母校立川高校百周年記念祝賀会。「少年の日はそこに在り都立高」(舞沢さゆら)三橋敏雄選より。




2001ソスN12ソスソス9ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

December 09122001

 それがまた間違いファクス十二月

                           小沢信男

人との会話を、そのまま句にしている。我が家でもそうだが、「ファクス」が届くと「誰からだった?」と聞かれたり聞いたりする。そこで作者は「それがまた間違いファクス」でね、やっぱり「十二月」だなあ、忙しいので間違えちゃうんだよ、と……。古来、当月のあわただしさはいろいろに表現されてきたが、掲句はそれをさらりと現代風にとらえてみせている。そう言えば、ちょうど今頃だ。数年前に届いた「間違いファクス」に、あわてふためいたことがある。旅行会社からで、正規の受取人にとっては急を要する内容だった。受取人は海外ツァーのキャンセル分を申し込んでいたらしく、文面にはキャンセルが出たので三日後の出発が可能になったとある。ついては、折り返し至急返事を寄越すようにというのだけれど、これには弱りましたね。間違いなのだから他人事なのだからと、冷たく放ってはおけない。正規の受取人に連絡しようにも、名前しかわからないのでお手上げだ。ならば旅行会社にと、よくよく見ても、肝心の会社名や電話番号のあたりがかすれてしまっていて、判読できない。ようやく発見した手がかりは、送信文の上のほうににつけられていた会社のファクス番号とおぼしき数字であった。これっきゃないと、そこに間違いの旨を送信しておいたのだが、正規の受取人は果たしてちゃんと旅行に行けただろうか。旅行会社からは、ウンでもなければスーでもなかった。『足の裏』(1998)所収。(清水哲男)


December 08122001

 ヒマラヤの麓に古りし暦かな

                           山本洋子

国に取材した句に、佳句は少ない。が、掲句はいただきだ。季語は「古りし暦(古暦)」で冬。使用中の今年の暦だが、来年用の暦が出回りだすと、古暦という感じになる。考えてみると、暦は目に見えない自然の時の流れを目に見えるようにした装置なわけで、実によくできている。装置の形態は種々に変化してきたが、人類最古の文化的所産の一つと言ってよい。暦の必要は、自然現象に関心を抱かざるを得ない生活から発しているはずだ。この国の農事暦などを見ると、そのことが実感される。そういうことからすると、野暮ったい暦のほうが本来の暦なのであり、昨今私たちの部屋にあるような洗練されたデザインのものは、自然現象に関心の希薄な人々のものでしかない。洗練は、自然から遠く離れたところで成立する文化なのだ。いまの「ヒマラヤの麓(ふもと)」では、どんな暦を使っているのだろうか。行ったことが無いのでわからないが、この暦は私たちのものよりも、自然を強く意識して作られているはずなので、見た目には野暮ったいかもしれない。しかしそれがどんな暦にせよ、「古りし暦」が季語として濃密に感じられるのは、現代の日本でよりも、こういう風土のところでだろう。私たちよりもずっと「暦とともにある」人々の生活が、あれこれと想像されて、とても味のある句だと思った。「俳句年鑑」(2002年版・角川書店)所載。(清水哲男)


December 07122001

 実のあるカツサンドなり冬の雲

                           小川軽舟

語は「冬の雲」。季節によって雲の表情は変化するので、それぞれの季節を冠して季語として独立している。「冬の雲」は暗く陰鬱なものと、晴れた日の美しく晴朗なものとがある。掲句の雲はどちらだろうかと一瞬戸惑って、前者だろうと判断した。すなわち「実(じつ)のあるカツサンド」のように、ずっしりとした分厚い雲だ。たしかに「カツサンド」には、実のあるものとないものとがある。いくらカツの量が多くても、パンとしっくり合っていなくて、お互いにソッポを向いているようなのがある。食べるときに、両者がとにかく意地悪く分離してしまい、始末におえない。そこへいくと、たとえば私の好きな「井泉」のそれは、まことに両者の肌合いがしっくりいっており、特別にカツが大きいわけじゃないのに、作者言うところの「実」があるとしか言いようがないのだ。この「実のある」という措辞を「カツサンド」に結びつけたセンスの良さ。加えて、食べた後(最中でもよい)の満足感を「冬の雲」に反射させた感度の良さに感心した。「実のあるカツサンド」を食べたからこその「冬の雲」は、単に陰鬱とは写らずに、むしろ陰鬱の充実した部分だけが拡大されて写る。そうした「冬の雲」の印象は誰にでもあるはずなのに、それを作者がはじめて言った。ささやかであれ、一般的に満ち足りた心は、直後(最中)の表現などはしない、いや、できない。そこのところを詠んだ作者の粘り腰に、惚れた。俳誌「鷹」(2001年4月号)所載。(清水哲男)




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