2002N1句

January 0112002

 花火もて割印とせむ去年今年

                           和湖長六

語は「去年今年(こぞことし)」で新年。午前零時を過ぎれば大晦日も去年であり、いまは今年だ。掲句は、おそらくカウントダウン・ショーで打ち上げられる「花火」を見ての即吟だろう。華やかに開きすぐに消えていく「花火」を「割印(わりいん)」に見立てたところが機知に富んでいるし、味わい深い。「割印」といえば、互いに連続していることを証するために、印鑑を二枚の書面にまたがるようにして捺すことである。何ページかにまたがる重要書類などに捺す。それを掲句では、去年と今年の時の繋ぎ目に「花火」でもって捺印しようというのだから、まことに気宇壮大である。と同時に、捺しても捺しても、捺すはしから消えていくはかなさが、時の移ろいのそれに、よく照応している。高浜虚子の有名な句に「去年今年貫く棒の如きもの」がある。このときに虚子は「棒の如きもの」と漠然とはしていても、時を「貫く」力強い自負の心を抱いていた。ひるがえって掲句の作者には、そうした確固たる自恃の心は持ちようもないというわけだ。精いっぱい気宇を壮大にしてはみるものの、気持ちにはどこかはかなさがつきまとう。多くの現代人に共通する感覚ではあるまいか。『林棲記』(2001)所収。(清水哲男)


January 0212002

 封切れば溢れんとするかるたかな

                           松藤夏山

語は「かるた(歌留多)」で新年。カルタ(語源はポーランド語、イスパニア語という)にもいろいろ種類があるが、この場合は小倉百人一首による歌ガルタだろう。正月のカルタ会。若い男女の交際の場にもなったので、戦前まではとくに盛んだったらしい。歌ガルタは子供用のいろはカルタなどとは違い厚みがあるので、新しいカルタの紙封を切ると、実際「溢れ」るように箱から盛り上がる。その瞬間をとらえた掲句は、作者の弾む心と照応している。楽しい気分の盛り上がりをカルタのそれに託したところが、いかにも言い得て妙だ。私の若い頃には、もう歌カルタは一般的にはすたれかけており、それでも数度カルタ会に参加した記憶はある。最初は急な呼びかけだったので、百人一首を諳んじていない当方としては、大いにあわてた。窮余の一策で数種だけ覚えて出かけ、それだけをひたすら待ちかまえて取ったのだった。なかで、今でも覚えているのは「天つ風雲の通ひぢ吹きとぢよ乙女のすがたしばしとどめむ」くらいかな。子供時代はいろはガルタ専門で、幼年期に最初に買ってもらったカルタには、昨年亡くなった横山隆一の漫画キャラクター「フクちゃん」の絵が描かれていた。『新歳時記・新年』(1990・河出文庫)などに所載。(清水哲男)


January 0312002

 双六のごとく大津に戻りをり

                           鈴木鷹夫

語は「双六(すごろく)」で新年。歌ガルタよりもすたれた正月の遊びが、双六だろう。今の子には、もっと面白い遊びがある。私の子供の頃には、少年雑誌の附録に必ず双六があった。組み立てて使うサイコロの付いていたところが、いかにも敗戦直後的。掲句だが、昔の双六の上がりは「京」と決まっていたけれど、近くの「大津(滋賀県)」あたりまで行くと、なかなか上がれない仕組みになっていた。今度こそとサイコロを振っても、また「元に戻る」と出て「大津」に戻される。作者は実際に正月に旅をしているわけだが、何か大津に忘れた用事でも思い出したのか。京都に入る直前から、また大津に取って返した。これではまるで双六みたいだと、苦笑している。ところで『新日本大歳時記・新年』に、草間時彦がこんな文章を寄せていた。初句会では、よく双六などのすたれた遊びも席題となる。「双六という題を貰った俳人は、どうやって句を作ればよいというのだろう。正月の季語の源泉となるしきたりや行事が亡びつつある現代で、正月の季題を詠むにはノスタルジアに頼るよりほかにない。子供の頃をなつかしく思う心である。双六のさいころが青畳の上にころげていたときの思いを現代に生かすのが正月の俳句の作句法だと私は思っている」。同感するしかないが、となれば、掲句はそのノスタルジアを現代に生かした好例と言うべきか。『合本俳句歳時記』(1997・角川書店)所載。(清水哲男)


January 0412002

 初仕事コンクリートを叩き割り

                           辻田克巳

語は「初仕事(仕事始)」で、まだ松の内だから新年の部に分類する。建設のための破壊ではあるが、まずは「コンクリートを叩き割る」のが仕事始めとは、一読大いに気持ちがすっきりした。たぶん「叩き割」っているのは作者ではなく、たまたま見かけた光景か、あるいはまったくの想像によるものか。いずれにしても、作者には何か鬱積した気持ちがあって、そんなこんなを力いっぱい「叩き割」りたい思いを、掲句に託したのだと思う。考えてみれば、誰にはばかることなく、何かを白昼堂々と物理的に「叩き割」れるのは、一部の職業の人にかぎられる。大木を伐り倒すような仕事も、同様の職業ジャンルに入るだろう。「叩き割る」や「伐り倒す」どころか、たとえば人前で大声を発することすら、ほとんどの人にはできない相談なのだ。したがって「叩き割る」当人の思いがどうであれ、この句に爽快感を覚えるのは、そうした私たちの日頃の鬱屈感に根ざしている。そういえば、私が最後に何かを叩き割ったのは、いつごろのことだったか。中学一年の教室での喧嘩で、友人の大切にしていたグラブにつける油の瓶を叩き割ったのが、おそらくは最後だろう。以来、コップ一つ叩き割らない日々が、もう半世紀近くもつづいている……。『新日本大歳時記・新年』(2000・講談社)所載。(清水哲男)


