2001N12句

December 01122001

 病院へゆく素手さげて十二月

                           石原舟月

を読んではっと気づかされるのは、ふだんの月とは違い、十二月はたしかに手に荷物を提げることの多い月ということだ。とくに月の後半ともなれば、なにやかやと両手に提げて歩くことになる。しかし、これは健康者の日常だ。作者は「病院にゆく」だけなのだから、いつものように何も提げていく必要はない。そんな病者の目には、行き交う人の荷物を提げている姿が、ことのほか鮮やかに見えるのである。俺が提げているのは「素手(すで)」でしかないと、あらためて師走の風に病身の切なさを思っている。「素手さげて」という措辞が、言外に街ゆく人のありようを描き出していて適切だ。当たり前のことながら、立場が違えば十二月観も異なる。杉山岳陽に「妻として師走を知りしあはれさよ」があって、これもその一つ。新婚はじめての師走である。彼女の独身時代には、あれこれと楽しい会合などもあったはずの月だが、家庭に入ればそうはいかない。正月の用意やら浮世の義理を果たす用事やらで、なかなか自分の時間を持つことができない。忙しく立ち働く妻の心情をおもんぱかって、作者は可哀想にとも思い、いとしいとも思っている。さて、読者諸兄姉に、今年の十二月はどんなふうに写っているのだろうか。『新日本大歳時記・冬』(1999・講談社)所載。(清水哲男)


December 02122001

 冬の谷寝返る方に落ちる音

                           橋本 薫

の山は眠っている。とは、古人の見立て。「山眠る」の季語がある。眠っているからには、山だって「寝返る」こともあるだろう。とは、作者の機知。面白い。山が寝返ると、どうなるのだろう。真っ暗やみなので、その様子は見ることができない。が、音がするのだ。聞こえるのだ。谷を走る川瀬の音が急に高まったり、吹き下ろす風の音がいきなり轟いたりと。そしてまた、やがていつもの静けさがもどってくる。私は中国山脈の奥の育ちだから、夜の山の音の変化には敏感なほうだと思う。とくに雪の夜の山は、しいんとしている。と言っても、まったく音がしていないのではなくて、敢えて言えば「しいんとした音」しか聞こえてこないのだ。それが気象の変化によって、突然に山が唸りだすことがある。熟睡しているはずの子供までもが、朦朧とではあっても、気がつくほどの音。たいていは「ああ、荒れてるなあ」くらいですませてしまっていたけれど、そうなのか、実はあれは山の寝返りの音だったのか。……と、そう思うと楽しい気分になってくる。何度か書いてきたように、私は句作が安易に陥りやすいので、擬人法の使用は好まない。しかし、これほど破天荒な発想で用いいられてみると、まんざら捨てたものではないなと思ったことである。『夏の庭』(1999)所収。(清水哲男)


December 03122001

 本漁ればいつも青春肩さむし

                           古沢太穂

者、六十代の句。と、いま調べて書いて、私もその年代なのだと思い知る。六十年余も生きてくると、いろいろな場面で年齢を感じることが増えてくるが、なるほど、私も本屋にいるときは年齢のことなどすっかり忘れてしまっている。青春時代と同じように、そのころに習得した自分なりのやり方で本を漁(あさ)る自分がいる。たいていの町の本屋は、寒い日でも店を開け放っているもので、感じる肩の寒さも若き日と同じようだ。肩をすぼめながらも、棚を眺める好奇心の熱は冷めないのである。なぜか「青春は美し」という、それこそ本の題名で知った言葉を思い出した。いまはもう誰も読まないヘルマン・ヘッセだ。句とは離れるが、私は本屋のない田舎で育った。中学二年で大阪は茨木市に引っ越したときに、はじめて本屋というところに入ることができた。忘れもしない、虎谷書店。健在だろうか。嬉しくて、日参しましたね。高校時代には、立川のオリオン書房、福生の田村書房と岩田屋。大学のときは、京都の三月書房、ナカニシヤ。まだ木造だったころの新宿の紀伊国屋書店。棚の本の配列をそらんじるほどに通いつめ、といっても金がないのでそんなに買えるわけもなく、もっぱら立ち読み専門の青春でした。なかで店のご主人と親しくなったのは、岩田屋と三月書房。岩田屋の奥さんは、たまに立ち寄らない日があると、必ず「何かあったの」と心配してくれたっけ。だから、岩田屋でどうしても立ち読みできなかった雑誌の一つに「奇譚クラブ」がある。『火雲』(1982)所収。(清水哲男)


December 04122001

 狸罠仕掛けて忘れ逝きにけり

                           和湖長六

語は「狸罠(たぬきわな)」で冬。作物を荒らすので、農家にとっては天敵の狸ども。こいつをひっとらえるための道具が「狸罠」で、狸が通る道は決まっていることから、その習性を利用して仕掛けておく。仕掛けたからには見回って歩くわけだが、掲句の主人公は仕掛けたことすら忘れてしまい、そのうちにぽっくりと逝ってしまった。句が実話か想像の産物かは問題ではなく、人の死のあっけなさを詠んで秀逸だ。いつか私が死ぬときも、まさか実際に罠を仕掛けることはないけれど、一つくらいは何かを仕掛けておきながら、すっかり失念したままに逝ってしまうのだろうと思わせられた。このときに失念が、死にゆく者のせめてもの幸福となる。失念が無かったら、死んでも死に切れないだろう。一種滑稽な味わいのなかで、作者はちゃんと死者を救っている。私の田舎では、狸よりも猪による被害のほうが甚大だった。猪には罠では間に合わないので、この季節になると大人たちは犬を連れて山に入り、猟銃で射殺した。いまでは猿の跋扈に悩まされていると聞くが、どんな対策を講じているのか。しかし、いくら害をもたらすといっても、やはり生命あるものを手にかけるのは辛いものがある。鶴丸白路に「逃げてゐてくれし狸や狸罠」がある。本音である。『林棲記』(2001)所収。(清水哲男)


