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January 0312002

 双六のごとく大津に戻りをり

                           鈴木鷹夫

語は「双六(すごろく)」で新年。歌ガルタよりもすたれた正月の遊びが、双六だろう。今の子には、もっと面白い遊びがある。私の子供の頃には、少年雑誌の附録に必ず双六があった。組み立てて使うサイコロの付いていたところが、いかにも敗戦直後的。掲句だが、昔の双六の上がりは「京」と決まっていたけれど、近くの「大津(滋賀県)」あたりまで行くと、なかなか上がれない仕組みになっていた。今度こそとサイコロを振っても、また「元に戻る」と出て「大津」に戻される。作者は実際に正月に旅をしているわけだが、何か大津に忘れた用事でも思い出したのか。京都に入る直前から、また大津に取って返した。これではまるで双六みたいだと、苦笑している。ところで『新日本大歳時記・新年』に、草間時彦がこんな文章を寄せていた。初句会では、よく双六などのすたれた遊びも席題となる。「双六という題を貰った俳人は、どうやって句を作ればよいというのだろう。正月の季語の源泉となるしきたりや行事が亡びつつある現代で、正月の季題を詠むにはノスタルジアに頼るよりほかにない。子供の頃をなつかしく思う心である。双六のさいころが青畳の上にころげていたときの思いを現代に生かすのが正月の俳句の作句法だと私は思っている」。同感するしかないが、となれば、掲句はそのノスタルジアを現代に生かした好例と言うべきか。『合本俳句歳時記』(1997・角川書店)所載。(清水哲男)


December 09122014

 野良猫に軒借られゐて漱石忌

                           尾池和子

際には猫より犬派だったようだが、漱石といえば猫、そして夏目家の墓がある雑司が谷界隈には野良猫が実に多い。野良猫の寿命は4〜5年といわれ、冬を越せるかどうかが命の分かれ目ともいわれる。先日、冷たい雨を軒先でしのいでいる猫のシルエットに気づいた。耳先がV字型にカットされている避妊去勢済みの猫である。縁側で昼寝をするほどの顔なじみではあるが、一定距離を保つことは決めているらしく、近づくと跳んで逃げる。ああ、またあの猫だな、と思いつつ、野良猫に名前を付けることはなんとなくはばかれ、白茶と色合いで呼んだりしている。そういえば『吾輩は猫である』の一章の最後に吾輩は「名前はまだつけてくれないが、欲をいっても際限がないから生涯無名の猫で終るつもりだ」とつぶやいていた。軒先で雨宿りする猫はどう思っているのだろう。漱石忌の今日もやってきたら、きっと名前を付けてあげようかと思う。「大きなお世話」と言われるだろうか。〈ふくろふに昼の挨拶してしまふ〉〈双六に地獄ありけり落ちにけり〉『ふくろふに』(2014)所収。(土肥あき子)




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