January 0512002

 やり羽子や油のやうな京言葉

                           高浜虚子

語は「やり羽子(遣羽子・やりばね)」で新年。「追羽子(おいばね)」「掲羽子(あげばね)」とも言い、羽子つきのこと。男の子の凧揚げは公園や河川敷などでまだ健在だが、女の子が羽子をつく光景はなかなか見られなくなった。娘たちが小さかったころに、ぺなぺなの羽子板を買ってきて一緒についたことも、もはや遠い思い出だ。掲句は昔から気にはなっているのだが、いまひとつよく理解できないでいる。むろん「油のやうな」の比喩にひっかかっての話だ。京都に六年間暮らしたが、彼の地の言葉が「油のやうな」とは、どのあたりの言い回しを指しているのだろうか。「油のやうな京言葉」と言うのだから、すべすべしているけれど粘っこく聞こえているのだと思う。そんなふうに思い当たる言葉が私にあるとすれば、たとえば女の子たちがよく使う「行きよしィ」「止めときよしィ」などと、語尾をわずかに微妙に引っ張る言い方だ。語尾は頻発されるので、地の者でない人の耳には「油のやうに」粘りつくのだろう。同時に、羽子をつく歯切れのよい音が混ざるのだからなおさらだ。と、そういうことなのかもしれない。いずれにしても、聴覚で正月の光景をとらえているところは面白い。作者は戸外にいるのではなく、宿の部屋でくつろいでいるのかもしれない。『虚子五句集』(1996・岩波文庫)所収。(清水哲男)


January 0612002

 ワインロゼほのかに残り姫始

                           斉藤すず子

語は「姫始(ひめはじめ)」で新年。不思議な季語だ。一般的には、たとえば矢島渚男の「姫始闇美しといひにけり」のように、新年最初の男女の交わりを指す季語と受け取られてきたようだ。「姫」という以上は、もちろん男からの発想である。だからだろう、ほとんどの歳時記には載せられていない。ならば、掲句はどうだろうか。ほのかなるエロティシズムが漂ってくるようでもあるけれど、しかし、作者は女性だ。女性が無頓着に男本位の季語を使うはずはあるまいと、この句が載っている歳時記の季語解説を読んでみて、やっと本意に近い解釈を得ることができたと思った。柴田奈美の解説を転記しておく。「正月二日。由来は諸説があるが、一説に『飛馬始』の意で、乗馬始の日とする。別説では火や水を使い始める『火水始』であるとする。また男女交合の始めとする説もある。妥当な説としては、『■■始』(清水註・肝心の「■■」の文字はJISコード外なので、パソコンの機種によっては表記されない。いずれも「米」に「扁」と「索」で「ひめ」と読む)つまり釜で炊いた柔らかい飯である姫飯(ひめいい)を食べ始める日とする説が挙げられる。強飯(こわめし)を食する祭りの期間が終わって、日常の食事に復するのが姫飯始、略して『姫始』となったと考えられる」。すなわち掲句は、お節料理から開放され、久しぶりにワインで洋食を味わった喜びを詠んでいるというわけだ。さして上手な句ではないが、「姫始」の本意を詠み込んでいるという意味で、貴重な現代句ではある。『新日本大歳時記・新年』(2000・講談社)所載。(清水哲男)


January 0712002

 日の暮のとろりと伸びし松納

                           福田甲子雄

語は「松納(まつおさめ)」で新年。門松を取り払うこと。昔の江戸では六日、京大阪では十四日に納めた。地方によって異なり、伊達藩では四日に取って「仙台様の四日門松」と言われたそうだ。いつまでも正月気分では藩内がたるんでしまうという、伊達家の生真面目さからだろう。いまの東京あたりでは、今日七日に取る家が多いようだ。いずれにしても、取り払うのは夕方である。いざ門松を取り払ってみると、周囲に漂っていた淑気が消え、一抹の寂しさを覚える。作者もそのように感じているのだが、冬至のころとは違い、やや「日の暮」も伸びてきている。沈んでいく夕陽を眺めやると、いささか「とろりと」もしてきたようで、季節は確実に春に向かっていることが実感された。そんな太陽の様子の形容を、時間のそれに移し替えたのが「とろりと伸びし」。すなわち、門松を取り払った物寂しさのうちにも、春待つ心が芽生えてきた喜びを詠んだ句だ。寂しさを寂しさのまま止めていないので、読者も「とろりと」暖かい心持ちになれる。ところで、今日は七草。次の句も「とろりと」暖かい。「末寺とて七草までを休みをり」(神蔵器)。『新日本大歳時記・新年』(2000・講談社)所載。(清水哲男)


January 0812002

 冬の雨花屋の全身呼吸かな

                           津田このみ

じ程度の降りなら、雪よりも「冬の雨」のほうが、実際の気温とは裏腹に寒く冷たく感じられる。暗くて陰鬱だ。『四季の雨』(作詞者作曲者ともに不詳)という文部省唱歌があって、歌い出しは「聞くだに寒き冬の雨……」と、まず寒いイメージが強調されている。そんな雨のなかを身をちぢめて歩いているうちに、「花屋」の前に出た。ぱっと明るい春の花屋に比べれば、冬の花屋の色彩はさすがにバリエーションに乏しい。乏しいけれど、店の花々はこの冷たい雨を受け入れ、「全身」ですこやかに「呼吸」しているように見えた。ひっそりと、しかし確実に充実した時間のなかにある花々に、作者は静かな感動を覚えたのである。花屋を色彩的にスケッチした句はよくあるが、掲句は花々の生理に就いて詠んでおり出色だ。他の季節とは違う「冬の雨」ならではの句景である。ちなみに『四季の雨』のそれぞれの季節は、次のように歌い出されている。「降るとも見えじ春の雨……」「俄(にわ)かに過ぐる夏の雨……」「おりおりそそぐ秋の雨……」。メロディーが、また素晴らしく美しい。『月ひとしずく』(1999)所収。(清水哲男)