December 05122001

 何に此師走の市にゆくからす

                           松尾芭蕉

の週末あたりは、歳暮のための客で街はにぎわうことだろう。不景気とはいうものの、浮世の義理を欠くこともままならぬ。迎えるデパートなどはよく心得たもので、それなりの品ぞろえで待ち受けている。たとえ手元不如意でも、出かけていけば人のにぎわいがあるので、それはそれで楽しくもなる。掲句は元禄二年(1689年)、芭蕉四十六歳のときの近江は膳所での句だ。にぎやかな「市(いち)」に出かけていく人の心は、昔も今も変わらない。市に向かう芭蕉の心も浮き立っている。「何に此(なんにこの)」とは、関西弁の「ナンヤ、コノオ」と言うところか。地べたをせっせと歩いている芭蕉からすれば、すうっと市を目指して一直線に飛んでいける「からす」がうらやましいのだ。もとより、烏が市に行くわけもない。でも、早くにぎやかな市に辿り着きたい作者には、そんなふうに見えてしまう。まさに「ナンヤ、コノオ」なのである。で、この句が面白いのは、歩いているうちに「ナンヤ、コノオ」の対象が、何度も読むと、空飛ぶ「からす」から切り替わって自分自身に向けられていく感じがしてくるところだ。「からす」に文句を言っていたつもりが、自分のどうにも押さえきれない「にぎやか好き」に向けられてしまった。でも、それが楽しいのだから仕方ないのさ。と、句の後ろで作者は居直ろうとしながらも、かなり照れている。掲句を音読するときには、どうか関西訛りで発音してみてください。この句に限らず、芭蕉句はすべてそのように……(清水哲男)


December 06122001

 息白き子のひらめかす叡智かな

                           阿波野青畝

語は「息白し」で冬。我が子ではなく、よその家の子だと思う。寒い朝。出かける道すがら、たまたま近所の知っている子に出会って連れ立って歩いている。子供とは世間話はできないから、学校や勉強のことなどを軽い気持ちで聞いてみたのかもしれない。話題がなんであれ、話しているうちに、作者は質問に一所懸命に答える子供の「叡智(えいち)」に気づかされた。単に才気煥発とか小利口というのではなく、日頃から真剣に物事を考えているところからしか出てこない話ぶり。それが子供の白い息に添ってひらめきながら、作者の胸を強く深く打ってきたのである。当の子供にしてみれば、当たり前の話をしただけなのだろう。が、作者には「これぞ本物の叡智」という感慨が生まれてしまった。この子のように、俺は物事を正面から引き受けて物を考えたことがあったろうか、と。凄いヤツだなあと、顔には出さねど舌を巻いている。「叡智」とは知識ではない。だから、ちっぽけな子供にだって「叡智」はそなわる。知識の徒が逆立ちしたってつかめない考えを、自力でつかんでいる子供もいる。そんな子供に自然に畏敬の念を覚えた作者もまた「叡智」の人なのだと、私は感動した。寒い朝でも、この交流はとても暖かい。『合本俳句歳時記』(1973・角川書店)所載。(清水哲男)


December 07122001

 実のあるカツサンドなり冬の雲

                           小川軽舟

語は「冬の雲」。季節によって雲の表情は変化するので、それぞれの季節を冠して季語として独立している。「冬の雲」は暗く陰鬱なものと、晴れた日の美しく晴朗なものとがある。掲句の雲はどちらだろうかと一瞬戸惑って、前者だろうと判断した。すなわち「実(じつ)のあるカツサンド」のように、ずっしりとした分厚い雲だ。たしかに「カツサンド」には、実のあるものとないものとがある。いくらカツの量が多くても、パンとしっくり合っていなくて、お互いにソッポを向いているようなのがある。食べるときに、両者がとにかく意地悪く分離してしまい、始末におえない。そこへいくと、たとえば私の好きな「井泉」のそれは、まことに両者の肌合いがしっくりいっており、特別にカツが大きいわけじゃないのに、作者言うところの「実」があるとしか言いようがないのだ。この「実のある」という措辞を「カツサンド」に結びつけたセンスの良さ。加えて、食べた後(最中でもよい)の満足感を「冬の雲」に反射させた感度の良さに感心した。「実のあるカツサンド」を食べたからこその「冬の雲」は、単に陰鬱とは写らずに、むしろ陰鬱の充実した部分だけが拡大されて写る。そうした「冬の雲」の印象は誰にでもあるはずなのに、それを作者がはじめて言った。ささやかであれ、一般的に満ち足りた心は、直後(最中)の表現などはしない、いや、できない。そこのところを詠んだ作者の粘り腰に、惚れた。俳誌「鷹」(2001年4月号)所載。(清水哲男)


December 08122001

 ヒマラヤの麓に古りし暦かな

                           山本洋子

国に取材した句に、佳句は少ない。が、掲句はいただきだ。季語は「古りし暦(古暦)」で冬。使用中の今年の暦だが、来年用の暦が出回りだすと、古暦という感じになる。考えてみると、暦は目に見えない自然の時の流れを目に見えるようにした装置なわけで、実によくできている。装置の形態は種々に変化してきたが、人類最古の文化的所産の一つと言ってよい。暦の必要は、自然現象に関心を抱かざるを得ない生活から発しているはずだ。この国の農事暦などを見ると、そのことが実感される。そういうことからすると、野暮ったい暦のほうが本来の暦なのであり、昨今私たちの部屋にあるような洗練されたデザインのものは、自然現象に関心の希薄な人々のものでしかない。洗練は、自然から遠く離れたところで成立する文化なのだ。いまの「ヒマラヤの麓(ふもと)」では、どんな暦を使っているのだろうか。行ったことが無いのでわからないが、この暦は私たちのものよりも、自然を強く意識して作られているはずなので、見た目には野暮ったいかもしれない。しかしそれがどんな暦にせよ、「古りし暦」が季語として濃密に感じられるのは、現代の日本でよりも、こういう風土のところでだろう。私たちよりもずっと「暦とともにある」人々の生活が、あれこれと想像されて、とても味のある句だと思った。「俳句年鑑」(2002年版・角川書店)所載。(清水哲男)


