この何年か、歳末から正月にかけて詩人仲間の厄日がつづいた。みなさん、元気でいてください。




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December 25122001

 椅子かつぐひとにつづけり年の暮

                           田中正一

具屋の店員が配達の「椅子」をかついでいると読んでは、面白くない。当たり前にすぎるからだ。そうではなくて、たとえばスーツ姿のサラリーマンがかついでいる。普段ならよほど奇異に見えるはずだが、この時期であれば年用意のためと思えるので、不思議には感じない。きっと年内配達は無理と言われ、それならばと自分で引っかついで帰るところなのだろう。後ろを行く作者は、そんなふうに納得している。納得しないと、とても「椅子かつぐひと」につづくことなどは不気味でできない。歳末ゆえ、奇異とも思わずにつづくことができるわけだ。普段とは違う「年の暮」の街の状態を、一脚の「椅子」の扱われようで簡潔に描き出していて秀逸である。それにしても、この人。このあとで電車に乗るようなことがあったら、車内の座席ではなく、この「椅子」に腰掛けていくのだろうか。愉快な図だ。とまあ、これは句意に関係はないけれど……。このように、歳末ともなると、電化製品など大きな荷物を運ぶ人が増えてくる。そこが泥棒の付け目だと、聞いたことがある。どこやらの放送局から、スタンウェイだったかの高価なピアノを、四五人の男が白昼堂々と運び去ったのも、やはりこの時期だったように思う。ご用心。『昭和俳句選集』(1977)所載。(清水哲男)


December 24122001

 大阪に出て得心すクリスマス

                           右城暮石

日前の土曜日の夜。麹町のラジオ局での仕事が終わって、何人かと半蔵門の中華料理屋に立ち寄った。入り口には、豪華なクリスマスツリーが飾ってあった。中華料理と聖樹。そぐわないなと思っていたら、出がけに中国人の元気の良い女店員が言った。「忙しいです。クリスマスが終わったら、すぐにお正月のアレ立てないと」。ショーバイ商売というわけか。なんとなく「得心(とくしん)」した。で、帰宅してから片山由美子の『鳥のように風のように』を読んでいるうちに、紹介されている杉良介の「人を待つ人に囲まれ聖誕樹」が目にとまった。なるほどねえ。この句にも、すぐに「得心」がいった。掲句の作者の「得心」も似たような種類のものだろう。とくに昔の田舎暮らしだと、マスコミ情報としてのクリスマス騒ぎは伝わってきても、実感にはほど遠い。ところが、たまたま大都会の「大阪」に所用で出かけて行ったら、なるほど宗教など関係なしのツリーやらイルミネーションやらで、街は実にきらびやかにしてにぎやかだった。「ほほお」と作者は、一も二もなく「得心」させられたというわけだ。いささかの皮肉も込められてはいるのかもしれないが、むしろ目を真ん丸くしている作者の純な気持ちのほうがクローズアップされていると読んだ。『合本俳句歳時記』(1997・角川書店)所載。(清水哲男)


December 23122001

 ゆく年を橋すたすたと渡りけり

                           鈴木真砂女

年も暮れてゆく。そう思うと、誰しも一年を振り返る気持ちが強くなるだろう。「ゆく年(行く年)」の季題を配した句には、そうしたいわば人生的感慨を詠み込んだ作品が多い。そんななかで掲句は、逆に感慨を断ち切る方向に意識が働いていて出色だ。作者にとってのこの一年は、あまり良い年ではなかったのだろう。思い出したくもない出来事が、いくつも……。だから、あえて何も思わずに平然とした素振りで、あくまでも軽快な足取りで「すたすたと」渡っていく。このときに「橋」は、一年という時間の長さを平面の距離に変換した趣きであり、短い橋ではない。大川にかかる長い橋だ。冷たい川風も吹きつけてくるが、作者は自分で自分を励ますように「すたすた」と歩いてゆくのである。話は変わるが、今日は天皇誕生日。諸歳時記に季語として登録されてはいるけれど、例句も少なく佳句もない。戦前の「明治節」や「天長節」とは、えらい違いだ。清水基吉さんから最近送っていただいた『離庵』(永田書房)に、こんな句があった。「なんといふこともなく天皇誕生日」。多くの人の気持ちも、こんなところだろうか。『新日本大歳時記・冬』(1999)所載。(清水哲男)




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