January 0912002

 松過ぎの弁当つめてもらひけり

                           清水基吉

語は「松過ぎ」で新年。松の内が過ぎたころで、まだ新年の余韻が少し残っている。作者は大正七年生まれ。作者自身が弁当をつめてもらったとも解せるが、小学生か中学生の孫か曾孫がつめてもらったと読んでおきたい。そのほうが、句に暖かみが出ると思う。三学期の始業式も終わって、今日からいつものように弁当持参の学校生活がはじまる。子供にも、子供の日常が戻ってきたのだ。正月もこれでお終いだな。頭の片隅でちらりとそんなことを思いながら、「元気でがんばれよ」と声をかけてやりたくなる気分。弁当を受け取る孫はおそらく無表情だけれど、作者の表情にはおのずといつくしみの念が浮かんでいるだろう。ほほ笑ましい光景だ。ところで私見によれば、孫と猫を素材にした詩歌にはほとんどロクなものはない。どうしても目じりが下がり過ぎて、溺愛気味の筆の運びとなってしまうからだ。あの金子光晴にしてからが、そうだった(「若葉ちゃん」連作詩)。家族や親戚に読ませるのならばともかく、一般読者に差し出されても困ってしまう。この句は、そのあたりの機微をきちんとわきまえた上での作句だと思った。だから「つめてもらひけり」の主体が、意図的に隠されているのではあるまいか。読者に察してもらうことで、大甘な句になることから免れているのでは……。『離庵』(2001)所収。(清水哲男)


January 1012002

 冬青空いつせいに置く銀の匙

                           水野真由美

語は「冬の空」。曇りや雪の日の空は暗鬱で寒々しいが、晴れた日には青く澄みきって美しい。その美しさを、どう表現するか。たとえば「冬青空鈴懸の実の鳴りさうな」(中村わさび)という具合に地上の自然と呼応させるのが、俳句的常道だろう。悪くはないが、あくまでも静観の美しさだ。が、作者の場合は静観では飽き足らぬ思いがあり、アクションで呼応している。あまりの美しさに、食事中の「匙」を思わずも置くほどだと言うのである。それも作者ひとりだけではなく、地上のあちこちでたくさんの人々が「いつせいに」置いたと瞬間的に想像を伸ばしている。このときに「銀の匙」の「銀」とは、本物の「銀製」である必要はない。見事な青空に対すれば、どんな匙でも少し鈍色がかった銀色に見えるはずだ。決してキラキラとは輝いていない匙が「いつせいに」、それも無数に食卓に置かれたことで、いっそう冬空の青さが鮮烈に目に沁みてくる。さらに私の独断的想像を書いておけば、句が終わった途端に、アクションを起こした人々の姿も食卓も住居までもが「いつせいに」掻き消されてしまい、青空の下に残ったのは数多の「銀の匙」だけのような気がしてくる。そんな絵のような光景が浮かんできた。『陸封譚』(2000)所収。(清水哲男)


January 1112002

 雪つぶてまた投げ合うて別れかな

                           阿部慧月

語は「雪つぶて(雪礫)」で冬。雪合戦のときなどの雪玉だ。少年時代の回想だろう。句を読んで、ありありと一つの情景がよみがえってきた。田舎の雪道を、何人かで連れ立って帰る。ほとんどが一里の道を歩くのだが、同方向の者ばかりではないから、分かれ道に出るたびに、少しずつ人数が減っていく。そして、最後は一人になる。冬の山道は、日暮れが早い。暗くなりかけた遠くの山裾では、早くも明かりを灯している家がぽつりぽつりと……。心細くなって早足になりかけて、たいていはその途端だ。いきなり、背中に「雪つぶて」が飛んでくるのは。「来たっ」と思う。投げてきたのは、いましがた別れた奴である。こちらもパッとかがみ込み、振り向きざまに「なにくそ」と投げ返す。物も言わずに数個の応酬があってから、どちらからともなく「じゃあ、またあしたなあっ」と笑いながら大声をかけあって、我々の「儀式」は終わるのだった。そのときにはむろん、センチメンタルな感慨など覚えるはずもなかったけれど、回想のなかでは甘酸っぱい哀しみのような思いがわき上がってくる。その思いが「別れかな」の「かな」に込められている。奴と別れてから、もう何十年にもなる。いつも年賀状に「一度帰ってこいよ」と書いてよこす。『合本俳句歳時記・新版』(1988・角川書店)所載。(清水哲男)


January 1212002

 老いてゆく体操にして息白し

                           五味 靖

語は「息白し」で冬。句意は明瞭だ。年を取ってくると、簡単な動作をするにも息が切れやすくなる。ましてや連続動作の伴う「体操」だから、どうしても口で呼吸をすることになる。暖かい季節にはさして気にもとめなかったが、こうやって冬の戸外で体操をしていると、吐く息の白さと量の多さに、あらためて「老い」を実感させられることになった。一通りの解釈としてはこれでよいと思うけれど、しかしこの句、どことなく可笑しい。その可笑しみは、「老いてゆく」が「体操」にかかって読めることから出てくるのだろう。常識的に体操と言えば、老化防止や若さの維持のための運動と思われているのに、「老いてゆく体操」とはこれ如何に。極端に言えば、体操をすればするほど老いてゆく。そんな感じのする言葉使いだ。このあたり、作者が意識したのかどうかはわからないが、こう読むといささかの自嘲を込めた句にもなっていて面白い。ところで、この体操はラジオ体操だろうか。ラジオ体操は、そもそもアメリカの生命保険会社が考案したもので、運動不足の契約者にバタバタ倒れられては困るという発想が根底にあった。そんなことを思い合わせると、掲句は自嘲を越えた社会的な皮肉も利いてきて、ますます可笑しく読めてくる。『武蔵』(2001)所収。(清水哲男)


