毎年愛用していたのに、某銀行が来年用のカレンダーを作らなかった。銀行株が売られていますね。




2001ソスN12ソスソス17ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

December 17122001

 足袋の持つ演劇的な要素かな

                           京極杞陽

語は「足袋(たび)」で冬。女性用は白足袋、男性用は紺色ないしは黒色で、礼装用は男女ともに白足袋である。作者がどんな場面でこう感じたのかは知らねども、言われてみれば、なるほどと得心がいった。たしかに足袋は靴下などよりも、よほど芝居がかって見える。1968年の作だから、もはや足袋をはく人も少なくなっていたころなので、なおさらだ。もっとも作者は、世が世であれば豊岡藩(兵庫県)のお殿様となったはずの人ゆえ、足袋には一般人よりも縁は深かったにはちがいないが……。したがって「演劇的な要素」があることにも、よほど敏感だったのだろう。戦後の吉田茂首相の白足袋姿は有名だったが、彼もまたそこらへんの事情を承知しての演技だったのだろうか。それにしても、「演劇的な要素」なる観念語を無造作に句に放り込んだ(と見えるように、故意に仕掛けた)手法は面白い。作者が虚子の弟子であることを知れば、ますます面白い。句の発想を得た具体的なシーンを写生して上手に詠めば、句意としてはほぼ同意の作品ができるはずだ。が、作者はあえてそうしなかった。たぶん「ハイクハイクした句」に、飽き飽きしていたのだと思う。すなわち裏をかえせば、この句こそが、実は足袋なんかよりもよほど「演劇的な要素」に満ちているの「かな」(笑)。でも、たまには精神衛生上、こういう句もよい。気に入っちゃった。『露地の月』(1977)所収。(清水哲男)


December 16122001

 刻かけて海を来る闇クリスマス

                           藤田湘子

リスマスは、言うまでもなくキリストの降誕を祝う日である。その祝いの日をやがては真っ暗に覆い隠すかのように、太古より「刻(とき)かけて」、はるかなる「海」の彼方より近づいてくる「闇」。人間にはとうてい抗いがたい質量ともに圧倒的な暗黒が、ゆっくりと、しかし確実に接近してきつつあるのだ。この一年を振り返るとき、一見観念的と思える掲句が、むしろ実感としてこそ迫ってくるではないか。知られているように、キリストは夜に生まれた。いま私たちに近づいてくる「闇」は、彼の生まれた日の夜のそれと同様に邪悪の気配にみなぎっており、しかも生誕日の暗黒とは比較にならぬほどの、何か名状しがたいと言うしかないリアリティを確保しているようだ。キリスト教徒ではないので、私にはこの程度のことしか言えないけれど、いまこそ宗教は意味を持つのであろうし、また同時に、人間にとっての真価は大きく問い返されなければならぬとも思う。「聖夜」の「聖」、「聖戦」の「聖」。俗物として問うならば、どこがどう違うのか。しかし、そんなことは知ったことかと、海の彼方から今このときにも、じりじりと掲句の「闇」は接近中だ。何故か。むろん、他ならぬ私たち人間が、太古よりいまなお呼び寄せつづけているからである。メリー・クリスマス。「俳句研究」(2002年1月号)所載。(清水哲男)


December 15122001

 寒柝やしばし扉の開く終電車

                           守屋明俊

語は「寒柝(かんたく)」で冬。火事の多い冬季に、火の用心のために「柝(たく・拍子木)」を打ちながら夜回りをする。「火の用心、さっしゃりましょーっ」と回る、あれだ。その拍子木の音のことを「寒柝」と言う。さて、深夜の郊外の駅である。「終電車」の扉が開いて、どこか遠くのほうから柝を打つ音が聞こえてきた。ああそんな時間かと、あらためて思う。大半の人たちが、もう床に就いている時間だ。仕事で遅くなったのか、あるいは飲んでの帰りか。いずれにしても、一刻も早く帰宅したいのが終電車の乗客の心理だ。日中の「しばし」の停車ならさして気にもとめないところだが、深夜の「しばし」は本当にひどく長く感じられる。が、扉は無情にも「しばし」開いたままなのだ。すっかり客もまばらになった車内には、冷たい夜気が容赦なく流れ込んでくる。そこへまた、遠くからかすかに柝を打つ音が……。終電車の客の侘しい心持ちが、聞こえてきた「寒柝」でいっそう際立った。明日が休日というのならばまだしも、この侘しさは、明日も朝から出勤という身の侘しさにちがいない。この独特の侘しさに、思い当たる読者も少なくないだろう。『西日家族』(1999)所収。(清水哲男)




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