December 09122001

 それがまた間違いファクス十二月

                           小沢信男

人との会話を、そのまま句にしている。我が家でもそうだが、「ファクス」が届くと「誰からだった?」と聞かれたり聞いたりする。そこで作者は「それがまた間違いファクス」でね、やっぱり「十二月」だなあ、忙しいので間違えちゃうんだよ、と……。古来、当月のあわただしさはいろいろに表現されてきたが、掲句はそれをさらりと現代風にとらえてみせている。そう言えば、ちょうど今頃だ。数年前に届いた「間違いファクス」に、あわてふためいたことがある。旅行会社からで、正規の受取人にとっては急を要する内容だった。受取人は海外ツァーのキャンセル分を申し込んでいたらしく、文面にはキャンセルが出たので三日後の出発が可能になったとある。ついては、折り返し至急返事を寄越すようにというのだけれど、これには弱りましたね。間違いなのだから他人事なのだからと、冷たく放ってはおけない。正規の受取人に連絡しようにも、名前しかわからないのでお手上げだ。ならば旅行会社にと、よくよく見ても、肝心の会社名や電話番号のあたりがかすれてしまっていて、判読できない。ようやく発見した手がかりは、送信文の上のほうににつけられていた会社のファクス番号とおぼしき数字であった。これっきゃないと、そこに間違いの旨を送信しておいたのだが、正規の受取人は果たしてちゃんと旅行に行けただろうか。旅行会社からは、ウンでもなければスーでもなかった。『足の裏』(1998)所収。(清水哲男)


December 10122001

 数へ日の素うどんに身のあたたまり

                           能村登四郎

語は「数へ日」で冬。日数の残りも少ない年末のこと。感覚的には、まだ少し早いかもしれない。が、あらためて壁のカレンダーをを見ると、今年もあと三週間しか残していない。これからは何かと慌ただしく、一瀉千里で今年も暮れていくのだ。忙しいということもあるが、そんな思いのなかでの独りの外食は、見た目にデコラティブな料理よりも、シンプルの極みたいなものがしっくりと来る。「素うどん」などは、その典型だ。とりあえずの「身のあたたまり」ではあるだろう。が、もう少し「素うどん」を敢えて句にした作者の実感に迫っておけば、シンプルな食べ物からしか受けることのできない恩寵に、ひとりでに感謝する響きが込められている。おかげで「身」も暖かくなった。そして、心の内もまた……。年末の多忙は、多く整理の多忙だ。来る年を迎えるために、身辺も心の内もさっぱりとしておきたい。その気持ちが、たとえば「素うどん」の「素」にすんなりとつながっていく。そういうことだと掲句を読み、今日はどこかの立ち食いの店で「素うどん」を食べたくなった。それも「七味」ではなく「一味唐辛子」を、さっと振りかけて。『人間頌歌』(1990)所収。(清水哲男)


December 11122001

 あばずれと人がつぶやく桜鍋

                           岡田史乃

語は「桜鍋」で冬。馬肉を味噌仕立て、またはすき焼き風にする鍋料理のこと。馬肉は牛肉などとは違い紅みが濃いので、「桜」という異称が生まれた。さて、また「あばずれ」とは懐かしいような言葉だ。辞書的に言うと、悪く人ずれがして厚かましいこと。また、そのような者、および、そのさま。古くは男女ともに言ったが、現在では女性に限って言う。いわゆる「すれっからし」である。鍋の席で、いささかはしゃいで声高に誰かれとしゃべっていたら、少し離れた席で「人」が「あばずれ」と低くつぶやくのが聞こえてしまった。つぶやきだから、誰に向けられたものでもないかもしれない。が、つぶやいた「人」と作者との関係において、直感的に自分に向けられた気がしたのだ。途端に、すっと楽しさが醒めてしまった。「人」とぼかしているのは、その「人」の名前を隠そうというのではなく、もっと広がりのある「人々」を暗示させたかったのだと思う。「人」は、ここで「人々」であり「みんな」なのであり、もっと言えば「世間」なのである。ああ、この席で談笑している「みんな」は、腹の中では私のことをそう思っているのか……。単なる妄想に過ぎないと、そんな気持ちを打ち消そうとはするのだが、打ち消せない自分がいる。どうにもならない。境遇的に、あるいは身体的に弱っているとき、誰にでもこういうことは起きるだろう。『浮いてこい』(1983)所収。(清水哲男)