January 1312002

 麦の芽にぢかに灯を当て探しもの

                           波多野爽波

語は「麦の芽」で冬。冬枯れのなかに並ぶ若芽は、けなげな感じもあって印象深い。そのあたりを如何に詠むかが、俳人諸氏の腕の見せどころだ。たとえば虚子は「麦の芽の丘の起伏も美まし国」と、まことに美々しく詠んでいる。「美まし」は「うまし」。洒落るわけではないが「巧(うま)し」句ではある。類句とは言わなくとも、同じような情景の切り取り方をした句はゴマンとある。そんななかで、掲句は異色だ。麦畑を通りながら、不覚にも何か大切な物を落としてしまった。……と、帰宅してから気がついたのだろう。どう考えても、あのときにあのあたりで落としたようだ。もう日が暮れているので、懐中電灯を持って慌てて取って返す。で、たしかこの辺だったかなと見当をつけて懐中電灯のスイッチを入れた。その瞬間の情景をつかまえた句である。光の輪のなかに、とつぜん鮮やかに浮かび上がってきたのは当然ではあるが「麦の芽」だった。さて、読者諸兄姉よ。この瞬間に作者の目に写った「麦の芽」の生々しさを思うべし。こんなにも間近に、こんなにも「ぢかに」鮮やかに「麦の芽」を見ることなどは、作者にしても無論はじめてなのだ。「探しもの」が見つかったかどうかは別にして、この生々しさを句にとどめ得た爽波という人は、やはり只者ではない俳人だとうなずかれることだろう。晩年の作。1991年に、六十八歳で亡くなられた。もっともっと長生きしてほしい才能だった。『波多野爽波』(1992・花神コレクション)所収。(清水哲男)


January 1412002

 成人の日の大鯛は虹の如し

                           水原秋桜子

語は「成人の日」で、新年に分類する。大人になったことを自覚し、みずから生き抜こうとする青年を祝いはげます日。戦後にできた祝日だ。一月十五日と定めた(2000年から第二月曜日になった)理由は、おそらくは次の日が昔の奉公人の休日だった「薮入り」と関係しているのだろう。「薮入り」で父母のもとに帰ってくる若者たちは、いちだんと成長して大人びてくる。物の本によれば、この日を鹿児島地方では「親見参(おやげんぞ)」と呼び、離れて暮らす子供らが親を見舞う日になっていたそうだ。「成人の日」が法制化された敗戦直後の工場や商家などには、こうした風習がきちんと残っていただろうから、その前日を祝日にしたのは「大人になった自覚」云々の趣旨よりも、むしろハードに働く若者たちに連休を与えてやろうという「民主主義国家」としての「親心」が働いていたのではあるまいか。いわば「隠し連休」というわけで、粋なはからいだったのだと思いたい。掲句に解説の必要はなかろうが、子供の成人を「大鯛」でことほぐことが、決して大袈裟でも何でもない時代があったことが知れ、興味深く読める。それほどに、当人も親たちも「成人」のめでたさを実感できる社会の仕組みのなかで生きていたのだ。『合本俳句歳時記・新版』(1988・角川書店)などに所載。(清水哲男)


January 1512002

 上流や凍るは岩を押すかたち

                           ふけとしこ

語は「凍(こお)る」で冬。寒気のために物が凍ることだけではなく、凍るように感じることも含む。川の上流は自然のままなので、岩肌がゴツゴツと露出している。厳寒期になって飛沫がかかれば、当然まずは岩肌の表面から凍っていくだろう。そして、だんだんと周辺が凍ることになる。その様子を指して、凍っていく水が「岩を押すかたち」に見えるというのだ。「凍る」という現象を視覚的な「かたち」に変換したことで、自然の力強さが読者の眼前に浮かび上がってくる。なるほど、たしかに岩が押されているのだ。掲句を読んだ途端に、大串章に「草の葉に水とびついて氷りけり」があったことを思い出した。言うならば岩を飛び越えた飛沫が「草の葉」にかかった情景を、繊細な観察力で描き出した佳句である。岩を押す力強さはなくても、これもまた自然の力のなせるわざであることに変わりはない。再び、なるほど。たしかに草の葉はとびつかれているのだ。岩は押され、草の葉はとびつかれと、古来詠み尽くされた感のある自然詠にも、まだまだ発見開拓の期待が持てる良句だと思った。「ホタル通信」(22号・2002年1月8日付)所載。(清水哲男)


January 1612002

 寒雷や針を咥へてふり返り

                           野見山朱鳥

語は「寒雷(かんらい)」で冬。冬の雷のことだが、冬に雷は少ない。少ないからこそ、鳴ったり光ったりすれば、一瞬何事かと音や光りの方角を自然の勢いで見やることになる。その一瞬をつかまえた句だ。しかも「ふり返」った人は、偶然にも「針を咥へて」いた。雷と針。物理的に感電しそうだとか何とか言うのではなく、いかにも犀利でとがった印象を受ける現象と物質とが瞬間的に交叉し光りあったような情景のつかみ方が面白い。現代語で言えば、「しっかりと」構図が「決まっている」。さて、この「針」であるが、私には待針(まちばり)だと思えた。したがって、ふり返ったのは女性である。妻か母親だろう。待針は裁縫で縫いどめのしるしとし、あるいは縫い代を狂わないように合わせて止めるために刺す針のことだ。一度に何本も刺さなければならないので、大工が釘を咥(くわ)えて打つのと同じ理屈で、何本かを口に「咥へて」いるほうが能率的である。たいていは、頭にガラス玉か花形のセルロイドなどが付いていたので、咥えやすいという事情もあった。それにしても掲句は、よほど研ぎ澄まされた神経でないと見過ごしかねない情景を詠んでいる。作者の人生の三分の一が不幸にも病床にあったことは、既に何度か書いた。『曼珠沙華』(1950)所収。(清水哲男)


