December 112001
あばずれと人がつぶやく桜鍋
岡田史乃
季語は「桜鍋」で冬。馬肉を味噌仕立て、またはすき焼き風にする鍋料理のこと。馬肉は牛肉などとは違い紅みが濃いので、「桜」という異称が生まれた。さて、また「あばずれ」とは懐かしいような言葉だ。辞書的に言うと、悪く人ずれがして厚かましいこと。また、そのような者、および、そのさま。古くは男女ともに言ったが、現在では女性に限って言う。いわゆる「すれっからし」である。鍋の席で、いささかはしゃいで声高に誰かれとしゃべっていたら、少し離れた席で「人」が「あばずれ」と低くつぶやくのが聞こえてしまった。つぶやきだから、誰に向けられたものでもないかもしれない。が、つぶやいた「人」と作者との関係において、直感的に自分に向けられた気がしたのだ。途端に、すっと楽しさが醒めてしまった。「人」とぼかしているのは、その「人」の名前を隠そうというのではなく、もっと広がりのある「人々」を暗示させたかったのだと思う。「人」は、ここで「人々」であり「みんな」なのであり、もっと言えば「世間」なのである。ああ、この席で談笑している「みんな」は、腹の中では私のことをそう思っているのか……。単なる妄想に過ぎないと、そんな気持ちを打ち消そうとはするのだが、打ち消せない自分がいる。どうにもならない。境遇的に、あるいは身体的に弱っているとき、誰にでもこういうことは起きるだろう。『浮いてこい』(1983)所収。(清水哲男)
December 102001
数へ日の素うどんに身のあたたまり
能村登四郎
季語は「数へ日」で冬。日数の残りも少ない年末のこと。感覚的には、まだ少し早いかもしれない。が、あらためて壁のカレンダーをを見ると、今年もあと三週間しか残していない。これからは何かと慌ただしく、一瀉千里で今年も暮れていくのだ。忙しいということもあるが、そんな思いのなかでの独りの外食は、見た目にデコラティブな料理よりも、シンプルの極みたいなものがしっくりと来る。「素うどん」などは、その典型だ。とりあえずの「身のあたたまり」ではあるだろう。が、もう少し「素うどん」を敢えて句にした作者の実感に迫っておけば、シンプルな食べ物からしか受けることのできない恩寵に、ひとりでに感謝する響きが込められている。おかげで「身」も暖かくなった。そして、心の内もまた……。年末の多忙は、多く整理の多忙だ。来る年を迎えるために、身辺も心の内もさっぱりとしておきたい。その気持ちが、たとえば「素うどん」の「素」にすんなりとつながっていく。そういうことだと掲句を読み、今日はどこかの立ち食いの店で「素うどん」を食べたくなった。それも「七味」ではなく「一味唐辛子」を、さっと振りかけて。『人間頌歌』(1990)所収。(清水哲男)
December 092001
それがまた間違いファクス十二月
小沢信男
家人との会話を、そのまま句にしている。我が家でもそうだが、「ファクス」が届くと「誰からだった?」と聞かれたり聞いたりする。そこで作者は「それがまた間違いファクス」でね、やっぱり「十二月」だなあ、忙しいので間違えちゃうんだよ、と……。古来、当月のあわただしさはいろいろに表現されてきたが、掲句はそれをさらりと現代風にとらえてみせている。そう言えば、ちょうど今頃だ。数年前に届いた「間違いファクス」に、あわてふためいたことがある。旅行会社からで、正規の受取人にとっては急を要する内容だった。受取人は海外ツァーのキャンセル分を申し込んでいたらしく、文面にはキャンセルが出たので三日後の出発が可能になったとある。ついては、折り返し至急返事を寄越すようにというのだけれど、これには弱りましたね。間違いなのだから他人事なのだからと、冷たく放ってはおけない。正規の受取人に連絡しようにも、名前しかわからないのでお手上げだ。ならば旅行会社にと、よくよく見ても、肝心の会社名や電話番号のあたりがかすれてしまっていて、判読できない。ようやく発見した手がかりは、送信文の上のほうににつけられていた会社のファクス番号とおぼしき数字であった。これっきゃないと、そこに間違いの旨を送信しておいたのだが、正規の受取人は果たしてちゃんと旅行に行けただろうか。旅行会社からは、ウンでもなければスーでもなかった。『足の裏』(1998)所収。(清水哲男)
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