忘年会三連投(笑)。昔はエースを自負していたが、今では中継ぎばかり。二次会はすべて欠礼。




2001ソスN12ソスソス13ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

December 13122001

 美しく耕しありぬ冬菜畑

                           高浜虚子

語は「冬菜(ふゆな)」で、むろん冬季。初秋に種を蒔き、冬に収穫する白菜、小松菜、水菜など菜類の総称だ。仕事やら浮世の義理やらなにやらで、とかく人事雑用に追いまくられる定めの師走である。今日も用事を抱えてせかせか歩いているうちに、住宅街の外れの畑地に出た。「ほお」と、思わずも足が止まった。満目枯れ果てたなかに、そこだけ緑鮮やかな「冬菜」が展開している。この光景だけでも十分に美しいが、それを虚子は一歩進めて「美しく耕しありぬ」と、耕した人への思いを述べた。見知らぬその人の日頃の丹精ぶりに、敬意をこめた挨拶を送っている。人の仕事とはかくあるべきで、比べれば、歳末の雑事多忙などの大半は刹那的な処理の対象でしかない。そんな思いも、作者の脳裏をかすめただろう。我が家の近所にも、昔ながらの畑地がある。四季を問わず、ときどき見に行く。行くといつでも、深呼吸をしたくなる。かつての農家の子供のころには、ごく当たり前でしかなかった平凡な光景が、いまでは何かとても尊い感じに受け取れるようになった。掲句を読んで、それが畑地と関わる人の日常的な営為への心持ちであることが、はっきりとわかった。『五百五十句』(1943)所収。(清水哲男)


December 12122001

 ボーナスやビルを零れて人帰る

                           辻田克巳

語は「ボーナス」で冬。六月にも出るけれど、十二月のほうがメインということだろう。最近は給料と同様に、銀行振込みの会社がほとんどだ。「列なして得しボーナスの紙片のみ」(丁野弘)なのだから、昔を知る人にはまことに味気ない。掲句は、現金支給時代のオフィス街での即吟と読める。ボーナス日の退社時に、ビルから人が出てくる様子を「零(こぼ)れて」とは言い得て妙だ。ボーナスの入った封筒を胸に家路を急ぐ人ばかりだから、みな足早に出てくる。まさか押し合いへし合いではないにしても、ちょっとそんな雰囲気もあり、普段とは違って溢れ「零れて」出てくる感じがしたのである。家では妻子が、特別なご馳走を用意して「お父さん」の帰りを待っていた時代だ。我が家では、たしかすき焼きだったと思う。そんな社会的背景を意識して読むと、句の「人」がみな、とてもいとおしく思えてくる。誰かれに「一年間、ご苦労さま」と、声をかけてあげたくなるではないか。昔はよかった。それがいつの頃からか、ボーナスが真の意味でのボーナスではなくなり、完全に生活給になってしまった。「ボーナスは赤字の埋めとのたまへり」(後藤紅郎)と、一家の大黒柱も力なく笑うしかなくなったのである。『新日本大歳時記・冬』(1999・講談社)所載。(清水哲男)


December 11122001

 あばずれと人がつぶやく桜鍋

                           岡田史乃

語は「桜鍋」で冬。馬肉を味噌仕立て、またはすき焼き風にする鍋料理のこと。馬肉は牛肉などとは違い紅みが濃いので、「桜」という異称が生まれた。さて、また「あばずれ」とは懐かしいような言葉だ。辞書的に言うと、悪く人ずれがして厚かましいこと。また、そのような者、および、そのさま。古くは男女ともに言ったが、現在では女性に限って言う。いわゆる「すれっからし」である。鍋の席で、いささかはしゃいで声高に誰かれとしゃべっていたら、少し離れた席で「人」が「あばずれ」と低くつぶやくのが聞こえてしまった。つぶやきだから、誰に向けられたものでもないかもしれない。が、つぶやいた「人」と作者との関係において、直感的に自分に向けられた気がしたのだ。途端に、すっと楽しさが醒めてしまった。「人」とぼかしているのは、その「人」の名前を隠そうというのではなく、もっと広がりのある「人々」を暗示させたかったのだと思う。「人」は、ここで「人々」であり「みんな」なのであり、もっと言えば「世間」なのである。ああ、この席で談笑している「みんな」は、腹の中では私のことをそう思っているのか……。単なる妄想に過ぎないと、そんな気持ちを打ち消そうとはするのだが、打ち消せない自分がいる。どうにもならない。境遇的に、あるいは身体的に弱っているとき、誰にでもこういうことは起きるだろう。『浮いてこい』(1983)所収。(清水哲男)




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