January 1712002

 大仏の冬日は山に移りけり

                           星野立子

子は鎌倉の人だったから、長谷の「大仏」だろう。何も技巧を弄することなく、見たままに詠んでいる。いままで大仏にあたっていた「冬日(ふゆび)」が移って、いまはうしろの山を照らしている。それだけのことを言っているにすぎないが、大きな景色をゆったりと押さえた作者の心持ちが、とても美しい。それまでにこの情景を数えきれない人たちが目撃しているにもかかわらず、立子を待って、はじめて句に定着したのだ。それもまだ初心者のころの作句だと知ると、さすがに虚子の娘だと感心もし、生まれながらに俳人の素質があった人だと納得もさせられる。いや、それ以前に立子の感受性を育てた周囲の環境が、自然に掲句を生み出したと言うべきか。短気でせっかちな私などには、逆立ちしても及ばない心境からすっと出てきた句である。なお参考までに、山本健吉の文章を紹介しておく。「俳句の特殊な文法として、初五の『の』に小休止を置いて下へつづく叙法があるが、この場合は休止を置かないで『大仏の冬日は山に』と、なだらかに叙したものである。それだけに俳句的な『ひねり』はなく、単純な表現だが、淡々としたなかに、大づかみにうまく大景を捕えている」。……この「単純な表現」が難しいのですよね。『立子句集』(1937)所収。(清水哲男)


January 1812002

 日脚伸ぶ卓に就職情報誌

                           山本ふく子

代一景。季語は「日脚伸ぶ(ひあしのぶ)」で冬。太陽の東から西への動きが「日脚」だ。冬至を過ぎると徐々に昼の時間が伸びてくる理屈だが、それが実感されるのは、暦の上では春も間近い今頃くらいからだろう。「こんな時間なのに、まだ明るい」と思うことがある。なんとなく嬉しくなったりする。作者もおそらくはそんな気持ちになったのだろうが、ふと卓上を見ると「就職情報誌」が置いてある。置いたまま外出したのは、この春に卒業する高校生か大学生の子供だろうか。いずれにしても、職を求めている家人がいるのだ。年が改まっても、まだ就職先が決まらないとなると、当人はもとより親としても大いに気がもめる。心配である。このときに作者は、あらためてまじまじと「就職情報誌」の表紙を見つめたにちがいない。こうなると、逆に「日脚伸ぶ」の季節の到来が恨めしくも感じられてくる。一般的には明るいイメージの季語「日脚伸ぶ」に瞬時不安の影を落とすことで、句としては見事に定まった……。しかし、このお子さん、その後無事に就職することができただろうか。時代が時代ゆえに、後を引く句だ。金曜句会合同句集『すみだ川・第二集』(2002)所収。(清水哲男)


January 1912002

 天仰ぐ撃たれし兵も冬の木も

                           野中亮介

語は「冬の木(冬木)」。むろん常緑樹もあるけれど、この季語には葉を落とした寒そうな木のほうが似つかわしい。木を人間に見立てることは昔からよく行われており、絵本などではすっかりお馴染みだ。木も人も単独に細長く立ち、枝が手に通じるので、連想が生まれやすいのである。そういう目で意識して木を眺めてみると、とくに枯れ木は輪郭がはっきりしているから、すぐにいろいろな人の形に見えてくる。作者の場合は「撃たれし兵」に見えたわけだが、見えた背景には、現今の緊迫した世界情勢があるだろう。そしてこのときに、作者もまた「冬の木」とともに、天を仰いでいることを見落としてはなるまい。寒々とした木を見上げながら、長嘆息している様子が目に浮かぶ。ところで、この「撃たれし兵」への連想は、十中八九間違いないと思うが、ロバート・キャパの有名な戦場写真と重なっている。スペイン動乱の戦線で撮影し「ライフ」に掲載された「敵弾に倒れる義勇兵」だ。ロー・アングルからの撮影ということもあるが、撃たれた瞬間の兵は両手をひろげ天を仰いでいる。手元に写真がないので思い出しながらの印象では、あの義勇兵はたしかに細身で枯れ木のようでもあった。六十年以上も昔の写真が、いまこうして私によみがえるとは、それこそ長嘆息ものではないか。ちなみに、作者は四十代。もとより戦場の体験はない。「俳句研究」(2002年2月号)所載。(清水哲男)


January 2012002

 獄凍てぬ妻きてわれに礼をなす

                           秋元不死男

語は「凍つ(いつ)」で冬。戦前の獄舎の寒さなど知る由もないが、句のように「凍る」感じであったろう。面会に来てくれた妻が、たぶん去り際に、かしこまってていねいなお辞儀をした。他人行儀なのではない。面会部屋の雰囲気に気圧された仕草ではあったろうけれど、彼女の「礼」には、夫である作者だけにはわかる暖かい思いが込められていた。がんばってください、私は大丈夫ですから……と。瞬間、作者の身の内が暖かくなる。さながら映画の一シーンのようだが、これは現実だった。といって、作者が盗みを働いたわけでもなく、ましてや人を殺したわけでもない。捕らわれたのは、ただ俳句を書いただけの罪によるものだった。作者が連座したとされる「『京大俳句』事件」は、京都の特高が1940年(昭和十五年)二月十五日に平畑静塔、井上白文地、波止影夫らを逮捕したことに発する。当時「京大俳句」という同人誌があって、虚子などの花鳥諷詠派に抗する「新興俳句」の砦的存在で、反戦俳句活動も活発だった。有名な渡辺白泉の「憲兵の前ですべつてころんじやつた」も、当時の「京大俳句」に載っている。ただ、この事件には某々俳人のスパイ説や暗躍説などもあり、不可解な要素が多すぎる。「静塔以外は、まさか逮捕されるなどとは思ってもいなかっただろう」という朝日新聞記者・勝村泰三の戦後の証言が、掲句をいよいよ切なくさせる。『瘤』所収。(清水哲男)


