなんだか怒っているような悲しいような顔をしていたように思う、まあ浮世絵顔ということかもしれないが。勝手な言いぐさだけれど、虫売に太った人はいなかった気がする、昔見かけたひよこ売りのおじさんもしかり。灯にさらされたとがった鼻は、生きているものを売る、という商売のうっすらとした影を感じさせる。『図説俳句大歳時記 秋』(1964・角川書店)所載。(今井肖子)
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