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2001ソスN12ソスソス2ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

December 02122001

 冬の谷寝返る方に落ちる音

                           橋本 薫

の山は眠っている。とは、古人の見立て。「山眠る」の季語がある。眠っているからには、山だって「寝返る」こともあるだろう。とは、作者の機知。面白い。山が寝返ると、どうなるのだろう。真っ暗やみなので、その様子は見ることができない。が、音がするのだ。聞こえるのだ。谷を走る川瀬の音が急に高まったり、吹き下ろす風の音がいきなり轟いたりと。そしてまた、やがていつもの静けさがもどってくる。私は中国山脈の奥の育ちだから、夜の山の音の変化には敏感なほうだと思う。とくに雪の夜の山は、しいんとしている。と言っても、まったく音がしていないのではなくて、敢えて言えば「しいんとした音」しか聞こえてこないのだ。それが気象の変化によって、突然に山が唸りだすことがある。熟睡しているはずの子供までもが、朦朧とではあっても、気がつくほどの音。たいていは「ああ、荒れてるなあ」くらいですませてしまっていたけれど、そうなのか、実はあれは山の寝返りの音だったのか。……と、そう思うと楽しい気分になってくる。何度か書いてきたように、私は句作が安易に陥りやすいので、擬人法の使用は好まない。しかし、これほど破天荒な発想で用いいられてみると、まんざら捨てたものではないなと思ったことである。『夏の庭』(1999)所収。(清水哲男)


December 01122001

 病院へゆく素手さげて十二月

                           石原舟月

を読んではっと気づかされるのは、ふだんの月とは違い、十二月はたしかに手に荷物を提げることの多い月ということだ。とくに月の後半ともなれば、なにやかやと両手に提げて歩くことになる。しかし、これは健康者の日常だ。作者は「病院にゆく」だけなのだから、いつものように何も提げていく必要はない。そんな病者の目には、行き交う人の荷物を提げている姿が、ことのほか鮮やかに見えるのである。俺が提げているのは「素手(すで)」でしかないと、あらためて師走の風に病身の切なさを思っている。「素手さげて」という措辞が、言外に街ゆく人のありようを描き出していて適切だ。当たり前のことながら、立場が違えば十二月観も異なる。杉山岳陽に「妻として師走を知りしあはれさよ」があって、これもその一つ。新婚はじめての師走である。彼女の独身時代には、あれこれと楽しい会合などもあったはずの月だが、家庭に入ればそうはいかない。正月の用意やら浮世の義理を果たす用事やらで、なかなか自分の時間を持つことができない。忙しく立ち働く妻の心情をおもんぱかって、作者は可哀想にとも思い、いとしいとも思っている。さて、読者諸兄姉に、今年の十二月はどんなふうに写っているのだろうか。『新日本大歳時記・冬』(1999・講談社)所載。(清水哲男)


November 30112001

 しかるべく煮えて独りの牡丹鍋

                           飯島晴子

語は「牡丹鍋(ぼたんなべ)」で冬。「猪鍋(ししなべ)」とも言い、猪の肉と野菜を煮込む味噌仕立ての鍋料理だ。これを「牡丹鍋」と言うのは、「牡丹に唐獅子」の「獅子」の発音に引っかけてある。まるで判じ物だ。さて、私にも覚えがあるが、独りで食べる鍋料理ほど侘(わび)しいものは、めったにあるものではない。何人かで、にぎやかに食べてこその鍋物である。そもそも鍋料理の発想が、そのことを前提としている。すなわち、鍋を囲む人たちも御馳走のうちというわけだ。それを、これから作者は独りで食べようとしている。鍋を据えたとたんから、もう侘しさを感じはじめていただろう。そこで句の勝負どころは、誰もが感じるこうした独りの侘しさを、いかに独自の発想でまとめあげるかということになる。「独りの牡丹鍋」と言うだけで、侘しい気分は十二分に露出してしまう。追い討ちをかけるように、それこそ「侘しい」などという言葉を折り込んだら、煮えすぎた鍋のように食えたものではあるまい。で、苦吟一番、「しかるべく」とひねりだした。周囲に誰もいなくても、煮えてくる状態は、みんなで囲んでいるときと同じであると……。いつもと同じ鍋の活気を詠むことで、対照的に作者の侘しい気持ちが句に極まった。『寒晴』(1990)所収。(清水哲男)




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