January 082002
冬の雨花屋の全身呼吸かな
津田このみ
同じ程度の降りなら、雪よりも「冬の雨」のほうが、実際の気温とは裏腹に寒く冷たく感じられる。暗くて陰鬱だ。『四季の雨』(作詞者作曲者ともに不詳)という文部省唱歌があって、歌い出しは「聞くだに寒き冬の雨……」と、まず寒いイメージが強調されている。そんな雨のなかを身をちぢめて歩いているうちに、「花屋」の前に出た。ぱっと明るい春の花屋に比べれば、冬の花屋の色彩はさすがにバリエーションに乏しい。乏しいけれど、店の花々はこの冷たい雨を受け入れ、「全身」ですこやかに「呼吸」しているように見えた。ひっそりと、しかし確実に充実した時間のなかにある花々に、作者は静かな感動を覚えたのである。花屋を色彩的にスケッチした句はよくあるが、掲句は花々の生理に就いて詠んでおり出色だ。他の季節とは違う「冬の雨」ならではの句景である。ちなみに『四季の雨』のそれぞれの季節は、次のように歌い出されている。「降るとも見えじ春の雨……」「俄(にわ)かに過ぐる夏の雨……」「おりおりそそぐ秋の雨……」。メロディーが、また素晴らしく美しい。『月ひとしずく』(1999)所収。(清水哲男)
December 012005
冬の雨火箸をもして遊びけり
小林一茶
季語は「冬の雨」。時雨とはちがって、いつまでも降り続く冬の雨は侘しい。降り方によっては、雪よりも寒さが身に沁みる。芭蕉に「面白し雪にやならん冬の雨」があるように、いっそのこと雪になってくれればまだしも、掲句の雨はそんな気配もないじめじめとした降りようだ。こんな日は、当然表になど出たくはない。かといって、鬱陶しさに何かする気も起こらず、囲炉裏端で「火箸をも(燃)して」遊んでしまったと言うのである。飽きもせずに火箸をもして、真っ赤に灼けたそれを見ながら、けっこう真剣な顔をしている一茶の姿が目に浮かぶ。したがって、句はそんな自分に苦笑しているのではない。むしろ、そんなふうに時間を過ごしたことに、侘しさを感じると同時に、他方ではその孤独な遊びにほのかな満足感も覚えている。侘しいけれど、寂しいけれど、そのことが心の充足感につながったというわけだ。そしてこの侘しさや寂しさをささやかに楽しむという感覚は、昔の人にしては珍しい。この種のセンチメンタリズムが一般的に受け入れられるようになったのは、近代以降のことだからである。子供の歌だが、北原白秋に「雨」がある。遊びに行きたくても、傘はないし下駄の鼻緒も切れている。仕方がないので、家でひとり遊びの女の子。「♪雨が降ります 雨が降る/お人形寝かせど まだやまぬ/おせんこ花火も みなたいた」。上掲の一茶の句には、まぎれもなく白秋の抒情につながる近代的な感覚がある。孤独を噛みしめて生きた人ならではの、時代から一歩抜きん出た抒情性が、この句には滲み出ている。『大歳時記・第二巻』(1989・集英社)所載。(清水哲男)
November 192006
永遠の待合室や冬の雨
高野ムツオ
何を待つ「待合室」かによって、この句の解釈は大きく変わります。すぐに思い浮かぶのは駅です。しかし、「永遠」という語の持つ重い響きから考えて、これはどうも駅の待合室ではないようです。もっと命に近い場所、あるいは、命を「永遠」のほうへ置くための場所、つまり斎場のことを言っているのではないかと思われます。この句はわたしに、過去のある日を思い出させます。どのような理由によってであれ、大切な人を突然失うことの意味を、わたしたちは俄かに理解することはできません。理解する暇もなく、次から次へ手続きは進み、気がつけば「待合室」という名の部屋に入らされ、めったに会うことのない親戚の中で、飲みたくもないお茶を飲んでいるのです。ひたすらに悲しみが押し寄せてくる一方で、よそ事のような感覚も、時折入り込んできます。切羽詰った悲しみと、冷えた無感情が、ない交ぜになって揺れ動いています。扉は開き、名が呼ばれ、事が終わったことが知らされ、靴を履き、向かうべき場所へ向かう途中で、明るすぎるほどの廊下へ案内されます。高い天井の下、呆然としてガラス張りの壁の向こうを見つめていました。その日も外にはしきりに、冷たい雨が降っていたと記憶しています。『生と死の歳時記』(法研・1999)所載。(松下育男)
January 202008
冬の雨下駄箱にある父の下駄
辻貨物船
玄関脇の、靴を収納する場所を今でも「下駄箱」というのだなと、この句を読みながら思いました。わたしが子供の頃には、それでも下駄が何足か下駄箱の中に納まっていました。けれど、マンションに「下駄箱」とは、どうにも名称がしっくりいきません。下駄というと、「鼻緒をすげる」というきれいな日本語を思い浮かべます。「すげる」というのは「挿げる」と書いて、「ほぞなどにはめ込む」という意味です。「ほぞ」という言葉も、なかなか美しくて好きです。さて掲句、たえまなく降り続く冬の雨から、玄関の引き戸を開けて、視線は薄暗い下駄箱に向かいます。その一番上の棚に、父親の大きな下駄がきちんと置かれています。寒い湿気が玄関の中に満ち、しっとりとした雰囲気を感じることができます。句は、父の下駄が下駄箱の中にあると、そこまでしか言っていません。しかしわたしにはこれが、「父の不在」を暗示しているように読めてしまいます。勝手な想像ですが、この家の主はもう亡くなっているのかもしれません。それでも日々履いていた下駄だけは、下駄箱のいつもの場所に置いておきたいという思いが込められているように感じるのです。この世の玄関に、その人がふっともどってきたときに、すぐに取り出せるように。『新選俳句歳時記』(1999・潮出版社)所載。(松下育男)
January 232011
冬の雨硝子戸越しに音を見る
小林紀彦
目が覚めて、朝の新しい雨の音を布団の中で聞いているのが、好きです。勤めのない土曜日の朝であれば、なおさらよく、ああ降っているなと思って、外の濡れた姿をしばらく想像して、それから再び眠りに落ちてゆきます。関東地方に長年住んでいると、しかし冬はひたすら晴天ばかりです。長い冬のあいだを、積雪に苦労をしている地域の人々からみれば、なんと贅沢なことかといわれるかもしれません。今日の句の工夫は、「音を見る」としたところ。特段すごい表現だとは思いませんが、それでもそう言いたくなる気持ちはよくわかります。目に見える姿と、かすかに聞こえる音がぴたりとあわさって、雨をぜんたいで受け止めようとしているようです。ちょっとひねっただけで、句はこれほどに生き生きとしてくるものかと、あらためて句の音を、みつめます。「朝日俳壇」(「朝日新聞」2011年1月23日付)所載。(松下育男)
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