December 12122001

 ボーナスやビルを零れて人帰る

                           辻田克巳

語は「ボーナス」で冬。六月にも出るけれど、十二月のほうがメインということだろう。最近は給料と同様に、銀行振込みの会社がほとんどだ。「列なして得しボーナスの紙片のみ」(丁野弘)なのだから、昔を知る人にはまことに味気ない。掲句は、現金支給時代のオフィス街での即吟と読める。ボーナス日の退社時に、ビルから人が出てくる様子を「零(こぼ)れて」とは言い得て妙だ。ボーナスの入った封筒を胸に家路を急ぐ人ばかりだから、みな足早に出てくる。まさか押し合いへし合いではないにしても、ちょっとそんな雰囲気もあり、普段とは違って溢れ「零れて」出てくる感じがしたのである。家では妻子が、特別なご馳走を用意して「お父さん」の帰りを待っていた時代だ。我が家では、たしかすき焼きだったと思う。そんな社会的背景を意識して読むと、句の「人」がみな、とてもいとおしく思えてくる。誰かれに「一年間、ご苦労さま」と、声をかけてあげたくなるではないか。昔はよかった。それがいつの頃からか、ボーナスが真の意味でのボーナスではなくなり、完全に生活給になってしまった。「ボーナスは赤字の埋めとのたまへり」(後藤紅郎)と、一家の大黒柱も力なく笑うしかなくなったのである。『新日本大歳時記・冬』(1999・講談社)所載。(清水哲男)


December 13122001

 美しく耕しありぬ冬菜畑

                           高浜虚子

語は「冬菜(ふゆな)」で、むろん冬季。初秋に種を蒔き、冬に収穫する白菜、小松菜、水菜など菜類の総称だ。仕事やら浮世の義理やらなにやらで、とかく人事雑用に追いまくられる定めの師走である。今日も用事を抱えてせかせか歩いているうちに、住宅街の外れの畑地に出た。「ほお」と、思わずも足が止まった。満目枯れ果てたなかに、そこだけ緑鮮やかな「冬菜」が展開している。この光景だけでも十分に美しいが、それを虚子は一歩進めて「美しく耕しありぬ」と、耕した人への思いを述べた。見知らぬその人の日頃の丹精ぶりに、敬意をこめた挨拶を送っている。人の仕事とはかくあるべきで、比べれば、歳末の雑事多忙などの大半は刹那的な処理の対象でしかない。そんな思いも、作者の脳裏をかすめただろう。我が家の近所にも、昔ながらの畑地がある。四季を問わず、ときどき見に行く。行くといつでも、深呼吸をしたくなる。かつての農家の子供のころには、ごく当たり前でしかなかった平凡な光景が、いまでは何かとても尊い感じに受け取れるようになった。掲句を読んで、それが畑地と関わる人の日常的な営為への心持ちであることが、はっきりとわかった。『五百五十句』(1943)所収。(清水哲男)


December 14122001

 冬帽や画廊のほかは銀座見ず

                           皆吉爽雨

前の句だろうか。時間がなくて、調べられなかった。当時の都会のいっぱしの男は、好んで中折れ帽をかぶったようだ。昔の新聞の繁華街の様子を写真で見ると、そう思える。だとすれば、作者の「冬帽」も中折れ帽だろう。脱ぐときは、ちょいと片手でつまむようにして脱ぐ。そこに、その人なりのしゃれっ気も表われる。句意は明瞭。寒い中、それでも作者が銀座に出かけていくのは画廊が唯一の目的であり、その他の繁華には無関心だと言うのである。「冬帽」と「画廊」との結びつきの必然性は、女性とは違って、男が画廊に入るときには必ず帽子を脱ぐことによる。それから、室内の帽子掛けにかける。銀座は、昔から画廊の多い街だ。一箇所を見終わると、すぐ隣りのビルに入ったりする。次々と訪れるたびに帽子を脱ぐので、どうしても「冬帽」が、つまむ手に意識されるというわけだ。繁華には目もくれず絵画に没頭する作者の気概と自負が、帽子を扱う微妙な所作に収斂されているように読めて面白い。いつもの余談になるけれど、私が俳人のなかで、どなたかを「先生」と呼ぶことがあるとすれば、作者はその筆頭に来る。一度もお会いしたことはなかったが、先生は環境の激変に翻弄されていた私の少年期に、拙い投稿句をいつも「毎日中学生新聞」に載せてくださった。今日までの私の俳句愛好は、爽雨先生に発している。平井照敏編『俳枕・東日本』(1991・河出文庫)所載。(清水哲男)


December 15122001

 寒柝やしばし扉の開く終電車

                           守屋明俊

語は「寒柝(かんたく)」で冬。火事の多い冬季に、火の用心のために「柝(たく・拍子木)」を打ちながら夜回りをする。「火の用心、さっしゃりましょーっ」と回る、あれだ。その拍子木の音のことを「寒柝」と言う。さて、深夜の郊外の駅である。「終電車」の扉が開いて、どこか遠くのほうから柝を打つ音が聞こえてきた。ああそんな時間かと、あらためて思う。大半の人たちが、もう床に就いている時間だ。仕事で遅くなったのか、あるいは飲んでの帰りか。いずれにしても、一刻も早く帰宅したいのが終電車の乗客の心理だ。日中の「しばし」の停車ならさして気にもとめないところだが、深夜の「しばし」は本当にひどく長く感じられる。が、扉は無情にも「しばし」開いたままなのだ。すっかり客もまばらになった車内には、冷たい夜気が容赦なく流れ込んでくる。そこへまた、遠くからかすかに柝を打つ音が……。終電車の客の侘しい心持ちが、聞こえてきた「寒柝」でいっそう際立った。明日が休日というのならばまだしも、この侘しさは、明日も朝から出勤という身の侘しさにちがいない。この独特の侘しさに、思い当たる読者も少なくないだろう。『西日家族』(1999)所収。(清水哲男)