January 2112002

 金借りて冬本郷の坂くだる

                           佐藤鬼房

和初期、作者十九歳の句。「本郷」は東京都文京区の南東部で坂の多い町だ。句の命は、この本郷という地名にある。いまでこそ一般的なイメージは薄れてきたようだが、その昔の本郷といえば、東京帝国大学の代名詞であった。そんな最高学府のある同じ町で、作者は貧しい臨時工として働いていた。生活のために金を借りて本郷の坂道を「くだる」ときの思いには、当然のように天下の帝大への意識が働いていただろう。六歳で父親を失い、本を読むことの好きだった若者としては、家庭環境による条件の差異が、これほどまでに進路を制約するものであることを、このときに痛切に実感したのである。そんなことはどこにも書いてないけれど、「本郷の坂」と地名を具体的に書いた意味は、そこにある。のちに鬼房は「わが博徒雪山を恋ひ果てしかな」と詠んだ。「わが博徒」とは、若き日の野心を象徴している。野心のままに故郷を離れ、「雪山を恋ひ」つつもあくせくと都会で生きているうちに、いつの間にか我が野心も「果て」てしまったという自嘲句である。作者は戦後の「社会性俳句」を代表する存在と言われるが、この種の句を拾っていくと、むしろ石川啄木などに通じる抒情の人であったと言ったほうがよいように思う。一昨日(2002年1月19日)、八十二歳で亡くなられた。合掌。『名もなき日夜』(1951)所収。(清水哲男)


January 2212002

 ストーブにビール天国疑はず

                           石塚友二

しさを開けっぴろげにした句。「ビール天国」ではなくて、「ビール」と「天国」は切れている。句意は、入浴の際に「ああ、ゴクラク、ゴクラク」と言うが如し。天国ってのは、きっとこんな楽しいところなんだろうと、勝手に無邪気に納得している。作者のはしゃぎぶりがよく伝わってきて、ビール党の私には嬉しい句だ。ただし、こういう句は、句会などでの評価は低いでしょうね。「ひねり」がない。屈託がない。ついでに言えば、馬鹿みたい……と。とくに近代以降の日本の文芸社会では、こうした明るい表現には点が辛いのだ。むろん、それなりの必然性はあるわけだが、ために喜怒哀楽の「怒哀」ばかりが肥大して、人間の捉え方が異常なほどにちぢこまってしまっている。表現技術のレベルも「怒哀」に特化されて高められてきたと言っても過言ではあるまい。べつに掲句を名句だとは思わないけれど、このあたりから鬱屈した文芸表現の優位性を、少しでも切り崩せないものだろうか。もっともっと野放図に放胆に明るい句はたくさん作られるべきで、その積み重ねから「喜楽」に対する表現技術も磨かれてくるだろう。『新歳時記・冬』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)


January 2312002

 王冠のごとくに首都の冬灯

                           阿波野青畝

後も間もなくの句。季語は「冬灯(ふゆともし)」だが、単に冬の燈火を指すのではなく、俳句では厳しい寒さのなかのそれを言ってきた。空気が澄みきっているので、くっきりと目に鮮やかだ。掲句の灯は、復興いちぢるしい東京の繁華街のネオンのことを言っている。高いところで、さながら豪奢な「王冠」のようにキラキラと輝いている。「東京がゴッツイ王冠をかぶっとる。さすがやなア。よう見てみなはれ、ゴウセイなもんやないかい」と、関西人である作者は感嘆している。……と受け取った読者は、まことに善良な性格の持ち主だ(笑)。なんのなんの、生粋の関西人がそう簡単にネオンごときで「首都」を褒め称えるわけがない。たしかに最初は目を見張ったかもしれないが、たちまち「なんや、よう見たら、あれもこれもヤスモンの瓶の蓋みたいなもんやないか、アホくさ。おお、サブゥ」となったこと必定である。つまりこの句には、そんな毀誉褒貶をとりまぜた面白さがある。どちらか一方の解釈だけでは、あまりにも単純でつまらない。形が似ているところから、ブリキ製のビール瓶などの蓋のことを、当時は俗に「王冠」と呼んでいた。この言葉が聞かれなくなって久しいが、そもそもの本家(!)の王冠の権威が、すっかり薄れてしまったことによるのだろう。『紅葉の賀』(1955)所収。(清水哲男)


