月日の経つのは早いですねえ。それにしてもロクなことのなかった年だ。今宵は忘年会第一弾なり。




2001ソスN12ソスソス1ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

December 01122001

 病院へゆく素手さげて十二月

                           石原舟月

を読んではっと気づかされるのは、ふだんの月とは違い、十二月はたしかに手に荷物を提げることの多い月ということだ。とくに月の後半ともなれば、なにやかやと両手に提げて歩くことになる。しかし、これは健康者の日常だ。作者は「病院にゆく」だけなのだから、いつものように何も提げていく必要はない。そんな病者の目には、行き交う人の荷物を提げている姿が、ことのほか鮮やかに見えるのである。俺が提げているのは「素手(すで)」でしかないと、あらためて師走の風に病身の切なさを思っている。「素手さげて」という措辞が、言外に街ゆく人のありようを描き出していて適切だ。当たり前のことながら、立場が違えば十二月観も異なる。杉山岳陽に「妻として師走を知りしあはれさよ」があって、これもその一つ。新婚はじめての師走である。彼女の独身時代には、あれこれと楽しい会合などもあったはずの月だが、家庭に入ればそうはいかない。正月の用意やら浮世の義理を果たす用事やらで、なかなか自分の時間を持つことができない。忙しく立ち働く妻の心情をおもんぱかって、作者は可哀想にとも思い、いとしいとも思っている。さて、読者諸兄姉に、今年の十二月はどんなふうに写っているのだろうか。『新日本大歳時記・冬』(1999・講談社)所載。(清水哲男)


November 30112001

 しかるべく煮えて独りの牡丹鍋

                           飯島晴子

語は「牡丹鍋(ぼたんなべ)」で冬。「猪鍋(ししなべ)」とも言い、猪の肉と野菜を煮込む味噌仕立ての鍋料理だ。これを「牡丹鍋」と言うのは、「牡丹に唐獅子」の「獅子」の発音に引っかけてある。まるで判じ物だ。さて、私にも覚えがあるが、独りで食べる鍋料理ほど侘(わび)しいものは、めったにあるものではない。何人かで、にぎやかに食べてこその鍋物である。そもそも鍋料理の発想が、そのことを前提としている。すなわち、鍋を囲む人たちも御馳走のうちというわけだ。それを、これから作者は独りで食べようとしている。鍋を据えたとたんから、もう侘しさを感じはじめていただろう。そこで句の勝負どころは、誰もが感じるこうした独りの侘しさを、いかに独自の発想でまとめあげるかということになる。「独りの牡丹鍋」と言うだけで、侘しい気分は十二分に露出してしまう。追い討ちをかけるように、それこそ「侘しい」などという言葉を折り込んだら、煮えすぎた鍋のように食えたものではあるまい。で、苦吟一番、「しかるべく」とひねりだした。周囲に誰もいなくても、煮えてくる状態は、みんなで囲んでいるときと同じであると……。いつもと同じ鍋の活気を詠むことで、対照的に作者の侘しい気持ちが句に極まった。『寒晴』(1990)所収。(清水哲男)


November 29112001

 長き夜やあなおもしろの腹話術

                           中村哮夫

語は「長き夜(夜長)」。実際に夜が最も長いのは冬至のころだが、季語としては秋に分類されている。夏の短夜の後なので、めっきり夜が長くなったと感じられる気分を尊重した分類だ。さて、掲句は寄席かキャバレーか、あるいは何かの集いでの即吟だろう。「腹話術」を、心底楽しいと賛嘆している。「長き夜」を過ごすには、絶好の芸ではないかと……。私はへそ曲がりだから、べつに「腹話術」じゃなくたって、落語もあれば漫才もあるだろうにと思い、句のどこに「腹話術」の必然性があるのかと真意を訝った。しばらく考えての結論は、こうだ。「腹話術」一般は、技術的には簡単な芸に属する。人形を操るのは難しいが、少しくらいなら「術」は誰にでもできる。できるから、仕組みを知っているから、見るときには誰もがちらちらと腹話術師の口元に注目し、意地悪くも失敗のかけらを見定めようとする。手品師を見るのと、同じ目つきになる。そこで作者が言うのは、そんなふうにして見るのは楽しくないじゃないか、「腹話術」には子供のように不思議だなあと思ってこその楽しさがある。どうせ、「長き夜」なのだ。演者のあら探しなんぞにかまけるよりも、ゆったりと騙されているほうがよほど心地よい。そんな気持ちになると、ほんとうに「あなおもしろし」ですぞ。と、これはベテラン演出家である作者の「芸を楽しむ心得第一条」のような句だと思えてくる。『中村嵐楓子句集』(2001)所収。(清水哲男)




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