December 16122001

 刻かけて海を来る闇クリスマス

                           藤田湘子

リスマスは、言うまでもなくキリストの降誕を祝う日である。その祝いの日をやがては真っ暗に覆い隠すかのように、太古より「刻(とき)かけて」、はるかなる「海」の彼方より近づいてくる「闇」。人間にはとうてい抗いがたい質量ともに圧倒的な暗黒が、ゆっくりと、しかし確実に接近してきつつあるのだ。この一年を振り返るとき、一見観念的と思える掲句が、むしろ実感としてこそ迫ってくるではないか。知られているように、キリストは夜に生まれた。いま私たちに近づいてくる「闇」は、彼の生まれた日の夜のそれと同様に邪悪の気配にみなぎっており、しかも生誕日の暗黒とは比較にならぬほどの、何か名状しがたいと言うしかないリアリティを確保しているようだ。キリスト教徒ではないので、私にはこの程度のことしか言えないけれど、いまこそ宗教は意味を持つのであろうし、また同時に、人間にとっての真価は大きく問い返されなければならぬとも思う。「聖夜」の「聖」、「聖戦」の「聖」。俗物として問うならば、どこがどう違うのか。しかし、そんなことは知ったことかと、海の彼方から今このときにも、じりじりと掲句の「闇」は接近中だ。何故か。むろん、他ならぬ私たち人間が、太古よりいまなお呼び寄せつづけているからである。メリー・クリスマス。「俳句研究」(2002年1月号)所載。(清水哲男)


December 17122001

 足袋の持つ演劇的な要素かな

                           京極杞陽

語は「足袋(たび)」で冬。女性用は白足袋、男性用は紺色ないしは黒色で、礼装用は男女ともに白足袋である。作者がどんな場面でこう感じたのかは知らねども、言われてみれば、なるほどと得心がいった。たしかに足袋は靴下などよりも、よほど芝居がかって見える。1968年の作だから、もはや足袋をはく人も少なくなっていたころなので、なおさらだ。もっとも作者は、世が世であれば豊岡藩(兵庫県)のお殿様となったはずの人ゆえ、足袋には一般人よりも縁は深かったにはちがいないが……。したがって「演劇的な要素」があることにも、よほど敏感だったのだろう。戦後の吉田茂首相の白足袋姿は有名だったが、彼もまたそこらへんの事情を承知しての演技だったのだろうか。それにしても、「演劇的な要素」なる観念語を無造作に句に放り込んだ(と見えるように、故意に仕掛けた)手法は面白い。作者が虚子の弟子であることを知れば、ますます面白い。句の発想を得た具体的なシーンを写生して上手に詠めば、句意としてはほぼ同意の作品ができるはずだ。が、作者はあえてそうしなかった。たぶん「ハイクハイクした句」に、飽き飽きしていたのだと思う。すなわち裏をかえせば、この句こそが、実は足袋なんかよりもよほど「演劇的な要素」に満ちているの「かな」(笑)。でも、たまには精神衛生上、こういう句もよい。気に入っちゃった。『露地の月』(1977)所収。(清水哲男)


December 18122001

 炭俵的にぞ立つてゐようと思ふ

                           小川双々子

語は「炭俵(すみだわら)」で冬。当歳時記では「炭」の項に分類。最近はさっぱり見かけないけれど、あるところにはあるのだろうか。米俵とは違って、カヤなどで編んだ目の粗い俵である。もちろん、名のごとく炭を保管しておくための入れ物だ。炭がいっぱいにつまっている俵は、がっしりと直立している。が、中の炭が減ってくると、当たり前のことながら、だんだんへなへなと崩れそうに傾いてくる。だからときどき、重心を戻してやるために、持ち上げてゆさぶってやる必要がある。作者は、そんな不安定な「炭俵的にぞ」立っていたいと述べている。すなわち「俺が、私が」と自我を丸出しに直立して生きるのではなく、中身が少なくなれば重心がそれなりに変化していき、いまにも倒れそうになり、誰もゆさぶってくれなければ倒れかねない生き方をしたいと言うのである。阿弥陀仏の「他力本願」に似た心境だろうが、作者が敬虔なキリスト者であることを思えば、さまざまな宗教の求めるところは、ついにこのあたりに集約されるのかと考えさせられた。そんな大真面目な物言いはべつにして、傾いた「炭俵」の姿には、なかなか愛嬌がある。この句にもまた、大真面目の重心がどこか妙にずれているような不思議な愛嬌が感じられる。『異韻稿』(1997)所収。(清水哲男)


December 19122001

 忘年会一番といふ靴の札

                           皆川盤水

風の店での「忘年会」で部屋に上がるとき、受け取った下足札に「一番」とあった。誰よりも早く到着したからではなく、偶然の「一番」である。他愛ないといえば他愛ない喜びだが、他の「四(死)番」や「九(苦)番」を渡されるよりも、たしかに気分はよいだろう。今年のイヤなことは「一番」に忘れて、よい年がやってきそうな心持ちになる。既に集まっている仲間に、早速この札を見せびらかしたかもしれない。作者、このとき七十六歳。稚気愛すべし。番号といえば、野球好きの連中には選手の背番号だ。銭湯の下足入れなどでは、好きな選手の番号が空いてないかと確かめる。昔は川上哲治の「16」が人気だったし、川上以降は長嶋茂雄の「3」や王貞治の「1」が抜群の占有率を誇っていた。エースナンバーの「18」の人気も高かった。そんな番号が、どういうわけか(としか思えないのだが)たまたま空いていたりすると、大人になってからも、束の間幸福な気分になったものだ。「ラッキー」と、思わずもつぶやいていた。いやはや、まことに他愛ない。最近はテレビ観戦が日常的になったので、背番号もあまり覚えない。覚える必要がないからだ。画面がみんな教えてくれる。昔は、ひいきチームの全レギュラーの番号をそらんじることなど当たり前だったが、いまではそんなファンの数も激減しているのではないか。『随處』(1994)所収。(清水哲男)