January 2412002

 竹薮の日を踊らせて空っ風

                           福田千栄子

語は「空っ風(空風)」で冬、「北颪(きたおろし)」などとも。天気のよい日中に、山越しに吹き下りてくる季節風だ。上州(群馬)では昔から「かかあ天下に空っ風」と、その猛烈な勢いを言い習わしてきた。関東地方に多く吹くが「罐蹴りや伊吹颪は鬼へ吹く」(日比野安平)のように、他の地方にも呼び名の違う名物のような空風がある。伊吹は滋賀。掲句は、吹きすさぶ様子を「竹薮」に認めることで、すさまじさを的確に表現している。丈の高い竹群がいっせいに揺れるのだから、大揺れの竹の合間に透けて見える太陽の光りは散乱明滅し、さながら踊っているようだ。それも、狂うがごとくと言うのだろう。「日」が射しているだけに、逆に荒涼感も強い。ただ「竹薮の」という措辞が、少々気になった。「竹薮に」としたほうが、同じ情景でも、句のスケールが大きくなるのではあるまいか。私も一度だけ、前橋(群馬)で本格的なヤツに遭遇したことがある。まず、まともに目を開けていられない。おまけに私はコンタクト・レンズを装着しているので、痛さも痛し、うずくまりたくなるほどだった。「かかあ天下」はともかく、とてもここでは暮らせないなと思ったことである。『新版・俳句歳時記』(2001・雄山閣出版)所載。(清水哲男)


January 2512002

 かの鷹に風と名づけて飼ひ殺す

                           正木ゆう子

語は「鷹」で冬。鷹の種類は多く夏鳥もいるのだが、なぜ冬季に分類されてきたのだろう。たぶんこの季節に、雪山から餌を求めて人里近くに現れることが多かったからではあるまいか。一読、掲句は高村光太郎の短い詩「ぼろぼろな駝鳥」を思い起こさせる。「何が面白くて駝鳥を飼ふのだ。/動物園の四坪半のぬかるみの中では、/脚が大股過ぎるぢやないか。……(中略)これはもう駝鳥ぢやないぢやないか。/人間よ、/もう止せ、こんな事は。」。心情は同根だ。「風」などと格好良い名前をつけられてはいても、結局この鷹は、生涯颯爽と風を切って飛ぶこともなく「飼ひ殺」しにされてしまうのだ。「俳句」(2002年2月号)を読んでいたら、作者はこの句を、動物園で見たみじめな状態の豹に触発されて詠んだのだという。「あきらめきった美しい豹」。となれば、なおのこと句は光太郎詩の心情に近似してくる。ただ、詩人は「もう止せ、こんな事は」と声高に拳を振り上げて書いているが、句の作者はおのれの無力に拳はぎゅっと握ったままである。これは高村光太郎と正木ゆう子の資質の違いからというよりも、自由詩と俳句との様式の違いから来ているところが大だと思った。いまの私は「もう止せ」と静かに言外に述べている俳句のほうに、一票を投じたい。俳誌「沖」(1989)所載。(清水哲男)


January 2612002

 木偶の眼のかたりとねむる寒夜かな

                           郡司正勝

者は、歌舞伎研究家として著名。句集が二冊あることを、大岡信の著書で知った。「木偶(でく)」は、あやつり人形。この場合は、文楽の人形のことだ。舞台で生命あるもののごとく動く人形に、寒夜思いを馳せていると、舞台を下りてもなお、吹き込まれた生命のままにある姿が浮かんでくる。と、「かたり」とかすかな音がした……。「かたり」と音をさせ瞼を閉じて、いま人形が眠りに就いたのである。もとより想像の世界ではあるけれども、さながら実景のように心に沁みる。「かたり」と「寒夜」の「カ」音の響きあいも、冬の夜の厳しい寒さに通じて秀逸だ。他方で「ねむる」の平仮名表記は、眠りに落ちる安らかさを表現するためのそれだろう。楽屋かどこか、寒気に満ちた殺風景な部屋に置かれた人形だが、決して荒涼たる思いで眠りに就いたのではない。作者の人形に対する愛情が、この平仮名表記に込められたのだと思う。眠る人形といえば、寝かせると眼を閉じる女の子のための玩具人形がある。あれは、どことなく気味が悪い。本物の人間に近づけようとした工夫であるには違いないが、文楽人形とは異なり、ただ一つの機能に特化した工夫だからだ。生きて見えるのは眼だけで、全身の機能と有機的に連動していないからである。『かぶき夢幻』所収。(清水哲男)


January 2712002

 切干大根ちりちりちぢむ九十九里

                           大野林火

語は「切干(きりぼし)」で冬。一般的な切干は、大根を細かく刻んで乾燥させたものを言う。サツマイモのもある。寒風にさらして、天日で干す。「九十九里」浜は千葉県中東部に位置し、太平洋に面する長大な砂浜海岸。北は飯岡町の刑部岬から南は岬町の太東崎に至る長さ約60キロの弧状の砂浜だ。九十九里にはとうてい及ばない距離なのだけれど、実際に行ってみると、命名者の思い入れは納得できる。源頼朝が六町を一里として矢をさしていき、九十九里あったところから命名されたという説もあるそうだ。掲句の面白さの一つは、この見渡すかぎりの砂浜に、まことに小さく刻まれた大根が干されてあるという対比の妙である。それも、どんどん乾いて小さくなっていくのだから、なおさらに面白い。もう一つは「ちりちりちぢむ」の「ち」音の重ね具合だ。あくまでも伸びやかな雰囲気の砂浜に比して、身を縮めていく大根の様子を形容するのに、なるほど「ちりちり」とはよく言い当てている。このときに作者もまた、晴天ゆえの寒風に身を縮めていたに違いない。妙なことを言うようだが、多く「ち」音の言葉には、どこか小さいものを目指すようなニュアンスがある。私は別に、英語の「chilly」もふと思ったが、そこまではどうかしらん。切干大根は、油揚げと煮たのが美味い。おふくろの味ってヤツですね。『新歳時記・冬』(1989・河出文庫)などに所載。(清水哲男)