December 20122001

 魚眠るふる雪のかげ背にかさね

                           金尾梅の門

しい句だ。実景を詠んだと思われるが、となれば「魚(うお)」は、人が雪中の地上からでも認められる、たとえば池の大きな鯉あたりだろうか。鯉でなくともかまわないけれど、水中でじいっと動かない魚の「背」に、雪がこんこんと降りかかっている。雪は水面にまでは達するが、決して水中の魚にまで、そのまま届くことはない。魚は、常に「雪のかげ」を「背にかさね」て眠っているだけなのである。この情景は、いま直接に肌で雪を感じている作者にしてみれば、眼前の具象を越えて抽象的にまで高められたような美しいそれに写った。もとより人と魚とでは、寒暖に対しての生理は同じではない。でも、そんな理屈を掲句に押しつけるのは野暮というものだろう。作者は若き日に、父親の職業を継いでの売薬行商人であった。いわゆる「富山の薬売り」だった。「背」に風呂敷で包んだ大きな荷を文字通りに「背」負って、諸国をめぐり歩く商売である。だからこそ、こういう「背」の観察ができたのではあるまいか。たいていの人は「背」を意識しないで生きていく。「親の背を見て子は育つ」などという箴言は、人が「背」に無意識であるからこそ生まれてきた言葉である。作者名は「かなお・うめのかど」と読み、なんだか大昔の月並俳人のようであるが、1980年に八十歳で没した、れっきとした現代俳人である。『鴉』所収。(清水哲男)


December 21122001

 旅人に机定まり年暮るゝ

                           前田普羅

後間もなくの作。作者は年末年始にかけて、よんどころない事情から、旅をつづけなければならなかった。「旅人」に「机」が定まらないのは当たり前で、普段なら何とも思わないが、年の暮ともなると、しばし落ち着きたくなる。幸い長逗留できるところが見つかり、ほっと安堵している図だ。これで、ゆっくりした気持ちで年を越せる。おそらくは、その「机」で掲句を書いたのだろう。かりそめにもせよ、自分用の机があってはじめて安心できるとは、やはり言葉の人ならではの心境である。机があっても、一向に落ち着かない人も大勢いるはずだ。私だと、何が定まると安心できるだろうか。いまだったら、机よりもパソコンかなア……。しかし、実はこのときの作者は、尋常な事情からの「旅人」ではなかった。弟子だった中西舗土の文章を引いておく。「普羅の生涯と作品について特に見逃してはならないのは戦後の漂泊時代である。妻に先立たれ、家や家財を消失し、一人娘も嫁いで全くの孤独となり、門弟を訪ねて北伊勢の禅寺や大和関屋の門弟家に長逗留することもあった」。このことを知らなくても掲句は観賞できるが、知ってしまうと、普羅の安堵のいっそうの深さが思われる。戦後六年目にしてようやく東京都大田区に居を定めることのできた普羅だったが、やがて病臥の身となり、定住三年目(1954)の立秋の日に、ひっそりと世を去った。享年七十一歳。『雪山』(1992)所収。(清水哲男)


December 22122001

 一族郎党が沈んでゐる柚子湯かな

                           八木忠栄

語は「柚子湯(ゆずゆ)」で冬。冬至の日に柚子湯に入ると、無病息災でいられるという。句は、古い田舎家の風呂場を思い起こさせる。作者は、ひさしぶりに帰省した実家で入浴しているのだろう。台所などと同じように、昔からの家の風呂場はいちように薄暗い。そんな風呂に身を沈めていると、この同じ風呂の同じ柚子湯に、毎年こうやって何人もの血縁者が同じように入っていたはずであることに思いが至った。息災を願う気持ちも、みな同じだったろう。薄暗さゆえ、いまもここに「一族郎党が沈んでゐる」ような幻想に誘われたと言うのである。都会で暮らしていると、もはや「一族郎党」という言葉すらも忘れている始末だが、田舎に帰ればかくのごとくに実感として想起される。そのあたりの人情の機微を、見事に骨太に描き出した腕の冴え。すらりと読み下せないリズムへの工夫も、よく本意を伝えていて効果的だ。なお蛇足ながら、「一族郎党」の読み方は、昔は「いちぞくろうう」ではなく「いちぞくろうう」であった。ならばこの句でも「いちぞくろうう」と読むほうが、本意的にはふさわしいのかもしれない。『雪やまず』(2001)所収。(清水哲男)


December 23122001

 ゆく年を橋すたすたと渡りけり

                           鈴木真砂女

年も暮れてゆく。そう思うと、誰しも一年を振り返る気持ちが強くなるだろう。「ゆく年(行く年)」の季題を配した句には、そうしたいわば人生的感慨を詠み込んだ作品が多い。そんななかで掲句は、逆に感慨を断ち切る方向に意識が働いていて出色だ。作者にとってのこの一年は、あまり良い年ではなかったのだろう。思い出したくもない出来事が、いくつも……。だから、あえて何も思わずに平然とした素振りで、あくまでも軽快な足取りで「すたすたと」渡っていく。このときに「橋」は、一年という時間の長さを平面の距離に変換した趣きであり、短い橋ではない。大川にかかる長い橋だ。冷たい川風も吹きつけてくるが、作者は自分で自分を励ますように「すたすた」と歩いてゆくのである。話は変わるが、今日は天皇誕生日。諸歳時記に季語として登録されてはいるけれど、例句も少なく佳句もない。戦前の「明治節」や「天長節」とは、えらい違いだ。清水基吉さんから最近送っていただいた『離庵』(永田書房)に、こんな句があった。「なんといふこともなく天皇誕生日」。多くの人の気持ちも、こんなところだろうか。『新日本大歳時記・冬』(1999)所載。(清水哲男)


December 24122001

 大阪に出て得心すクリスマス

                           右城暮石

日前の土曜日の夜。麹町のラジオ局での仕事が終わって、何人かと半蔵門の中華料理屋に立ち寄った。入り口には、豪華なクリスマスツリーが飾ってあった。中華料理と聖樹。そぐわないなと思っていたら、出がけに中国人の元気の良い女店員が言った。「忙しいです。クリスマスが終わったら、すぐにお正月のアレ立てないと」。ショーバイ商売というわけか。なんとなく「得心(とくしん)」した。で、帰宅してから片山由美子の『鳥のように風のように』を読んでいるうちに、紹介されている杉良介の「人を待つ人に囲まれ聖誕樹」が目にとまった。なるほどねえ。この句にも、すぐに「得心」がいった。掲句の作者の「得心」も似たような種類のものだろう。とくに昔の田舎暮らしだと、マスコミ情報としてのクリスマス騒ぎは伝わってきても、実感にはほど遠い。ところが、たまたま大都会の「大阪」に所用で出かけて行ったら、なるほど宗教など関係なしのツリーやらイルミネーションやらで、街は実にきらびやかにしてにぎやかだった。「ほほお」と作者は、一も二もなく「得心」させられたというわけだ。いささかの皮肉も込められてはいるのかもしれないが、むしろ目を真ん丸くしている作者の純な気持ちのほうがクローズアップされていると読んだ。『合本俳句歳時記』(1997・角川書店)所載。(清水哲男)


December 25122001

 椅子かつぐひとにつづけり年の暮

                           田中正一

具屋の店員が配達の「椅子」をかついでいると読んでは、面白くない。当たり前にすぎるからだ。そうではなくて、たとえばスーツ姿のサラリーマンがかついでいる。普段ならよほど奇異に見えるはずだが、この時期であれば年用意のためと思えるので、不思議には感じない。きっと年内配達は無理と言われ、それならばと自分で引っかついで帰るところなのだろう。後ろを行く作者は、そんなふうに納得している。納得しないと、とても「椅子かつぐひと」につづくことなどは不気味でできない。歳末ゆえ、奇異とも思わずにつづくことができるわけだ。普段とは違う「年の暮」の街の状態を、一脚の「椅子」の扱われようで簡潔に描き出していて秀逸である。それにしても、この人。このあとで電車に乗るようなことがあったら、車内の座席ではなく、この「椅子」に腰掛けていくのだろうか。愉快な図だ。とまあ、これは句意に関係はないけれど……。このように、歳末ともなると、電化製品など大きな荷物を運ぶ人が増えてくる。そこが泥棒の付け目だと、聞いたことがある。どこやらの放送局から、スタンウェイだったかの高価なピアノを、四五人の男が白昼堂々と運び去ったのも、やはりこの時期だったように思う。ご用心。『昭和俳句選集』(1977)所載。(清水哲男)


December 26122001

 雪くれて昭和彷う黒マント

                           浅井愼平

門俳人は、採らないかもしれない。季重なり(「雪」と「マント」は両方冬季)でもあり、「雪くれて」と「行きくれて」の掛け具合も、単なる思いつきといえばそうとも言えるからだ。しかし私には、こういう句はもっと作られるほうがよいと思われた。時代全体のありようを、心象風景的に視覚化してみせたところが実に新鮮だ。時代を詠むにしても、現実の視覚から時代を捉えて仕立て上げるのが多く従来の俳句だとすれば、掲句は時代の持つ漠たる観念性や雰囲気を先につかまえてから作句している。逆方向から、アプローチしている。もとより、従来の句も掲句の場合も、作者はそのあたりのことを截然と方法的に意識しているわけではないだろう。ないけれど、強いて誇張して考えれば、そういうことだと思える。この「黒マント」の人は、何者だかわからない。雪の日の夕暮れにどこからともなく現れ、「行きくれ」たような足取りで、たそがれてゆく「昭和」という時代を彷(さまよ)っているのである。夕暮れの「雪」の灰色がかった白と「マント」の黒とが、やがては夜の闇に同化していくことを想像すれば、読者には「黒マント」の人それ自体が「昭和」のように思えてくるだろう。いわば「昭和の亡霊」か。そして、今の平成の世にもなお、この人は彷いつづけているのだろうとも。『二十世紀最終汽笛』(2001)所収。(清水哲男)


December 27122001

 心からしなのの雪に降られけり

                           小林一茶

代の帰省子にも通じる句だろう。ひさしぶりに故郷に戻った実感は、家族の顔を見ることからも得られるが、もう一つ。幼いころから慣れ親しんだ自然に接したときに、いやがうえにも「ああ、帰ってきたんだ」という感慨がわいてくる。物理的には同じ雪でも、地方によって降り方は微妙に、あるときは大いに異なる。これは江戸の雪じゃない。「しなの(信濃)の雪」なのだと「心から」降られている一茶の感は無量である。「心から」に一片の嘘もなく、だからこそ見事に美しい言葉として印象深い。ときに一茶、四十五歳。父の遺産について異母弟の仙六と交渉すべく、文化四年(1807年)の初冬に帰郷したときの句だ。「雪の日やふるさと人のぶあしらい」。家族や村人は冷たかったが、冷たい雪だけが暖かく迎えてくれたのだった。このときの交渉はうまくいかず、一茶は寂しく江戸に戻っている。遺産争いが決着するまでには、なお五年の歳月を要している。さて、この週末から、ひところほど過密ではないにしても、東京あたりでは帰省ラッシュがはじまる。故郷に戻られる読者諸兄姉には、どうか懐かしい自然を「心から」満喫してきてください。楽しいお正月となりますように。(清水哲男)