January 2812002

 白鳥の首つかみ振り回はす夢

                           高山れおな

語は「白鳥」で冬。どうなることかと読み下していって、最後の「夢」でほっとさせられる。夢では何でもありだから、こんな夢もあるよね。と、気楽に読み捨てにできないところが、掲句の魅力だ。人間誰しも、ときに凶暴な衝動にかられるときがあるだろう。日常生活では厳しく自己抑制している感情だから、たまには夢のなかで爆発したりする。わけもなく、上品でしとやかなイメージの「白鳥」の首根っこを無理無体につかまえて、わめかばわめけと「振り回はす」ようなことが起きる。でも、人間とは哀しいもので、たとえ夢の中にせよ、そのうちに日常の倫理観がよみがえってくるのだ。白鳥を振り回したまではよかったが、次第に凶暴な感情が醒めてきて、「ああ、俺はとんでもないことをやっている。こんなこと、しなければよかった」と思いながらも、しかし、もう手遅れである。できれば、なかったことにしたい。が、現にこうやって振り回している事実は、消えてはくれない。どうにもならない。身の破滅か。……と、自責の念が最高度に高まったところで、はっと目が醒めた。夢だった。ああ、よかった。助かった。ここで読者もまた、同様な気持ちが理解できるので、安堵するという仕掛けの句だ。夢でよかったという思いは、夢の中での被害者としてか、あるいは句のように加害者としてなのか、自分の場合は、どちらが多いのだろう。そんなことを考えさせられる一句でもありますね。『ウルトラ』(1998)所収。(清水哲男)


January 2912002

 電話ボックス冬の大三角形の中

                           今井 聖

は大気が澄み、凍空の星の光は鋭く近くに見える。「冬の大三角形」は、3つの星座の明るい星を結ぶと、大きな三角形ができることから命名された。オリオン座α星ベテルギウス(0.4等)、おおいぬ座α星シリウス(−1.5等)、こいぬ座α星プロキオン(0.4等)の三つの星を結ぶ(位置を確かめたい方は、こちらで)。季語にはないので、当歳時記では「冬の星」に分類した。その「大三角形の中」に「電話ボックス」がぽつんと一つ灯っている。電話ボックス自体が、さながら宇宙空間に浮かんでいるようだ。幻想的なイメージの美しさ。宮沢賢治を思い出した。谷内六郎の絵のようでもある。ところで、この電話ボックスの中に、人はいるのだろうか。私の好みでは、無人が望ましい。誰かがいるとなると、地上的現実がいわば錘となって、宙には浮かないような気がするからだ。どうしても人を存在させたいのなら、架空の人物にしてほしい。松本零士描くところの透明感のある美女だったら、確実に宙に浮くだろう。余談だが、我が町三鷹市の国立天文台では、月に二度ほど天体観望会を催している。実施条件に「快晴の夜以外は中止」とある。掲句の空も、むろん快晴でなければならない。『谷間の家具』(2000)所収。(清水哲男)


January 3012002

 米磨げばタンゴのリズム春まぢか

                           三木正美

歳時記では「春近し」に分類。いかにも軽い句だけれど、あまり仏頂面して春を待つ人もいないだろうから、これで良い。四分の二拍子か、八分の四拍子か。気がつくと「タンゴのリズム」で「米を磨(と)」いでいた。たぶん、鼻歌まじりにである。なるほど、タンゴの歯切れの良い調子は、シャッシャッと米を磨ぐ感じに似あいそうだ。想像するに、作者は直接手を水につけて磨いではいないようである。何か泡立て器のような器具を使っていて、それがおのずからシャッシャッとリズムを取らせたのだろう。手で磨ぐ場合には、そう簡単にシャッシャッとはまいらない。そんなことをしたら、米が周囲に飛び散ってしまう。子供時代の「米炊き専門家」としては、そのように読めてしまった。ちなみに作者は二十代だが、私の世代がタンゴを知ったのは、ラジオから流れてきた早川真平と「オルケスタ・ティピカ・東京」の演奏からだ。アルゼンチン・タンゴを、正当に継承した演奏スタイルだったという。でも、歌謡曲全盛期の私の耳には、とても奇異な音楽に思えたことを覚えている。いつだったか辻征夫に「『ラ・クンパルシータ』って、どういう意味なの」と聞かれても、答えられなかったっけ。ま、私のタンゴはそんな程度です。「俳壇」(2001年4月号)所載。(清水哲男)


January 3112002

 風鬼元風紀係よ風花す

                           坪内稔典

語は「風花(かざはな)」で冬。晴天にちらつく雪。晴れてはいるが、風の吹く寒い日の自然現象だ。句は「風」を三つも持ちだして、徹底的に遊んでいるわけだが、妙に心に沁みてくる。「風紀係」のせいだろう。敗戦直後の民主主義勃興時の学校では、学級委員のなかでも「風紀係」がもっとも実効性を発揮できた。ハンカチを忘れてないかとか、買い食いをしなかったかだとかをチェックする係。いま思うに、この係だけは、戦前からの価値観をそのまま適用でたので動きやすかった。真面目な子が選ばれ、チェックの厳しかったこと。それに引き換え、名のみトップの「委員長」なんて係は、たとえば男女平等の理念はわかるとしても、実際に教室で何かが起きると、具体的にはなかなか反応できないのであった。ついでに言えば、私は永遠の「書記係」で、ついに今でもそのような者である。さて、いまや「元風紀係」は天に召され「風鬼(ふうき・風の神)」となって、あいかわらず地上のチェックには余念がない。「風花」も、彼ないしは彼女の真面目な働きの一貫だと、作者は言うのだろう。せっかく晴れていて、みんなが機嫌よくふるまおうとしているのに、わざわざ雪をちらつかせる(チェックを入れる)こともあるまいに……。一応こんなふうに読んでみたが、どうだろうか。掲句を一読、私たちの「風紀係」だったあいつを思い出した。どうしているだろう。『月光の音』(2001)所収。(清水哲男)




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