December 28122001

 くれくれて餅を木魂のわびね哉

                           松尾芭蕉

に生きた人も、さすがに年末は侘しかったと見える。新年を迎えるにあたって、何の準備もしなくともよい。なんて気楽な人生なんだ。とは、つゆ思えない句だ。「わびね」は「侘び寝」であり「侘び音」だろう。まだ薄暗い早朝に、どこからか「餅」を搗く音がしてきて、目が覚めた。ぼんやりと聞きながらも、いよいよ「くれくれて(暮れ暮れて)」きたかと思うと、だんだんに搗く音が胸奥に「木魂(こだま)」してきて、侘しさが募ってくる。蒲団をかぶってもう一眠りしようかとも思うが、「木魂」はますます耳につき、さりとて起き上がる気にもなれず……。ただ、じっと薄明の天井を見つめているばかりの三十八歳の男の図。世間から、ひとり取り残された旅人の実感だ。芭蕉には、他にも「ありあけも三十日に近し餅の音」があって、この句も切ない。とくに江戸期の餅搗きは、各家の景気を誇示する意味もあったので、わざわざ暗いうちから起きだして搗くのも、静かな時間に近所中に搗く音をアピールするためであったようだ。さながら名家や大家のごとく、早朝から深夜までかけて大量に搗かねばならぬふりをした、涙ぐましくも姑息な策略である。この策略は、戦後にも私の田舎では尾を引いていて、餅搗きは早朝からと決まっていた。そしてこの早起きだけは、子供にも苦にならなかった。(清水哲男)


December 29122001

 蒟蒻を落して跼む年の市

                           飴山 實

語は「年の市」で冬。昔は大晦日まで、新年用の品物を売る市が社寺の境内などに盛んに立ち、買い物客でごったがえした。「押合を見物するや年の市」(河合曽良)。作者は現代の人だから、東京のアメ横のようなところか、あるいは商店街の辻に立つ小市での句だろうか。いずれにしても、混雑のなかでの買い物にはちがいない。注連飾りや盆栽、台所用品から食料品など、実にいろいろな物が売られている。景気のいい売り声に誘われて、あれもこれもと少しずつ買っていくうちに、だんだんと荷物が増えてきて、ついつるりと「蒟蒻(こんにゃく)」を落としてしまった。この場合は、板コンニャクではなく、べちゃっと落ちる糸コンニャクのほうが面白い。しまった。あわてて誰かに踏まれないうちに拾おうとするわけだが、これ以上何かを落とさないように、手元の荷物も慎重に扱わねばならぬ。したがって、ちょっと「跼(かが)」んでから、半ば手探り状態でコンニャクを拾う感じになる。その寸刻の懸命なしぐさは、哀れなような滑稽なような……。些事といえば些事だ。しかし、そんな些事の連続が生活するということであるだろう。さて、押し詰まってきました。今日明日と、類似の体験をする人はきっといるでしょうね。『辛酉小雪』(1981)所収。(清水哲男)


December 30122001

 左右より話一度に日短

                           五十嵐播水

語は「日短(短日)」で冬。一日が二十四時間であることに変わりはないけれど、日照時間が短いと、追い立てられるような気分になる。とくに多忙な歳末ともなれば、いっそう強く感じられる。掲句は歳末とは無関係ながら、この時期に読むと、より句意が実感として鮮明になるようだ。忙しいから、話かけるのにも、とかく一方的になる。折り入っての話なら別だが、ちょっとした用事を頼んだりする際には、相手の状態には無頓着に話しかけがちだ。うっかりすると、電話中の人に話しかけたりしてしまう。したがって「左右より話(が)一度に」衝突し、ちょっと待ってくれよと、それこそ左右に手を広げることになる。よくあることではあるが、この状態を「日短」に結びつけた腕前はさすがだ。言われてみれば、なるほどである。しかも「日短し」とは詠まずに、あえて「日短(ひみじか)」と四音に短く止めたところが、「短日」の雰囲気とよく通いあっている。ただ、作者はたしか関西の人だから、あるいは「ひぃみじか」と関西弁で五音に読ませるつもりだったのかもしれない。そうだとしても、字面的には収まりはよろしくない。中途半端だ。やはり作者のねらいは、発音はともかくとして、この収まりの悪さを百も承知でねらったのだと思われる。『新歳時記・冬』(1989)所載。(清水哲男)


December 31122001

 父祖の地に闇のしづまる大晦日

                           飯田蛇笏

とに名句として知られ、この句が収められていない歳時記を探すほうが難しいほどだ。時間的にも空間的にも大きく張っていて、どっしりとした構え。それでいて、読者の琴線には実に繊細に触れてくる。蛇笏は文字通りの「父祖の地」で詠んでいるが、句の「父祖の地」は某県某郡某村といった狭義のそれを感じさせず、人が人としてこの世に暮らす全ての地を象徴しているように思われてくる。大晦日。大いなる「闇」が全てをつつんで「しづまる」とき、来し方を思う人の心は個人的な発想を越えて、さながら「父祖の地」からひとりでに滲み出てくるそれのようである。日本的な美意識もここに極まれりと、掲句をはじめて読んだときに思った記憶があるけれど、そうではないと思い直した。外国語に翻訳しても、本意は多くの人に受け入れられるのではあるまいか。ところで、「大晦日」は一年の終わりなので「大年(おおとし)」とも言う。「大年へ人の昂ぶり機の音」(中山純子)。真の闇以前、薄闇が訪れたころの実感だろう。大晦日にも働く人はいくらもいるが、しかし漏れ聞こえてくる「機(はた)」の音には、普段とはどことなく違う「昂(たか)ぶ」った響きがうかがえると言うのである。この「昂ぶり」も、やがては大いなる「闇」に「しづま」っていくことになる……。(清水哲男)




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